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(35)二人の覚悟「迷ったら、信じて欲しい。――全力で応える」

( 35 )


 マクシムは膝をついて、二人目の刺客の遺体を検めた。刺客の体つきは鍛え上げられ、首にはセイレーンの刺青(タトゥー)があった。


 この刺青は、ドーラ海峡から北海を騒がす海賊の証である。エレーヌの脳裏に、エルドラード大使の言葉がよぎる。


『――王太子殿下にお気をつけ下さい』

「まさか……この刺客を放ったのは……」


 エレーヌは辿々しく言葉を紡いだ。手足が震えて、喉に力が入らない。

 あの忠告について、エレーヌは深く考えなかった。制海権付きで嫁ぐとはいえ、エルドラード宮廷ではよくよく言動に気をつけろ。そういう意味だと思い込んでいた。


 マクシムは振り向かない。彼は刺青を見下ろしたまま、淡々と話した。


「警告のつもりだったんだろうね。……エルドラードの王太子は、この混乱に乗じて君を消すつもりだ」


 エレーヌは拳を握り込んだ。エルドラードの軍事は王太子が握っている。ならば、トーラス港の海軍に頼るのは無意味だ。彼はエレーヌの死を望んでいるのだから。

「……エレーヌは、どうしたい?」


 マクシムは立ち上がり、エレーヌの目の前に立った。その頬に返り血がついていることに気づき、エレーヌは唇を戦慄かせた。


「わたし、ひとりで宮殿に戻ります。……だから、マクシムさまは」

「意地っ張りも大概にしなよ」


 マクシムは声を低くして、一歩距離を詰める。後ずさろうとするエレーヌの手首を掴んで少女の動きを封じてしまう。


「君は味方が欲しいはずだ。一人で戻っても、国王陛下の足手まといになるだけだと理解もしている。聖ゲルト騎士団副総長の地位を持つ俺を味方につければ、エルドラードの海軍に及ばずとも武力は集まる。エレーヌは、とっくに気付いてる。俺は、君にとても都合の良い人間のはずだ」

「それは……」


 確かに彼の言う通りだ。聖ゲルト騎士団を動かすためにはいくつかの制約があるものの、現在総長は病により多くの権限を副総長のマクシムに委ねている。


 マクシムは、聖王庁の許可を待たず、一個師団を動かすことが許されている。


「けれど……皇帝陛下の意に背くことになるのではないですか?」


 兄もわかっていたはず。しかし、マクシムに一個師団を要請しなかったのは、イシュルバート側の真意が分からなかったからだ。マクシムが苦笑する。


「どうして俺を選ばないのかと思ってたけど、エレーヌは俺のことを信じられないんだね」

「違います! ――嫌なんですっ」


 エレーヌは涙を散らして叫んだ。マクシムが深緑の瞳をすうっと細める。彼の纏う雰囲気が冷えていく。

 エレーヌは両手で顔を覆った。戦争で傷ついた彼に、武力を求めることはしたくない。彼の手を血で汚したくない。


「嫌なの。あなたが傷ついて、死んでしまったら、わたし……」

「エレーヌ」


 マクシムは、ゆっくりとエレーヌの両手を握って下ろした。エレーヌは涙に濡れた顔を晒す。


「前に言ったこと、覚えてる?」


 エレーヌより二回りも大きい手のひらが、濡れた頬を包みこむ。エレーヌが瞬きをすると、マクシムは柔らかく微笑んだ。


「迷ったら、信じて欲しい。――全力で応える」

「マクシムさま……」


 マクシムがエレーヌの頬に手を添えて、優しく微笑む。エレーヌの青玉の瞳が潤む。


「俺は、エレーヌが巻き込んでくれるのをずっと待ってるんだよ」

「――て……」


 ほろほろと涙をこぼしながら、エレーヌは嗚咽まじりに囁いた。マクシムはうまく聞き取れず首を傾げる。


「ごめん。もう一度……」


 エレーヌは地面を蹴って、その胸に飛び込んだ。そして、マクシムの首裏に縋り付いて、繰り返した。


「そばにいて。絶対に死なないで。わたしを、離さないで」


 マクシムは震える背中に、そっと腕を回す。そして、穏やかに笑った。


「そばにいる。……絶対に離さない」


 エレーヌはマクシムの腕の中で頷いて、微笑み返した。


 エレーヌとマクシムは王族専用区域に戻り、西翼の三階へと登った。

 そこから見えたのは、数えきれないほどの赤い光だった。

 宮殿の広場には、松明を持った民衆たちが詰めかけていた。彼らは憎悪に満ちた眼差しで宮殿を見据え、松明を振りかざす。

 彼らは、()れ歌を繰り返し合唱している。


   ――王宮にまします我らが父よ

   ――汝の名はもはや讃えられず

   ――汝の声を聞く者もおらず

   ――我らに日々のパンを与えよ


 男たちは、中央広場のシンボルツリーである(オーク)に斧を振るった。女たちが囃し立てる。暴徒に与した兵士はラッパを吹き鳴らす。

 やがて、中央玄関の縁廊に立った近衛兵と民衆の斥候がぶつかり合った。民衆は、理性を手放して猛進する。最前線の仲間が盾に押し潰されても退かない。

 彼らは、ぼろ切れのようになった骸を踏みつけていく。エレーヌはたちまち吐き気を覚えて口を覆った。


「エレーヌ」

「……ごめんなさい。大丈夫です。お兄さまは、大回廊にいらっしゃるはず」


 近衛兵は王の意を汲み、盾を掲げても決して武器を抜かないでいる。国王は、武力制圧ではなく、対話を選んだ。直に民衆の意見を聞こうと、静かに待ち構えているだろう。義姉も隣にいるはずだ。


 エレーヌとマクシムが大回廊に辿り着くと同時に、銃声が響いた。

 一発、二発。やや間を置いて、三発目。

 そして、恐ろしいほどの静寂が訪れる。


 ざわりと悪寒が背筋を這い上がる。エレーヌはまろぶように走った。隣でマクシムが抜刀する。

 薄暗い大回廊の先、松明が何かを取り囲んでいる。エレーヌは、大理石の床に視線を落として、たまらず叫んだ。


「お兄さま! お義姉さま!」


 闇夜からふいに現れた少女の姿に、人垣がどよめきながら割れる。

 毛足の長い絨毯には血の海が広がっていた。その中心には、王妃と、彼女に覆いかぶさるようにして倒れる国王がいた。

 王妃は眼を開いたまま事切れていたが、国王はまだ息があった。マクシムが傷口に清潔な手巾を詰め込んで止血に入る。

 その光景を見て、呆然としていた者たちが慌てふためいた。長い棒で抑え付けていた大司教と大法官を解放して、口々に急かす。


「おい、医者を呼べよ! 宮殿にはいねえのかよ!」

「お前たちのせいだよ! 王妃だけって言ったのに!」

「仕方ねえだろこんな銃、使ったことがねえんだから!」

「つべこべ言う暇があるのなら、外の人間を鎮めてこい!」


 マクシムの一喝で、言い合いをしている男女はたちまち口をつぐんで仲間と共に外に引き返した。そこでやっと大司教と大法官が我を取り戻した。


「宮内伯! 侍医を、侍医を!」

「陛下はまだ生きておられる! 早く!」

「お兄さま、お兄さま……!」


 エレーヌは国王に縋り付いて、必死に呼びかけた。兄の息はかぼそく、エレーヌと同じ青い瞳から光が失われていく。

 それでも。国王は妹が戻ってきたことを理解した。そして、ぎこちなく右腕を動かす。エレーヌはその手を取った。

 その時、兄が何かを握りしめていて、それをエレーヌの手のひらに収めたことがわかった。妹の手のひらを握り、彼は血を吐きながら言った。


「え、れ……。彼らを、許せ……」

「お兄さま」

「許せ……。決して、争いに、するな」


 国王の力が弱まり、ずるりと手が床に落ちる。エレーヌの手のひらに、玉璽が残された。エレーヌは、はっと兄を見る。

 国王は王妃の骸を抱きしめるようにして、最後の一息をついた。


「……リアーヌ……」


 それきり、国王の瞳から光が消えた。


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