(34)放たれた刺客「我らが狙うは王妹のみ。大公は傷付けるなと言われている」
( 34 )
王室礼拝堂の上空を、一羽の鷹が大きく旋回しているのが見えた。やがて、鷹は西の尖塔の向こうに飛んでいく。沈んでいく太陽を追いかけるように。
きっと、あの鷹の眼には宮殿を目指す人の波がはっきりと見えているだろう。
エレーヌは空から視線を下ろし、目の前の兄を見つめた。兄は淡く微笑んで妹を見つめる。
「心配することはない。落ち着いたら呼び戻す」
と、エレーヌの頭を撫でる。その傍らで、王妃が柔らかく頷く。王族専用区域と王室礼拝堂をつなぐ回廊は、灯りひとつなく、夕闇に包まれていた。
「必ず、エルドラード軍を連れて参ります」
「ああ。そのためにも、無事に脱出するんだ」
国王は目を細めてエレーヌを見た。エレーヌは不安をぐっと堪えて、国王夫妻の傍らを見た。大法官と大司教から頷きが返ってくる。そこに、宰相マゼランの姿はない。
(宰相さえ亡命するなんて……)
彼は、反イシュルバート感情を煽り、財政難は王妃の贅沢のせいだと喧伝した。
偏った政治宣伝は瞬く間に貴族と第三身分の熱烈な支持を集め、国王も無視できない存在となった。それでも、兄は彼の意見を冷静に聞く姿勢を崩さなかった。
だというのに、彼は国務諮問会議の休憩時間中に逃げたという。宰相は散々に国民感情を煽った挙句に、その後始末を拒否したのだ。宰相の無責任さに怒りを覚えた。
けれど、彼ばかりを責められない。エレーヌもまた、宮殿を離れようとしている。
「リアーヌ、冒険の準備はできていて?」
王妃はリアーヌを抱きしめて明るく尋ねた。リアーヌは元気よく頷く。
「うんっ! ドラゴンをつれてくるね!」
「ママは人魚の涙が欲しいわ。涙を連ねて首飾りにするの」
久しぶりに母と触れ合い、リアーヌはすっかりご機嫌だ。
王妃は娘を下ろすとエレーヌに皮袋を持たせた。持ち出せる大きさの装飾品が入っている。指輪、ブローチ、飾りピン。いずれも義姉が実家から持ってきたものだ。エレーヌがたまらず顔を上げると、王妃は首を振り、エレーヌを抱きしめた。そして、甘やかに囁く。
「リアーヌをお願いね。陛下のことは任せて。大丈夫、すぐに会えるわ」
「……はい。お義姉さま」
エレーヌは義姉の胸に顔を埋めた。王妃は後ろに控えていたマクシムに頷いてみせた。マクシムは無言で姉を見つめ返し、帝国騎士の礼をとった。
「それじゃあ、いってらっしゃい」
「気をつけるんだぞ」
国王夫妻は、くまのぬいぐるみを抱いて三人を見送った。
リアーヌが大きく手を振って走り出すと、ゆっくり踵を返す。手を深く絡めあい、互いに寄り添い合いながら。
二人は、一度も振り返らなかった。細くたなびく夕陽の中に、二人の姿が消えていく。
(本当にこれでいいの?)
立ち尽くすエレーヌの手を、マクシムが無言で引き寄せる。
礼拝堂の入り口でクルトとマノンと落ち合い、五人は内陣へと向かった。
エレーヌは主神像の傍に座す、聖母像の前に立った。スカートの隠しから銀の鍵を取り出し、聖母の裳裾の影に嵌め込む。
カチリ、と音が鳴った後、祭壇脇の石畳がゆっくりと動く。床下にひと一人分の隙間と古びた石段が現れて、リアーヌは飛び跳ねた。
「わあっすごいねえっ」
「クルト、先に入って灯りを」
「はいよ。ちい姫さん、入るのはちょっと後な。蜘蛛の巣を払わねえと」
クルトは器用に手燭を用意すると、石段を降りて行く。中から鞘を振る音が聞こえる。
「マノン、これを持っていて」
「かしこまりました」
エレーヌは義姉から預かった皮袋をマノンに渡して、姪の前に膝をついた。
リアーヌは、紅茶色の髪をキャスケットにしまって、ブリーチングを穿いている。男の子の格好をして冒険に行くのが、楽しみで仕方ないといった様子だ。エレーヌは微笑む。
「沢山歩くから、ちゃんと靴を履いてね」
「うん!」
エレーヌはまず姪の赤い靴紐を結び直し、襟を整えた。飛び跳ねた時にずれた帽子を直していると、脳裏に嘲る声が木霊した。
――ほら、あたしの言ったとおり。あんたは、ファンデールを捨てて、エルドラードに逃げるじゃないか。
(……ジャンヌ)
この宮殿に残るのは近衛兵が四千人、騎兵隊が二千騎。伝令兵を地方基地に飛ばしたが、到底間に合うはずはない。
だから、トーラス港に寄港しているエルドラード海軍を借りる必要がある。エレーヌはその交渉のために宮殿を離れるのだ。
(それを、逃げるというのではないの?)
冷たい声は、エレーヌ自身のものだった。
「若ぁ、準備完了っす。オレがこのまま先頭行くんで」
「リア、二番のりがいい!」
「姫さま! お姉さまと一緒に行くんですよ」
飛びこみそうな勢いのリアーヌを、マノンが慌てて抱き上げる。「さあ」と、マノンが急かす。しかし、エレーヌの足は根が生えたように動かない。
「わたし……」
「エレーヌ!」
エレーヌが振りむくより先に、背後にいたマクシムが動く方が早かった。マクシムはエレーヌを抱き込んで床に転がる。
一瞬意識が遠のいた後、エレーヌは祭壇前の座席の下にいた。自分が立っていた場所を見て、エレーヌは目を見開く。
そこには、カトラスを持った黒衣の男が立っていた。男の視線がエレーヌに向くと同時に鞘走りの音が鳴り、激しい鍔迫り合いの光が散った。
「マクシムさま……!」
「若!」
「クルト、二人を外に出すな! エレーヌ、そこにいろ!」
抜き身の双剣で刺客のカトラスを受けたのは、マクシムだ。刃を合わせたまま、マクシムは男の鳩尾を蹴り上げた。
しかし、刺客は衝撃を受け流しマクシムと間を取った。そして、静かにこう告げる。
「我らが狙うは王妹のみ。大公は傷付けるなと言われている」
男の言葉に、エレーヌは座席の下から身を起こした。マクシムが振り返って怒鳴る。
「エレーヌ、伏せろ!」
鋭い風切り音とともに、エレーヌの真後ろでうめき声が上がった。エレーヌは振り向いて硬直する。
目の前に、二人目の刺客がいた。刺客の喉元には、双剣のうちの一本が深々と刺さっている。完全に腰を抜かしたエレーヌの傍に、鋭利なナイフが滑り落ちた。
エレーヌは喉を引き攣らせて後退りした。背中が聖母像にぶつかる。
「姫さまっ! 早く、早くこちらに!」
祭壇の下から、マノンの白い手が見える。エレーヌは聖母像に縋るように立ち上がり、ささったままの鍵を、もう一度回した。
祭壇が動き、石畳がゆっくりと横滑りする。エレーヌは半ば這うように石段に近づいて、その隙間に鍵を投げ落とした。
穴の中で、マノンが蒼白な顔でエレーヌを見ている。その腕の中から、リアーヌがエレーヌの元へ行こうともがいているのが見えた。エレーヌは息を吸い込んで叫ぶ。
「リアーヌ! 来ちゃだめ! マノン、リアーヌをお願い。必ず、必ず迎えに行くから」
「姫さ――」
埃を立てて石畳が塞がり、祭壇が元の場所に戻る。エレーヌは気力を振り絞って立ち上がった。そして、黒衣の男を真正面から睨みつける。
「わたしはどこにも逃げない。だから、その人を傷つけないで」
「エレーヌ! 来るな!」
黒衣の男が、不意に力を抜き、高く跳躍した。内陣から距離をおいた男は、じっと二人を見据えたまま、カトラスを下ろす。
マクシムが剣を構え直したその時だった。
いくつもの怒号が響き渡り、大きく爆ぜる音が鼓膜を打つ。地響きによろめくエレーヌを、マクシムが抱き止める。
急いで視線を男に戻した時、そこには誰もいなかった。




