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(33)狂乱の鐘「エレーヌ、俺を見て」

( 33 )


 エレーヌは国務諮問会議に向かう国王を見送った。兄と入れ替わるように、マクシムが執務室に入ってくる。


「陛下とは話せた?」

「マクシムさま……」


 思わず、マクシムに全てを打ちあけたくなる。けれど、唇を噛んで堪える。


「ええ。ちゃんと話せました。……雪、止みましたね」


 エレーヌはさりげなくマクシムに背を向けた。窓枠から床面まである両開きの窓に手をつく。空を見上げると、不吉な赤い雪は止んでおり、真っ赤な黄昏が広がっていた。


 ふと窓硝子に映る自分と目が合う。不安と動揺に染まっていることに気づき、ぎゅっと唇を噛み締める。ここは宮殿。自分は王妹。感情をあらわにしてはならない。


 母の写身(うつしみ)と相対しながら、エレーヌは思考の整理を始めた。


(……リアーヌが王位を継承するとなれば、近隣諸国が黙っていないわ)


 祖父の御代のこと。ファンデールはイシュルバートの帝位継承問題に介入し、戦争を起こした。祖父は女帝――王妃とマクシムの母――ではなく、自分の遠戚を帝位継承者として擁立した。そして、女帝が拒否すると武器を持って帝国領に雪崩れ込んだ。


 血生臭い戦乱の記憶は、まだ人々の記憶に刻み込まれている。リアーヌの立太子の報を聞けば、イシュルバートはその遺恨を晴らそうとするだろう。


(わたしにできることは……エルドラードにリアーヌの立太子を支持してもらうこと)


 エルドラードの海軍は大陸一を誇る。加えて、彼の国は多くの女王が治めてきた歴史を持つ。大陸に先駆けて、全ての女性に選挙権を与えているのもエルドラードだ。


(エルドラードの陛下に、わたしを気に入っていただかなくては)


 そこまで考えて、ぞっと怖気が走る。エレーヌは自身を抱きしめるようにして支えた。

 ファンデールの国情を考えると、結婚が早まるかもしれない。王国軍の精鋭はほとんどがキーシュで従軍している。王都の軍だけでは過激派の動きを抑えられないかもしれない。


 エレーヌから、エルドラード王に軍を出して欲しいとねだればいい。


 そうするべきだ。自分の考えは正しい。分かっているのに、指の震えが止まらない。


(どうして……)


 ふと、背後に人が立つ気配がする。


「エレーヌ?」


 それは、光差す雨のような声だった。エレーヌが振り返ると、マクシムが息を呑む。


「……唇に、血が」

「や……っ」


 マクシムの指先から逃れようと、エレーヌは窓に背を寄せた。エレーヌの拒絶に、マクシムの表情が凍りつく。


「ごめんなさい。大丈夫ですから」

「何か、あった?」


 マクシムは目の前に立ったままだ。距離を詰めない代わりに、エレーヌをまっすぐ射抜く。彼の眼差しを受け止めることが怖くて、エレーヌは視線を横に逸らしたまま話す。


「マクシムさま、どうぞ国に帰るお支度を」

「え?」

「イルヴォンヌ大学は無期限の休校に入るそうです。……あなたに何かあれば、皇帝陛下に申し訳がたちません」

「ちょっと待って」

「兄が旅券の手配をしてくれていますわ。今夜にでも、」

「エレーヌ!」


 マクシムの両手が、エレーヌの背後にある窓硝子につく。彼の腕に囲われて、エレーヌは身動きが取れなくなった。


「……あ……」

「エレーヌ、俺を見て」


 と一心に乞われ、エレーヌは肩を震わせた。昔からエレーヌは彼の声に抗えない。


「エレーヌ」


 呼び声に引っ張られるように、エレーヌは顔を上げる。驚くほど近くに端正な顔があり、鼓動が一気に早くなる。エレーヌは唇を震わせた。


「だめ……」


 このままでは、取り返しのつかないことになる。なのに、視線が反らせない。

 マクシムの深緑の瞳が苦しげに揺れたかと思うと、手首を強く引かれた。気づいた時には、マクシムの腕の中に囚われていた。息もつけないほど強く抱きすくめられる。


「離して……」

「嫌だ」

「……わたしは、エルドラードの王妃に……っ」

「俺は、君を離したくない」


 掠れた声で言われ、ますます強くかき抱かれる。結いあげた髪が緩んで解けてしまう。

 乱れた髪とともに張り詰めた心が崩れ、エレーヌの視界が涙で歪んだ。もう、抗う心は失せていた。


 マクシムは腕の力を緩めて、エレーヌの細い頤を片手でそっと掴んだ。エレーヌは見つめ返す。

 深緑の瞳には仄火(ほのか)が灯っていた。その焔はエレーヌの葛藤を焼き尽くし、ゆるやかに理性を狂わせていく。

 硬い手のひらが、エレーヌの頬を包み込む。青年の指先が、震える乙女の唇をなぞる。


 ――夢現に吐息が触れる直前、せわしない鐘の音が轟いた。


 規則性のない乱れた響きに、二人はたちまち我を取り戻す。

 いち早く冷静になったのはマクシムだ。エレーヌを離し、窓の外に視線を走らせる。


「妙な打ち方だ。……方角からすると、聖母の大聖堂か」


 聖母の大聖堂。エレーヌは全身を包んでいた熱が、一気に冷めていくのを感じた。


「あの大鐘(おおがね)は、時を告げる他に、宮殿に危機を報せるために鳴るのです」


 鐘の打ち方と音程が暗号になっており、それは国王と鐘つきしか分からないのだと聞いたことがある。


「エレーヌ! マックス!」


 執務室の扉が開き、国王が現れる。彼は靴音を響かせて二人の傍にやってきた。


「お兄さま、この鐘の音は一体……」

「王都の民衆が、タンプル駐屯地に貯蔵していた武器を奪った。廃兵院に置いてあった弾薬も全てだ。彼らは、宮殿を目指している」


 エレーヌは衝撃で眩暈がした。マクシムはふらつく細い身体を支えて、国王に尋ねる。


「数はわかりますか?」

「七千人。これにタンプル駐屯兵が加われば……一万人だ」


 一万の暴徒が、こちらに向かっている。エレーヌは気絶しそうになるのをこらえた。


「王妃とリアーヌを頼む。今からムードンの離宮にむかえば……」

「わたくしはどこにも行きませんわ」


 かろやかな声が、執務室に響く。開け放たれた扉の向こうには、ブロケード織りのグラン・コールに身を包んだ王妃が立っていた。

 正装の王妃は女神のように美しく、今の今まで産褥に伏していたとは俄に信じがたい。驚愕に黙り込む三人に、王妃は優艶な笑みを浮かべた。


「あなたの隣が、わたくしの居場所ですもの。何か問題があって?」

「……マリー」


 夫の唇を白い指先で塞いで、王妃は艶然と弟妹たちを見た。


「エレーヌ、おかえりなさい。陛下とお話しする間、リアーヌを頼んでもいいかしら」

「お姉さま……」

「また後でね。――マックス、あなたが守るのよ」


 王妃は弟に向けて片目を瞑り、艶やかに笑った。

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