(32)玉璽の行方「リアーヌを王太子にする」
( 32 )
宮殿の馬車寄せは、恐慌状態だった。貴族たちは女中と下僕にありったけの荷物を運ばせて、我先にとばかりに馬車に乗りこんでいる。
マノンは外階段の上に立ち、主君の帰りを待ち侘びていた。黒山の人だかりに視線を凝らしていると、遠くに白金髪の少女が見えた。黒髪の青年に半ば抱かれるようにこちらへ向かっている。
「姫さま!」
と、マノンが叫ぶと少女の顔が上がる。間違いなくエレーヌだった。マノンはお仕着せの裾を持ち上げて大階段を駆け降りる。エレーヌはマノンの胸の中に飛び込んだ。
「マノン、よかった。怪我はない?」
「ありません。姫さまは、大事ありませんか?」
「マクシムさまと一緒だったから、大丈夫よ。マノン、お義姉さまの様子は分かる?」
「まだ産室で休まれてます。……国王陛下が、王都の騒ぎのことは決して耳に入れるなと。陛下は執務室で姫さまをお待ちです」
「分かったわ。このまま行きます。マクシムさまは……」
「執務室まで送るよ。この状況じゃ、城内も安全とは言い難い」
中央広場の狂騒に比べ、宮殿内は静まり返っていた。エレーヌは東西を貫く大回廊を進む。いつも人が行き交う大回廊には、影一つなかった。皆、逃げる準備で手一杯なのだ。
エレーヌは外套を脱いでマノンに渡し、乱れた髪を手櫛で整えながら歩いた。
ふと、エレーヌは天鵞絨の絨毯の上で視線を止めた。くまのぬいぐるみが転がっている。
姪のぬいぐるみだ。エレーヌは戦慄し、辺りを見回す。
「――リアーヌ! どこにいるの?」
「……ねえしゃま?」
「リアーヌ!」
束ねられた窓帷の裏から、リアーヌがこわごわと顔を出している。エレーヌは走り寄って小さな身体を抱き締めた。叔母が来たと理解したリアーヌは、わあっと泣き始めた。いつから隠れていたのだろう。リアーヌの小さな手は冷え切っていた。
「よかった……! 遅くなってごめんね」
エレーヌの胸でひとしきり泣いたところで、リアーヌはきょろきょろと辺りを見回した。
「くましゃん」
「ここにいるよ」
マクシムが屈んで、腕に抱いたぬいぐるみの片腕を上げる。リアーヌは泣きじゃくりながらぬいぐるみを受け取った。エレーヌは姪を抱き上げようと腕を伸ばすが、そっとマクシムがそれを制す。
「怪我に障るから。リアーヌ、おいで」
「や、くましゃんといっしょ」
「くまさんと一緒のままでいいよ。ほら、父君のおそばに行こうね」
マクシムは軽々と姪とぬいぐるみを腕に抱く。何かお気に召さないらしく、リアーヌは眉を顰め口をとんがらせている。エレーヌはリアーヌの額に口付けて頬をくすぐった。
「今日はわたしと一緒に寝ましょうね。だから、ご機嫌を直して?」
「……よろしくてよ」
と、リアーヌがふんぞり返って答える。エレーヌはマクシムと微笑みあった。
リアーヌをマノン達に託し、エレーヌはマクシムととともに右翼二階にある国王の執務室へ向かった。袖廊に衛兵はおらず、執務室の扉は開け放たれていた。
扉の向こうで、国王は北の庭園を見下ろしている。エレーヌは裾を持ち、片足を引いた。
「お兄さま。エレーヌです。ただいま戻りました」
「……エレーヌ。無事だったか」
国王は窓辺に立ったまま振り返る。その顔は、最後に会った時より一段と窶れていた。エレーヌはゆっくりと室内に足を踏み入れ、マクシムに頷いてみせた。
「俺は外を哨戒します」
扉が閉まり、静寂が落ちる。先に口を開いたのは国王だった。
「……王子のことは」
「……聞いています。なんとお言葉をかければよいのか……」
「王妃は、産室に閉じこもったままだ。私とも会ってくれぬ」
「……後で、私がお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「頼む。そなたであれば、王妃も心安まるであろう。――座ってくれ。王子のこと以外に、話すことがある」
国王は執務机を指した。国王が座る螺鈿細工の椅子の横に、紫檀の椅子が置かれている。 そこは――宰相の席だ。
「宰相は……」
「彼は宮殿を去った。二度と戻らないだろう。座りなさい」
エレーヌはぎゅっと両の拳を握り込む。宰相は、この騒動から逃げたのだ。憤りを隠し、腰を下ろす。兄も自らの席に座った。
「これに目を通してくれ。七日以内に発布するつもりだ」
「……これは……」
エレーヌの手に国事詔書が渡る。大法官と宰相の署名がなされ、あとは玉璽を押すだけで完成である。そこには、こう記されていた。
「ファンデール王女による、王位と領土継承を認める……」
「リアーヌを王太子にする」
エレーヌは目を見開いた。
「お兄さま、いくらなんでも性急過ぎますわ。だって、お二人はまだお若くて……」
「王妃はもう出産に耐えられない。これ以上、後継問題を先送りにはできぬ」
エレーヌは動揺を抑えようと努力した。国王は王妹に、一番近しい王族として意見を求めている。家族の情は忘れて、冷静にならなければならない。
「……そのためには、サリカ法を廃止する必要がございます。いかがお考えですか?」
建国時に定められたサリカ法では、女性による王位や爵位の継承ならびに財産や土地の相続を認めていない。国王は頷いて、法改正案を机に広げた。
「サリカ法廃止にあわせ、第三身分の相続法も改正する。ファンデール人の女性すべてに相続の権利を与える」
国王が示したのは、時代の先を行く大改革だ。兄の覚悟を重く受け止め、エレーヌはしばし瞑目する。去来したのは、中央広場の様子と伯母の言葉だった。
「お兄さま、相続に加え、市民権と議員選挙権を与えることはできないでしょうか」
「……女性たちに?」
「ファンデールの女は、父か兄そして夫に与えられるのを待つしかない。それでは、屈託しか生みません」
緊張で、額に汗が滲む。エレーヌが兄に政治的な意見を述べるのは初めてだ。女たちを荒々しい政治に関わらせない。それが兄の守り方だと心得てきた。でも、彼はその形を変えようとしている。エレーヌは長年抱えていた自分の考えを、思い切って言葉にした。
「いずれ女王がたつ国になるならば、女性の権利を広げていくべきだと思います」
「……エレーヌ」
「生意気を言って申し訳ありません」
「……私はもっと早く、そなたと話をすべきだったんだ。今更気づいたよ」
「お兄さま?」
「これを見なさい」
国王は執務机の玉璽を指す。そして、その傍らにもう一つ御璽を置いた。玉璽と同じく、漆黒の石に金泥で菖蒲が描かれている。
「この御璽は王太子のものだ。二つはよく似ているが、玉璽だけは耀天石という輝石からできている。違いがわかるか?」
と、尋ねられ、エレーヌは二つをよく見比べた。どちらも瓜二つと言っていいほどそっくりだ。エレーヌは困ってしまって兄を見上げた。
「どうやって見分ければ良いのですか?」
と尋ねれば、国王は目元をやわらげる。兄の頬に、秋の日差しが柔らかく差す。不意に、エレーヌは小さな頃こうして勉強を教わったことを思い出した。
「この二つの見分け方を、そなたに教えておこう」
エレーヌを教え導く兄の声は穏やかで、その眼差しから惑いは消えていた。




