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(3)王女の役目「あの王に嫁いだ女は、みぃんな壊されるのですって」

( 3 )


 十六歳になったら、エレーヌは海を隔てた隣国エルドラード王国に嫁ぐ。この結婚を決めたのは、先代国王――エレーヌの祖父だ。

 発端は、ファンデールと王妃の故国イシュルバートの緩衝地帯キーシュである。

 西の雌雄を競う大国の東に位置するこの国は、国土の大半が肥沃な黒土で形成され【聖教圏のパン籠】と呼ばれている。

 二十年前、キーシュの実りを求め、北の新興国家ナドルヴィアが侵攻した。この軍事介入を食い止めるべく、ファンデールはまず長年の宿敵イシュルバートと不可侵条約を結んだ。そして、当時のファンデールの王太子――エレーヌの兄――とイシュルバート大公女の結婚により、この二大国による防衛同盟が実現した。

 かつてない規模の連合軍が編成され、十数年が経つがナドルヴィアは猛攻を続けている。初手でナドルヴィアを小国と侮ったのが仇となったのだ。

 ナドルヴィアは長期戦を見据え、キーシュの南に広がるカフカス海周辺の異教徒と手を組んだ。小回りのきく船や腕の良い水手(かこ)を雇って、陸ではなく海から兵糧を補給するようになった。

 西方諸国では冷害が続いているが、南方では豊作が続いている。

 その南方大陸への入り口カフカス海をナドルヴィアに抑えられているうちは、イシュルバートとファンデールの連合軍はまず勝てない。

 ファンデールとイシュルバートの弱点は海軍だ。

 ゆえに、西方大陸一の海洋国家エルドラードとの繋がりを強固にする必要があった。

 百年前のドーラ海戦以降、制海権はファンデール側にある。祖父は孫娘に制海権を持たせ、エルドラード王妃にすることを決めた。これは、対ナドルヴィア戦の総仕上げなのである。 

 国のために嫁いで、子を産み、育て、夫に従って生きていく。それが役目だと教えられ、自分でもそう自覚して生きてきた。王妹としての責任を果たす時が来ただけのこと。

 四十五を過ぎたエルドラード王にとって、エレーヌは七人目の妻である。それも、王侯貴族の政略結婚にはよくあること。


「あの王に嫁いだ女は、みぃんな壊されるのですって」

 エレーヌとすれ違いざま囁きを落としたのは、どこの貴婦人だったろう。

「あの好色さで、王太子妃にも手を出したとか。王妹殿下がお気の毒でなりません」

 ため息とともに、エレーヌに直接言ってくる貴公子もいた。

 エルドラード王には、とっくに成人した王太子の他に、数多の王子と王女がいる。旺盛な肉欲は内外に轟き、数多の寵姫を侍らせていることでも有名だ。


 よく噂話はあてにならないと言うけれど、今回ばかりはその噂は正しいようだった。


「おお。我が麗しの妖精姫、いっそ貴女をさらって閉じ込めてしまいたい」


 エルドラード王は毛むくじゃらの両腕を広げて、衆目の前でエレーヌを抱擁した。膨れ上がった腹を押し付けられて、エレーヌはあまりの不快感に気が遠のいた。


「まこと妹を愛しくお思いなら、聖王猊下の御認可をお待ちください」


 王の腕からエレーヌを救い出したのは兄のファンデール国王である。


「その時こそ、神が認めた夫婦としての触れ合いを」


 丁寧にファンデール王が言葉を尽くすと、エルドラード王は不満げに退く。その邪な視線は真っ直ぐにエレーヌの体へと向けられていた。

 エレーヌは同年代の娘たちと並ぶと、小柄で痩せている。どこからどう見ても未熟な子どもだ。凹凸のない平らな肢体を、エルドラード王は舌なめずりして眺めている。

 醜悪な視線を遮るように、艶やかに着飾った王妃が進み出た。


「どうか、義妹の代わりにわたくしに栄誉をくださいませ」


 王妃が優雅に裾をつまむのと同時に、楽団が曲を奏で始める。王国の赤き薔薇と謳われる美貌の王妃に誘われて、エルドラード王はたちまち機嫌を直した。


「あとはマリーに任せて、下がりなさい」


 と、ファンデール王はエレーヌの背を押した。エレーヌは何とか微笑を浮かべてうなずいた。しかし、すぐに下がるのでは宮廷人に逃げ帰ったと揶揄されてしまう。

 まず近しい王侯貴族と軽く会話をし、顔見知りの貴婦人のドレスを褒め、成り行きを見守っていた侍女に寝室の用意を頼み――さりげなくバルコニーへと向かう。

 エレーヌが把手(ノブ)に手をかけたまま振り返ると、来賓はみなダンスに夢中になっていた。


 誰もエレーヌのことなど気に留めていなかった。


 やっとの思いでバルコニーに出ると、春先の冷たい空気が肌を刺した。

 宴の熱気から逃れたくて、エレーヌはドレスの裾をからげるようにして西の庭園に続く階段をかけ下りた。幾何学模様の花壇を通り過ぎ、大理石の噴水の前で立ち止まる。満開に咲きほこるミモザが、水盤に綿毛のような花びらを散らしていた。

 水面には、盛装姿の王妹が映っている。細身を包むドレスはリラの花を模ったレースがふんだんにあしらわれ、腰には天鵞絨(ベルベツド)の青いサッシュをリボン結びにしている。真珠が散りばめられた宝冠(ティアラ)と首飾りは、亡き母から譲られたものだ。髪を全て結い上げた自分は、驚くほど母に似ていた。朧げだった母の面影が、はっきりと目の前に現れる。

 湧き上がる感情を堪えきれず、ほろりと青い瞳から涙が伝った。エレーヌはずるずると石畳に座り込み、噴水の縁に顔を伏せるように蹲った。

 決して声が漏れぬよう、唇を噛み締める。歯に力を込めすぎて、ぷつりと下唇に痛みが走ってかすかに血の味がした。


(泣いちゃだめ。早く、早く止まって)


 エレーヌは国王の妹だ。結婚が嫌だと言って泣くことは許されない。兄は長年の敵国であったイシュルバート帝国から王妃を迎えて、子を成した。妹のエレーヌも、王族の義務を果たさなくてはならない。


『与えられた身分には、責任が伴うのよ』


 思い出の中の母は、いつも青い顔で横たわっている。そして、エレーヌに何度も言い聞かせるのだ。

 特権階級の者が何不自由ない生活を送れるのは選ばれた人間だからではない。国や民の暮らしを守るために、豊かな教養を身に付け、優れた人格を備える義務があるからだ。

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