(29)マクシムの傷「……気持ち悪いだろう? 無理しなくていいよ」
( 29 )
エレーヌは立ち上がり、薬箱の脇に畳まれた亜麻布を抱えて踵を返す。
そして、固まっているマクシムを見下ろして、もう一度言った。
「脱いでください。わたしが冷やします」
「いや、自分でやるから」
「背中に指が届くんですか? わたしには湿布薬を塗ってくださったのに」
その逆が駄目だと言うのはおかしいと思う。エレーヌは眉を吊り上げマクシムのシャツに手をかけた。マクシムが慌てて細い手を掴みあげる。
「女の子が見るような傷じゃない。無理だ」
はっきりと言われ、逆にエレーヌの中で小さな怒りが芽生えた。
血や傷は、誰だって目を背けたくなる。マクシムはエレーヌが傷つかないよう気をつかっているのだ。そんな気遣いはいらない。エレーヌは、譲らなかった。
「やります。離してください」
今度根負けしたのはマクシムの方だった。エレーヌがタオルを次々と絞る間に、マクシムが衣服を緩める。
「もう無理だと思ったら、我慢しないと約束して」
「わかりました。こちらに背中を向けてください」
廃兵院で、エレーヌは負傷兵の傷を何度も見ている。だから、普通の女の子より血や傷口に耐性はある方だ。
一度エレーヌを見つめてから、マクシムは細く息をついて体勢を変えた。シャツが取り払われ、彼の背中があらわになる。エレーヌは息を呑んだ。
「……気持ち悪いだろう? 無理しなくていいよ」
マクシムの背には、幾つもの傷跡が刻まれていた。肌という肌に、無数の傷跡が走っている。切り傷から始まり、上腕には火傷の痕。中には抉られたようなものもあった。脇腹には縫合痕が残っており、引き攣れている。
マクシムの古傷は、エレーヌが見てきたどんな怪我よりも惨たらしかった。
「……大丈夫です。冷やすので、じっとしていてくださいね」
エレーヌは震えを悟られぬよう努めながら、そっと濡らした亜麻布を当てる。傷の上をなぞると、傷跡の輪郭がはっきりと伝わった。
(……戦場で受けた傷じゃない)
鉄砲で撃たれたり、爆風に巻き込まれて火傷を負ったりといった傷は、たくさん見てきた。だから、分かる。これは、戦闘ではなく――。
「……ヴェネト平野で、捕虜になったんだ。これは、その時負った傷」
拷問。エレーヌは声色が震えないよう気をつけて手を動かし続けた。
「……そうでしたか」
古傷は胸から腹まで及んでいた。この傷を負ったのはマクシムが十五歳の時だという。エレーヌと同じ年頃だ。
あまりの痛ましさに、エレーヌはじわりと涙が浮かぶのを感じた。けれど、決して泣くまいと堪えた。
あらかた冷やし終えると、マクシムはそのまま横たわった。汗の玉が浮く額に亜麻布を押し当てると、マクシムがすまなそうに表情を歪める。
「……ごめん。これじゃあ、格好つかないな」
「格好つけなくていいんです」
エレーヌはそっと彼の額に額を合わせた。深緑の瞳がゆるゆると丸くなる。
「お熱、高いですね。苦しいでしょう」
薬箱は外傷用の備えしかしていない。何か熱を冷ます手段はないかと辺りを見回して、ふとエレーヌは瞬きをした。
(そういえば、本に……)
一瞬、羞恥とためらいがエレーヌを襲う。しかし、マクシムの顔色を見て覚悟を決めた。エレーヌは自分のシャツの釦に手をかけた。
マクシムは天井からエレーヌに視線を戻して絶句した。
エレーヌは毛布で胸元を隠し、マクシムを見た。マクシムは顔を真っ赤にして口を覆っている。エレーヌは怯みそうになる自分を叱咤した。
「熱を下げるためですから」
「エレーヌ、ちょっと待って」
「人肌で熱を吸えば、少しは楽にな……くしゅんっ」
雨の冷気がエレーヌの肌をたちまち冷やす。この寒さも、二人で身を寄せ合った方が凌ぎやすい。これは、れっきとした救命行為である。
エレーヌが寒さに震えているのを見て、マクシムは一瞬祈るように天を仰いだ。
「俺は壁際に向くから、エレーヌは暖炉の方を」
「……わかりました」
毛布にくるまり、背中をくっつけ合うと段違いに暖かくなった。悪寒が和らいだのか、マクシムの震えが小さくなる。
お互いの身体から寒さは遠のいたが、今度は気まずい空気が流れて、それを紛らわすようにマクシムがぽつりと語り出した。
「……俺の名前は、将軍大公にあやかってつけられたんだ。俺自身も、彼のように立派な帝国軍人になるのだと思って生きてきた」
数々の武勇で大陸に名を馳せた将軍大公マクシミリアン。彼に近づくべく、マクシムは血の滲むような努力をした。士官学校の訓練にも食らい付いてついていった。
マクシムが自身の過去を話すのは初めてのことだった。出会ったばかりの頃にエレーヌが尋ねても、うっすらとした答えしか返ってこなかった。だから、マクシムは過去を語りたくないのだろうと思っていた。
今はそれが何故かわかる。過去を振り返れば、あの傷を負った記憶がどうしても蘇る。
それでも、マクシムは話そうとしてくれている。何故?
エレーヌは振り返る。見えるのは、マクシムの背中だけだ。
「士官学校に入って学ぶうちに、ある程度の覚悟は固まっていった。軍人になるということは、人を殺し殺される世界で生きていくということ。将軍ともなれば、多くの人の命を奪う任務を下すこともある。……分かって、出征したはずだった」
それでも、とマクシムは吐息した。
「一方的に暴力を振るわれて暴言で苛まれる時間は、地獄だった。心は壊され、身体は死にたがる。いっそ殺せと、敵兵にすがるほど追い詰められた。今でも、あの時の光景が不意に蘇る。それが恐ろしくて、未だに真っ暗な部屋では眠れない」
マクシムが身じろぎをして、視線だけをエレーヌに寄越した。振り返ったエレーヌを、マクシムは真摯に見つめ返した。
「軍人になるべく訓練してきた俺でさえこうだ。……エレーヌは、もっと辛いと思う」
「マクシムさま……」
「そうした暴力をうける側にも、何か原因や落ち度があったのではないか。そうやって、自分で自分を責めることがあるかもしれない」
エレーヌは肩を震わせた。
マクシムの指摘通り、エレーヌは自分がしっかりやっていれば防げたかもしれないという気持ちに苛まれ続けていた。
ジャンヌと最初に会ったとき。もっと何かしていれば違う形になったかもしれない。
全ては、エレーヌの愚かしさが招いたことだ。エレーヌが悪いから、あんな目にあったのだと。
「エレーヌに全く非がなかったとは言えない。でも、それは君を傷つけても良いという理由にはならない」
青い瞳から、ころりと涙が転がり落ちる。マクシムは言葉を重ねた。
「エレーヌは悪くない。自分を責めたり、恥じたりする必要はないんだ」
喉の奥から、わだかまっていた嗚咽が漏れる。涙が頬を幾筋も伝っていく。
エレーヌは手のひらを伸ばし、マクシムの背中の傷にそっと触れた。
「マクシムさまも、ですよ……」
暴力の痕に、エレーヌの涙が一粒落ちる。故国を守るため、戦に出てきた少年たちを攫って、一方的に痛めつける。マクシムや彼らにどんな咎があったというのだ。
「マクシムさまは、何にも悪くありません」
「……ありがとう」
マクシムの声は、微かに濡れていた。




