(28)二人きりの夜「なら、脱いでください」
( 28 )
エレーヌが連れてこられたのは、モントルイユ郊外の森の狩猟小屋らしい。
ジャンヌと無法者の男たちが不審な荷馬車を引いて町を出ていったといくつもの露店が証言したため、守備隊とマクシムが痕跡を追いかけて、エレーヌを見つけたのだという。
暖炉に薪を足しながらマクシムが淡々と説明した。しかし、彼の声は、エレーヌの耳を素通りしていく。エレーヌは頬を冷やしながら明るい炉端を眺めていた。
「エレーヌ、もう少し暖炉に近寄れる?」
「……」
「エレーヌ」
ふ、と目の前にマクシムが片膝をつく。エレーヌは毛布を肩にかけて、ぼんやりとマクシムを見上げる。瞳の焦点は揺らいで定まらない。
「エレーヌ」
もう一度呼ぶと、エレーヌの茫漠とした視線がマクシムをとらえた。エレーヌは白麻のシャツに包まれた指先を動かした。
とうめいな爪が、小屋の扉を指す。そこには、破かれた衣服が畳まれていた。
「マノンのお下がり……どうしよう」
スカートは無事だったけれど、胴衣やブラウスは切り裂かれている。繕って直すこともできない。
折角、おそろいだったのに。
マクシムが何かを言う前に、エレーヌは睫毛を伏せた。瞳にまた暗い陰がさす。
エレーヌは特に返答を求めているわけでは無かった。
目の前にマクシムがいるのは見える。けれど、全てが遠く感じる。ジャンヌの声が、ジャンヌが振り上げた手が、ジャンヌの眼差しが、ぶつけられた声が、眼裏に浮かんでは消えていく。
「……エレーヌ、触れるよ」
そう断ってから、マクシムはエレーヌを毛布ごと横抱きにした。暖炉の前にエレーヌをそっと座らせると、傷の手当てを始める。エレーヌは、まるで人形のように身を任せた。
「痛かったら言うんだよ」
マクシムは抑えつけられていた手首に慎重に触れ、細い指の動きを確かめる。そこから、温かな体温が伝わってくる。
最後に手を繋いだのはいつだったか。マクシムの手は、記憶にあるよりもずっと大きい。
柔らかいエレーヌの手とは違い、マクシムの手は節張って堅い。大人の男性の手だ。
そう自覚した途端、エレーヌはまるで冷水を浴びせかけられたような感覚に襲われた。無意識に手を引っ込めると、マクシムが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん。怖いよね。……触った感じでは折れたり痛めたりしてないとは思うけど、明日必ず侍医に見てもらうんだよ」
「ちがいま……つッ」
慌てて否定しようとして、背中に痛みが走る。骨に響くような鈍痛に、エレーヌはたまらず小さな悲鳴をあげた。
背中を庇うエレーヌを見て、マクシムが眉間を寄せる。彼が何かを言う前にエレーヌは口を開いた。
「わたしは平気です。これ以上は、アドヴァンス卿の御息女が、気になさいます…っ!」
「え?」
エレーヌは唇を噛んで俯いた。マクシムはというと、冷静に尋ねてくる。
「どうして今ここで彼女が出てくるの?」
エレーヌはかっとなった。何故だか無性に腹立たしく思った。
「縁談が整ったと聞いていますわ。妻以外に触れるのは聖教の教えに反します」
いつの間にか毛布がずれ、その拍子に白麻のシャツが左肩からずり落ちてしまう。エレーヌは慌てて胸元を隠すが、今度は右肩のシャツがするりと二の腕にわだかまる。この着替えは新米の少年兵用のものだというが、エレーヌには大きすぎるのだ。
「……縁談って、まさか俺と彼女が? 有り得ない」
きっぱりマクシムが否定する。エレーヌは狼狽えた。もしかしたら、エレーヌがうんと年上の男性と婚約しているから、申し訳なく思っているのだろうか。
「わたしに気をつかって下さらなくとも結構ですわ。お二人なら、お似合いですもの」
「エレーヌ、そんな話は一切出ていないよ」
マクシムが膝立ちのまま一歩つめるが、エレーヌはじりと後退した。青玉の瞳には涙の膜がはり、今にも頬を転げ落ちそうだ。
「で、でも」
「とにかく傷の具合を見せて。俺自身が怖いとか嫌だとかそういう気持ちがないのなら」
と言うマクシムの気迫に根負けして、エレーヌはおずおずと背を向けてシャツを緩めた。
マクシムは背に広がる白金の髪をそっと前に流し、肩甲骨の辺りを慎重に押した。
「ぅ……っ」
恥ずかしさよりも先に鈍痛が走り、エレーヌは声を上げる。身体中に嫌な汗がぶわりと滲んだ。
「こっちは?」
マクシムの指は、肌の下の骨に触れている。骨折しているかどうか確認しているのだ。
痛みを堪えるためにぎゅうと胸元でシャツを掴みながら、エレーヌは尋ねた。
「……あ、の、いたいです。……どうなってますか?」
「痣ができてる。あとは、細かな擦り傷がいくつか。……骨に異常はなさそうだ」
おそらく、薬をかがされて石畳に倒れ込んだ時だ。強かに打った記憶がある。
「湿布薬を塗るよ。薬草の臭いが強いけれど、痛みは和らぐ。我慢できる?」
背後で湿布薬を用意する気配がする。つんと鼻に刺す薬草の匂いは不快では無かった。エレーヌはこくこくと頷く。
するりと肌の上を膏薬が滑っていく。冷たい感触にエレーヌは声をあげそうになるのを堪え、強く目を閉じた。
「あとは包帯をまく。腕は上げなくていいから、脇をあけて。前は自分で押さえて、俺に回して」
エレーヌは後ろから包帯を受け取り、ぎこちなく胸の前に回してマクシムへと渡した。肩を動かすと痛みが走ったが、それも固定が終わると、細波のように引いていった。
「アドヴァンス卿の御息女は、王太子の姫と同時期にイシュルバートに嫁ぐことが決まっている」
「え……?」
「二人は従姉妹なんだ。王太子の姫は皇太子に、御息女はその側近に嫁ぐ。だから、アドヴァンス卿に頼まれたんだよ。皇太子やその近習の人品骨柄について話してほしいって」
マクシムにとって皇太子は甥であり、その近習は昔から知っている少年だ。皇帝からも皇太子について、魅力的に伝わるよう話せという注文も来ていた。
誇張せずとも、皇太子は明るく気さくな少年で、民からも慕われている。その近習も気持ちの良い少年だ。マクシムはありのままの二人を話すだけでよかった。
「アドヴァンス卿の令嬢とは会ったけれど、話の内容は皇太子か近習だった。……遠目に見た人が誤解したんだろうね。俺は結婚しないよ」
「そ、うなんですか……」
エレーヌはシャツの釦を直し終え、振り向くか振り向かないか悩んでいた。今更自分の発言に羞恥を感じたのだ。
(わたし、まるで……)
マクシムは傷の具合を見ているだけ。それを変に意識して、突っぱねるなんて、まるで悋気を起こしているかのようだ。
胸の内を疼かせる熱が、エレーヌの心を焦がし平静を失わせる。こんな感情、知らない。
心の匣に、ゆっくりと降り積もるものがある。それは、マクシムと関わるうちにどんどん嵩を増していく。決壊しそうになるたびに、エレーヌは匣の蓋を閉じ、鍵をかけた。
自分は何も見えてない。何も気づいていない。それだけを念じて。
だってこの気持ちに名前をつけてしまったら、エレーヌはエレーヌでなくなってしまう。
思考の坩堝にはまっていたエレーヌが我を取り戻したのは、からりと何かが落ちた音が背後で響いてからだった。
「マクシムさま!?」
振り返ると、マクシムが床に手をついて胸を掴み、荒い呼吸を必死に整えている。傍に膏薬が入った器が転がっている。
酷い痛みに耐える表情を見て、エレーヌの血の気が一気に下がった。マクシムも怪我をしているのだ。
「マクシムさま、怪我を……!」
「違う。大丈夫」
と答えるものの、マクシムの顔は青ざめていて、首筋にはびっしりと冷や汗をかいている。それでも頭を振って、立ちあがろうとするので、エレーヌはその身体を支えた。マクシムの身体は異常なほど熱かった。
「横にならないと」
「大丈夫だから、エレーヌは休んでいて」
「わたしはマクシムさまの手当のおかげで、つらくないです」
エレーヌはマクシムを支え、藁の積まれた場所へと連れて行き、自分の毛布を敷いた。
「それは、君の」
「もう一枚ありますから。ね、いい子だから横になってください」
毛布を敷いた藁の上に背中を預け、マクシムは苦しそうに喘いだ。エレーヌは盤に水を張った。本格的に嵐になる前に、マクシムがそばの井戸から汲んで来たのだ。
亜麻布を濡らし、額や首筋を優しく拭う。清水を満たした椀を口元に持っていけば、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
水差しが空になるまで飲むと、マクシムがほっと息をつく。そして強い疲労が残った顔で、ぎこちなく微笑んだ。
「驚かさせちゃったね。ごめん。……古傷が痛んだだけだから。久しぶりで、身体を酷使したらこうなるってこと、忘れかけてた」
「古傷……」
「昔、キーシュでちょっとね」
「……そうですか。いつも、痛みが出た時はどうされているんですか?」
「患部を冷やしたり、鎮痛作用がある薬草茶を飲んだりしてるよ」
「なら、脱いでください」
「……は?」




