(20)異国の少女「この本のとなりの……『ロクサナの夕べ』を、読んでみたくて」
(20)
マクシムは予定より少し早く王都ルヴェルに到着し、皇帝が手配した貴族街のアパルトマンに落ち着いた。荷解きの間、マクシムはクルトと王都を散策することにした。
「若、身体の方はどうです?」
クルトは異国の景色を眺めながら尋ねてくる。マクシムはふと瞬いた。
「思ったより身体は辛くないな」
王都はぬるい春の雨でけぶっている。長旅で疲れてはいるが、雨が降っても古傷が痛まない。帝国領の南で療養している間は、夏でも雨が降ると身体が冷えて辛い時があった。
ファンデールの温かく穏やかな気候は、この身体に合っているらしい。クルトは安心したように鼻の下をこすった。
白い花を咲かせる橡樹の並木通りを歩いていると、ふとクルトが声を上げた。
「なんだろ、馬車が壊れたみたいだ。脱輪かな?」
指し示す角には、紋章のない馬車が傾いでいる。クルトはマクシムに傘を押し付けた。
「ちょっと若はそのあたりで待っててください。オレ好みの美女が困ってるんで」
「羽目を外しすぎるなよ」
クルトは軽快に走り去っていく。マクシムは気を取り直して辺りを見渡した。すると、いかにも古い貸本屋が目についた。吸い寄せられるように入ると見事な蔵書量だった。
詩集を集めた区画で、マクシムは感嘆のため息をつく。
(すごいな、レニラード神国の詩集が一通り揃っている。……新刊まで)
近寄ろうとして、先客がいることに気づいた。マクシムより年下の少女である。
十二歳ぐらいだろうか。頬を真っ赤にして棚の上の方に手を伸ばしていた。小さく跳ねると、冬の光を依り集めたような白金髪の三つ編みが揺れる。
(何だかうさぎみたいだ)
マクシムが微笑ましい気持ちになっていると、少女は悪戦苦闘しても目的の本に手が届かないと悟ったのか、しゅんと肩を落としてしまう。
(……『カルタータの四行詩』かな)
なんとなく当たりをつけて、マクシムは深く考えず少女の背後に立って手を伸ばした。乙女好みの装丁がされた詩集を抜き取り、少女に差し出す。
「これ?」
「あ……」
振り向いた少女が青い瞳を丸くする。その鮮やかな青は一度だけ見た海を思い出させた。
あまりにも愛らしい顔立ちだったので、マクシムは思わずじっと少女を見つめてしまう。すると、少女は雪白の頬をぱあっと染めて、困ったように青玉の瞳を揺らした。
少女との距離が近すぎることに気づき、マクシミリアンは一歩下がった。
「ごめん。驚かすつもりはなかったのだけれど」
少女は顔を真っ赤にしたままふるふると頭を振った。一応、言葉は通じているらしい。
ファラル語の発音が下手すぎて通じていないのではないかと不安だったので、とりあえず胸を撫で下ろした。
「あの……」
花色の唇からこぼれたのは、金糸雀のように可憐な声だった。少女は『カルタータの四行詩』を受け取って、マクシムを見上げた。
「この本のとなりの……『ロクサナの夕べ』を、読んでみたくて」
「レニラード神国の詩が好きなの? 俺もだよ」
「あなたも?」
この時の自分はまるで軟派な男であった。マクシムは、あまり積極的に女性と話す方ではない。怪我をきっかけに社交から遠ざかり、畑に引き篭っていた。それでも彼女と会話したいと思ったのは、レニラード詩の存在が大きい。
兄たちやクルトにどんなにすすめても「淡々としすぎて頭がおかしくなりそうだ」と突っ返されたマクシムにとって、同志が見つかった喜びは大きかった。
会話を交わしたのは、十分にも満たなかったと思う。少女が立ち去った後、マクシムは暫くその場に立ち尽くしていた。胸の中が、じんわりと温かい。まるで、春の木漏れ日が差したような。
少女との時間は、マクシムに安らぎを与えてくれた。何の打算もない、やわらかな会話なんて、久しぶりだった。
「あ、若みつけた」
貸本屋の店先に、ずぶ濡れのクルトが現れた後も、どこか気がそぞろだった。結局、マクシムは貸本屋で何も借りずに帰宅した。
ローゼンベルク曰く、ファンデールの貸本屋は品揃えがいいので庶民だけでなく貴族もよく使うらしい。
「愚孫は予想の範疇として……、若君は折角の貸本屋で何を?」
片眼鏡をもったいぶって磨きながら、ローゼンベルクが尋ねてくる。
マクシムは「読書さ」と返してファラル語の辞書を開いた。




