(19)皇帝の提案「お前の澄まし顔を破るのはどんな娘だろうな」
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「ファンデールへ留学ですか?」
マクシムが聞き返すと、久方ぶりに顔を合わせた長兄――皇帝が白い歯を見せて笑う。
「もっと喜べ。ファンデール王都ルヴェルは流行の発信地だぞ」
「流行りにはうといので」
苦笑を返すと、皇帝は執務机に手をついて、大袈裟にため息を吐く。
「それはお前が年中じゃがいも畑に引きこもって、人と会話しないからだ」
「……じゃがいもは農地改革のキーパーソンです」
「そうだな。農業大臣がお前の論文を素晴らしいと大絶賛していた。だが、今はじゃがいもから離れろ」
マクシムは憮然としながら読んでいた論文に栞を挟んだ。
「確かに神学部へ入ることを希望していましたが、大学はカストーレだったはずです」
「お前、まだ聖職者になるつもりなのか」
「いけませんか」
マクシムは身体を治す間、自分のなりふりを考えた。時間薬とはよく言ったもので、身体の回復と共に、心に受けた衝撃も薄らいできた。
皇帝から運動不足の解消にと畑仕事をすすめられ、思いの外これが楽しかった。土を耕していると冷静になれた。
その中で、自分が帝室の役に立つには聖職者を目指すのが一番良いと結論を出したのだ。
「どうしてそんなつまらない良い子に育ってしまったんだ……。お前、今幾つだ?」
「来月十八歳になります」
「私がお前ぐらいの頃、昼はお前のおしめを変えてやり、夜は魅力溢れる婦人たちのスカートに潜り込むという背徳的な日々を送っていたのに……!」
皇帝の戯言に対し、マクシムはただ乾いた眼差しを向けるのみであった。
「あのなあ、マックス。私はお前にもっと色々な経験をしてみてほしいんだよ」
こほんと咳払いして皇帝は言った。
「それに、ファンデールのイルヴォンヌ大学は、新大陸の農学者を教授に迎えたらしいぞ。新大陸の南の方で綿花の大量栽培を成功させた男だ」
「エルトリア綿ですか」
とたん目を輝かせた末弟に、皇帝がほくそ笑んで、芝居がかった仕草で立ち上がる。
「キーシュ戦を終わらせたら、私は綿花栽培に力を入れるつもりだ」
「キーシュの黒土ならば、高品質のものができそうですね」
「というわけで、イルヴォンヌ大学の農工学部に留学してこい。帝国のために広い見聞を身につけて帰ってくるんだ」
黙り込むマクシムの肩を叩き、皇帝は言った。
「恋のひとつもしてくればいい。ファンデールの貴婦人たちは、慎み深くも要求が多いらしいぞ」
「恋、ですか」
自分とは無縁の言葉だ。マクシムはその言葉がひどく遠いものに感じる。だが、兄は明るく歌うように言った。
「お前の澄まし顔を破るのはどんな娘だろうな」
「兄上……俺は」
「マクシミリアン。僧侶を目指すのはじじいからでも始められるがな、青春は短いぞ。大人になるために必要な経験を積んでこい。皇帝の命令だ」
そこまで言われては、マクシムは頷くしかなかった。
「あ、そうだ。お前の出した帝国軍の退官願は屑籠に捨てた。改めて聖ゲルト騎士団副総長に任じる」
「は?」
「名誉職だ。お前の身体に負担がかかることはないだろう。総長の叔父上が病がちでな、その補佐をしてくれ。書類仕事が溜まって仕方ないんだ。宮廷郵便の速達で届けるからな」
「……分かりました」
「俺はお前をただ遊びに行かせるつもりはないよ。働け働け」
あっけらかんと笑う長兄にため息をつき、マクシムは皇帝の執務室を後にした。
マクシムの乳姉妹かつ従者のクルトはファンデールへの留学に大賛成だった。クルトは外交官を務める伯爵家の四男坊だ。年齢は二十歳で、底抜けに明るい青年である。
「社交はじいさまがつくとして、オレは用心棒と金勘定係ってとこですかね」
クルトの祖父というのは、帝国の財政顧問官ローゼンベルク伯爵である。今回、皇帝はマクシムの付き添いに、元外交官の老伯爵を指名した。クルトの父親が財政長官を務めているとはいえ、ローゼンベルク伯爵は帝国の経済を握っている重臣の一人だ。
そんな重鎮をなぜマクシムにつかせるのかと皇帝に尋ねれば「そのうちわかるさ」と意味深な言葉が返ってきた。
「それで、出発はいつなんですか?」
「……五日後だ」
皇帝が決めた日程はすでに宮廷中が心得ており、マクシムは問答無用で帝都から送り出された。
長姉と次姉は畑に引き籠っていた末弟が外遊に行けるほど回復したのだと泣いて喜んだ。小雪の散らつく中、二人の姉はいつまでもハンカチーフを振って見送ってくれた。
マクシムは移りゆく車窓の景色をぼんやりと眺めていた。
今は三月の終わり。馬車の旅だと、ファンデールの王都ルヴェルまでは一ヶ月かかる。姉のマリーが嫁入りする時に辿った道筋だ。
(馬を飛ばせば半月なんだけどな)
マクシムの身体は医者が驚くほどの速さで健康を取り戻した。
しかし、寒さが厳しかったり身体を酷使したりすると、古傷が痛んで身体が思うように動かせなくなるのだ。
「若君は歯がゆいでしょうが、焦る旅でもなし。じいと授業をしながら行きましょう」
と、ほのぼの笑うのはローゼンベルク伯爵だ。その隣で孫のクルトは眠ったふりをしている。マクシムは一寸の間を置いてから口を開いた。
「伯、率直に聞いても良いだろうか」
「何なりと」
「……俺の留学に、外交経験の豊富な伯がついてきてくれるのはありがたい。しかし、そなたは帝国の財政に欠かせぬ人材だ」
「ふむ」
「兄上は、なぜそなたを俺につけたのだろう」
マクシムは短くとも四年間はファンデールに滞在する予定である。引退したとはいえ、彼は帝国を支える柱の一人で、欠かせない人材だ。ローゼンベルクは片眼鏡を煌めかせた。
「有体に言えば、密偵ですよ。陛下は、ファンデールの状況を正しく知りたいのです」
呵呵大笑する老爺に、マクシムはひやりとしながら尋ねた。
「姉上がずいぶん散財して、国庫を逼迫していると噂に聞いたが……」
「何の何の。王妃さまは慎ましい方ですよ。あの方が動かせるお金などたかが知れております。そう情報を操作した方が都合がよろしいのでしょうな」
現時点でファンデールとイシュルバートは姉が嫁いだことにより表向きは友好関係を維持している。
しかし、長年宿敵として憎み合い血を流した歴史は、二つの国に暗い影を落としている。姉の悪い噂ばかりが蔓延るのは、その一端にしか過ぎない。マクシムは気を引き締めた。
旅は順調に進み、一行は国境を越えた。ローゼンベルク伯の指示により、馬車の護衛が倍に増えた。
ファンデール北部での冷害の被害は大きく、それに伴い治安が悪化していた。先日は、農民が土地を捨て武器を取り、貴族の館を焼き払ったらしい。
無理もない。そう感じさせるほど、ファンデール北部のアルザス地方は、荒れ果てていた。畑も放り投げられたまま手付かずだった。マクシムは、複雑な気持ちで眺めていた。
無事、アルザスを越えた。段々と舗装された道が多くなり、町の賑わいが車窓越しにも伝わってくる。マクシムは通り過ぎる町並みや人々の様子をつぶさに観察した。
「……物乞いが多いな」
「北部から流れてきたのでしょう。イシュルバートも、皇帝陛下が皇太子の時分からじゃがいもをすすめなければ、もっと食糧難が深刻化したでしょうな」
「てかさ、ファンデールのがあったかいんだし、じゃがいも育てれば良くね?」
と言ったのはクルトだ。マクシムは頭を振った。
「ファンデール人にとってじゃがいもは、花を鑑賞するだけのものだ。地方によっては、あの見た目は聖教に反するから悪魔の食べ物だと言う者もいる」
「ええっ!? オレ、じゃがいもがない生活は耐えられない。じいさまどうしてたの?」
「大使時代は、外から死角になる場所で育ててこっそり食べていたなあ」
「こっそり食べる!? むなし過ぎる! あり得ねえ! 若、なんとかしてくださいよ」
「クルト、何とかってお前……」
「だってこの中でなんとかできそうなの、若しかいないじゃん」
マクシムは、目から鱗が落ちたような感覚に胸がさざめくのを感じた。唐突に自分の立場を自覚したのだ。マクシムは、ファンデール国王と直に対話できる身分を持っている。
眼裏に荒れ果てた異国の畑が、痩せた物乞いの親子が浮かぶ。
この国の食糧難について、自分の知識が役立つかもしれない。もし交渉がうまく進んだら、北部の畑すべてに実りが戻ることだってあり得る。消えていた欲求が再び灯る。
(……俺はファンデール王の義弟だ。直接話す機会が必ずある)
焦るな、と自分に言い聞かせマクシムは両膝の上で拳を作った。




