(16)噂ばなし「――王太子殿下にお気をつけください」
( 16 )
夏の終わり。王妃主催の夜会が開かれた。身重の義姉は踊らないが、華やいだ空気に触れると気が紛れるということで、エレーヌも盛装して参加した。
初めに踊ったのはエルドラード大使アドヴァンス卿である。二年前に着任して以来、気さくな人柄と目先の利益にとらわれない進言で、国王夫妻の信頼をあっという間に得てしまった人物である。
エレーヌはこの大使からいずれ嫁ぐ国の慣わしや世情を教えてもらっていた。
「アドヴァンス卿、その後塩田はいかがですか?」
「先月の豪雨で製塩所が潰れてしまったそうです。やはりエルドラード国内で良質な塩を作るのは難しいようで」
西大陸一の海軍を誇るエルドラードにとって、塩の安定供給は最重要課題だ。
「新大陸で岩塩坑をいくつか発見しましたが、軌道に乗るのは数年後でしょう」
「それで、わたくしの持参金にトーラス港を加えることになったのですね」
トーラス港は軍港に加えて、広大な塩田が展開されている。エルドラードとしては、西大陸側に安定した塩田や塩坑を確保したい。ファンデールは利息を大幅に減額したい。双方の利害が一致し、この夏に最終調整が終わったのだ。
「その通りです」
大使は微笑む。そしてエレーヌをリードしながらこう続けた。
「トーラス港の館が出来上がりましたよ。我が君はとても楽しみにしております」
我が君。エルドラード王。エレーヌの夫となる男。
残虐な眼差しを思い出すと背筋が凍る。けれど、十二歳の時のように顔に出すようなことはしない。
エレーヌは妖精のように柔らかく笑った。
「……はい。わたくしも楽しみです」
曲の終わりが近づくと、大使はすっと表情をあらため、こう囁いた。
「――王太子殿下にお気をつけください」
エレーヌが顔を上げると、大使は優雅にお辞儀をしてその場を去っていった。
エレーヌが呆然と立ちすくんでいると、ダンスカードの順番通り従兄のトリアノン公子がダンスを申し込む。
「王妹殿下、大使と何か?」
「い、いえ……」
エレーヌは慌てて我にかえり、公子と手を重ねた
公子はステップを踏みながら眉を顰めた。
「ご存じでしたか? 大使は、マクシミリアン大公にご息女を嫁がせるつもりだそうです」
「え?」
エレーヌの心臓が、嫌な音を立てた。公子はあからさまにため息をつく。
「イシュルバート皇帝の肝煎りだそうです。ファンデールとエルドラードの同盟に水を差すつもりですよ」
エレーヌが黙り込んでいるのをいいことに、公子は不信感も露わに続けた。
「僕と父は、大公を妹の婿に欲しいとずっと話していたんですよ。王族公爵家を蔑ろにするなんて――」
「きゃっ」
エレーヌはステップを踏み間違えて、均衡を崩した。公子がエレーヌの腰を引き寄せる。
「ごめんなさ……」
「……申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
公子が腕の力を緩め、そっと踊りの輪からエレーヌを連れ出す。すると、王妃が二人に歩み寄った。王妃はコルセットを身につけない型のドレスを身につけており、膨らんだ腹部に白い手を重ねている。
「お義姉さま、立ち上がったらいけませんわ」
「何を言っているの。そんな顔色で」
「わたし、公子の足まで踏んでしまって……」
最後まで言葉が続かず、視界が薄暗くなる。王妃と公子の声が、とてつもなく遠い。
エレーヌはひどい頭痛と眩暈に襲われて、たまらず意識を手放した。
この春、マクシムは二十歳になった。彼の横顔は、出会った頃より精悍さを増したように思う。
マクシムはイルヴォンヌ大学で学業に励みつつ、北部中で農業を伝える活動をしている。そんな彼が宮廷に顔を出すのは月に二度ある正礼拝の時だけだ。その正礼拝も、北部の状況によっては来ないこともある。
かつての敵国の大公。イシュルバート皇帝――王妃とマクシムの長兄――が革新的な人物ということもあり、宮廷内ではマクシムを警戒する勢力が一定数以上いた。
マクシムは国政に関与するような言動は一切しなかった。彼の活躍の場はイルヴォンヌ大学や北部の農村であった。故郷での経験と大学で得た知識をかけ合わせ、作物の育たない場所でも芽吹く野菜を伝えている。
モントルイユやアルザスなど、彼が訪れた地には必ずじゃがいもの花が一面に咲くことから、緑の伯爵と民から慕われている。
多くのファンデール貴族は、マクシムのこの行動が地味に映ったらしい。【流行の女王】と謳われる王妃に比べ、その弟は【じゃがいも大公】だと揶揄した。
マクシミリアン大公は、苛烈な皇帝とは似ても似つかない、温和でおとなしく無害な人物だ。そう判断し、神経を尖らせてマクシムを警戒する貴族は目に見えて少なくなった。
同時に、青年大公の繊細な美貌と静かな佇まいに熱狂するご令嬢や貴婦人が増えた。
特に一人娘を抱える父兄には魅力的だ。ファンデールでは女子相続が認められないため、その夫が爵位、領地、財産を継承する。マクシムは西洋一の名門ツークフォーゲルの血を引き、聖王直属の聖騎士を束ねる聖ゲルト騎士団副総長を務めている。彼を婿に迎えれば、イシュルバート帝国だけでなく聖王庁との繋がりも強化できる。
そもそも、マクシミリアン大公がこの地を留学先と定めたのは良縁を探すために違いないと思っている人がたくさんいる。
(確かに、その通りだわ)
エレーヌはぼんやりと天蓋の刺繍を眺めながら考えた。
戦わずして領土を広げるイシュルバートの【婚姻政策】を西大陸で知らぬ者はいない。
彼の三人の兄は、皇帝に始まり、カストーレ選帝大公国、ロンバルディア提督といずれも帝国の要衝を治めている。彼の姉にあたる大公女達も有力諸侯に縁付いている。
(自然なことよ。わたしが動揺するのは、おかしいわ)
あと一年と少しで、マクシムは大学を卒業する。大学を卒業したら、この地で見つけた婚約者と帰国することもあり得る。胸の痛みに気づかぬふりをして、エレーヌは笑う。
(万が一そうなっても、わたしはそれが誰か知らなくて済む)
エレーヌは十六歳になったら、エルドラード王妃として嫁ぐのだから。
「姫さま。お目覚めですか」
静かな呼び声が、エレーヌの意識を掬い上げる。菫の花が織り込まれた帷の向こうから、マノンが現れる。帷の模様が自室と違うので、エレーヌは少し混乱した。けれど、意識が覚醒していくにつれて納得する。
エレーヌは今、静養のためにモントルイユの離宮にいるのだ。
「マノン、おはよう」
「ご気分はいかがでしょう。……熱は、もうないようですが」
マノンが枕元に座り、エレーヌの額に自分のそれを合わせる。倒れてからもう七日が経っている。エレーヌはゆっくりと健康を取り戻していた。
「もうすっかりいいわ。外を歩きたいな」
とエレーヌはねだる。マノンは朝食の準備をしながら、淡く微笑んでエレーヌを見た。
「そしたら、お祭りに参加してみませんか?」
マノンの提案に、エレーヌはきょとんとしてしまう。マノンは枕元に腰掛けた。
「姫さまはここでお生まれになったけれど、モントルイユの豊穣祭には一度も出られたことありませんよね」
「ええ。豊穣祭の日は宮殿の祭礼とも重なってしまうから。マノンは出たことあるの?」
「もちろんです。道という道に、ずらりと露店が並んで、最後の夜には掲燈を空に放つんです。それと、修道院に続く大通りの露店は全てレースのお店なんですよ」
「朝市とは違うのかしら?」
「全然違いますよ。きっと気に入ってもらえると思います。初日には花火も上がるので、絶対に楽しいです」
エレーヌのモントルイユでの療養は、兄からの少し早い誕生日プレゼントである。
きっと、この滞在がモントルイユで過ごす最後の機会になる。せっかくなら沢山思い出を作りたい。エレーヌは明るく笑った。
「ぜひ行きたいわ」




