(12)北部の流民「……この子は、あなたのお子さんですか?」
(12)
がたんっ。大きな揺れに襲われて、エレーヌの意識が覚醒する。すでに陽は落ち、馬車の中は真っ暗だった。エレーヌが起きたのを察したのだろう。マノンがエレーヌの肩を強く掴んだ。その手は小刻みに震えていた。
「姫さま、どうかお声は堪えてください」
「金がねえんだったら、中の女どもを渡しな!」
荒々しい声と複数の人がざわめく気配が馬車を取り巻いている。思わずエレーヌが身を起こすと、マノンが悲鳴を上げた。
「いけませんっ」
窓の外の光景に、エレーヌは息を呑んだ。二十人ほどの痩せた男女が馬車を取り囲んでいる。手に持っている武器は鎌や鉈で、異様に殺気立っている。
「――そなたたちは、北部からの流民か?」
と、よく通る声で尋ねたのはマクシムだ。傍らのクルトは長剣の柄に手をかけているが、マクシムは抜かないよう手で制している。
「ああそうだよ! そこの女どもはどこぞの貴族だろう。死ぬよりみじめな暮らしってのを教えてやる!」
胸元をはだけた女が、何かを抱えながら叫んだ。それは、とうに息絶えた赤ん坊だった。
エレーヌは考えるより先に把手を回して飛び出していた。マノンの指先が空を掴む。
「エレーヌ! 出てくるなっ」
マクシムが焦ったように叫ぶが、エレーヌは奮い立つ。背筋を伸ばして、一歩踏み出す。
「いいえ、この人たちの話を聞くのは、わたしでなければ」
エレーヌはそのまま赤子を抱えた女の元へと歩み寄る。女は錆びついた包丁をエレーヌに向けた。
「なんだい、身を売ってあたしらにパンを寄越す気になったかい!」
「……この子は、あなたのお子さんですか?」
と尋ねると、女は荒々しく答えた。
「ああ、そうだよ。生まれてから一度も、乳を吸わせてやれなかった」
「……抱かせてもらっても?」
ざわりと困惑が辺りを支配する。貴族の令嬢らしきこの少女は、死体を見たことがないんじゃないかと誰かが囁いた。
女はエレーヌを疑わしい目で見ながら、赤子を差し出した。強い死臭が、鼻をさす。
赤子だった骸を、エレーヌは慎重に抱きしめた。土気色の肌を撫でると、毛も生え揃っていない嬰児だということがわかった。
(軽い……)
この子は、生まれてから一度もお腹いっぱいになったことがないのだ。
眼裏に、孤児院の子どもたちが浮かぶ。じゃがいもを頬張り、スープを啜り、美味しいと笑い合う。あの子たちも、決して栄養が足りているとは言えない体つきをしている。
この子の姿が、今のファンデールそのものだ。エレーヌは頭を思いきり殴られたような衝撃を受けた。
「……エレーヌ」
「マクシムさま、この者たちは馭者に怪我をさせたり、あなたたちに危害を及ぼしたりしましたか?」
一拍置いて、マクシムは頭を振った。御者台にいる馭者が倒れているのは、恐怖で失神しただけらしい。馬車も破壊されたりしていない。決定的な罪を犯したわけではない。
エレーヌはそっと赤子の額に口付けを落として、母親の腕の中に返した。
「王都近くの、シェルファ僧院を頼ってください」
「は……?」
「マノン、紙とペンを用意して」
地面にへたりこんでいたマノンが慌てて馬車の中を探す。エレーヌはペンを走らせ、人差し指から己の印章を引き抜いた。マクシムの手を借り、封蝋に印章を押す。
「王妹エリザベートの名において、あなた達の保護を命じました。シェルファ僧院の司教さまは北部出身ですから、あなた方の事情も汲んでくださるでしょう」
「えっ」
「王妹……?」
武器を掲げた大人たちがどよめいた。
「今日は無理ですが、明後日には必ずシェルファ僧院を訪問します。……この手紙を渡す代わりに、約束して下さい。もう、このように乱暴なことはしないと」
流民たちが顔を見合わせる。エレーヌは震えそうになる手足を叱咤して語り続ける。
「約束してくださるなら、わたしから国王陛下に北部の救済について具体的な案を出してくださるよう掛け合います。そして、その結果を、わたしが直接あなた達に説明する。……どうでしょう?」
エレーヌの言葉に、流民たちの殺気立った危うい空気が、わずかに緩む。しかし。
「じゃあなんで、今まで何にもしてくれなかったんだよ!」
大人たちをかき分けて飛び出してきたのは、髪を刈り上げた少年だった。彼は血走ったまなこでエレーヌを捕らえ、手に持った鎌を振り上げる。
避けきれない。痛みと衝撃に備え、エレーヌは腕で顔を覆った。




