後編
いよいよ全ての謎が解かれます。あのお姉さんは何者で、何の目的で動いていたのか?
あらかじめ書いておきます。今回、百合キスシーンはありません。でも百合的にハッピーエンドにはなっているはずなので、ご安心ください。
今日、出席する予定の講義は二限目からだから、十時半までに用事をすませたい。時間的余裕はあるけど、話が長引く可能性もなくはないから、なるべく急がないと。
わたしは美紗を引き連れて、目的の場所へ向かった。朝の七時を少し過ぎているから、じわじわと通行人の数が増えていく。誰もがゆっくりと道をゆく中で、わたしと、ついてくる美紗だけは、早歩きで進んでいる。
美紗は何も聞いてこない。わたしが何か、確かな考えを持って行動していると、信じてくれているのだろう。美紗ならきっとそうだと、わたしが勝手に思っているだけだが、そのせいで妙なプレッシャーになってもいる。見誤ったらがっかりされそうだし。
……いや、大丈夫か。そのくらいで美紗は見限ったりしない、そういう信頼がわたしにもある。
早歩きで向かったら十分くらいで到着した。ここが目的地だ。
ほどよく年季の入った、古い六階建てのマンション。その前に立って、わたしと美紗は建物を見上げた。
「ここって……」
「わたしの住んでる部屋があるマンション」
「ぼろっちい……じゃなくて、え? 彩佳の住んでるマンション?」
いいんだよ、素直にぼろいと言ってくれても。わたしも美紗の住まいを見た後だと、やっぱりぼろいと思うもの。
「事件があって、隣人に犯人だと疑われているから、怖くて帰りたくないって言ってたのに」
「うん。でもこれから行くのは、わたしの部屋でも隣の部屋でもないから」
「じゃあどこに?」
「とにかくついて来て。昨日の今日で、警察も出動している状況で、あまり大げさな証拠湮滅はできないはず。中に入ることさえできれば、全て分かると思うから」
「証拠湮滅って……どういうこと?」
「部屋に入れたら話すよ。間違ってたら大恥だし」
「わたしはそんなんじゃ笑わないってぇ」
どっちかというと、笑ってフォローしてくれそうではある。とはいえ、部屋が無人だったり鍵がかけられていたりしていたら、管理人に何かしら言い訳をして、開けてもらうしかないわけだから、美紗以外の他人を巻き込む可能性はある。誰にも笑われないって保証はどこにもないのだ。
部屋に行く前に、確かめておきたいことがある。エントランスに入り、壁に設置された宅配ボックスの、目的の部屋の番号には、契約者の名前があるかもしれない。501号室のボックスに、望月佑の名前があったように。
……なかった。
まあ、想定はしていた。名前を書き入れるのは任意だし、こんな所に名前を書いたら、すぐ近くに住んでいることが一発でバレる。まして問題のボックスは、望月佑が使う501のボックスの、すぐ隣だし。
やはり直接出向いて確かめるしかないか……その部屋に辿り着くまでが割ときついので、億劫になっている自分がいる。
「じゃ、行くよ。美紗」
「あれ? エレベーターはこっちだよ」
「あの怖いお隣さん、部屋の位置的に普段からエレベーターを使うんだよ。生活サイクルなんて知らないし、もしエレベーターを使ってばったり出くわしたら……」
「なるほど、修羅場待ったなし、ってわけね」
「反対側に階段があるから、それを使って六階まで行くよ」
「げっ、マジか」
六階、つまりこのマンションの最上階。だから五階分の段数を上らないといけない。そりゃあ億劫だよねぇ。
田舎の出身なら足腰も鍛えられているから余裕だろ、って? 田舎なめんじゃねーぞ。生活に必要な施設がすぐ近くにないせいで、車やバイクに頼る人のなんと多い事か。それに、こんな段数を上り下りすることなんて、田舎民ですらほとんどないだろう。
まあ、不満を吐いていても始まらない。時間もないから、わたしはさっさと上っていくことにした。美紗はものすごく面倒くさそうだったけど、結局頑張ってついてきた。
六階に到着して、わたし達はすっかりへとへとになっていた。長い階段を上るという経験がないとはいえ、自分にここまで体力がないとは思わなかった。今後も同じような経験はしないと思うけど、少しは鍛えた方がいいかもしれない。
あとは廊下を進んで、一番端の部屋を目指す。つまり601号室。事件のあった501号室の真上にあたる部屋だ。
ドアの前に立って、わたしは呼吸を整える。嫌に緊張している。そんなわたしの心境を見て取ったのか、美紗はわたしの左手を握った。
「…………!」
「ここ? 彩佳の目的地って」
「うん……」
自分から握るのはもう平気みたいだ。不思議だ……美紗が近くにいてくれると分かっただけで、引き潮のように緊張が去っていく。
よし。わたしは思い切って、呼び鈴を鳴らした。
……少しの時間をおいて、ドアの向こうから物音が聞こえた。引いたはずの緊張が再び寄せてきた。
今この部屋に住人はいる。もしわたしの推理が間違っていたら、ドアの向こうにいるのは全くの見知らぬ他人だ。だが、それでも大丈夫。部屋を間違えたと言って、その場を去ればいいだけのことだ。もし推理が正しかったら……。
ドアが開く。チェーンもつけていないということは、ドアスコープで覗いて、知っている来客だと思ったのだろう。実際、現れたのは、わたしもよく知っている、ずっと会いたかったその人だった。
「思ったより早く来たのね。いらっしゃい、彩佳ちゃん」
望月佑を名乗っていた、本当の名前も分からない、そしてわたしの心を掻き乱した、あのお姉さんだ。わたしがいつかここに来ると踏んでいたのか、少しも驚くことなく微笑みを見せている。
朝も早いのに綺麗にセットされた黒髪に、透き通るような柔肌、ブラトップだけの簡単な装いのせいで、強調された谷間がどうしても視界に入る。その艶やかな姿に、二日前の夜の光景がフラッシュバックして、落ち着けなくなってしまう。
だけど、美紗の前で、そんな情けない姿は見せたくない。
「……やっぱりここにいたんですね、お姉さん」
「また会いに来てくれて嬉しいわ」
「別に、置き手紙に従ったわけじゃありません。話をしに来ただけです」
「それでもいいのよ。ところで、後ろの子は……」
美紗のことをわたしに尋ねようとしたお姉さんを遮るように、美紗は怒りに満ちた形相で、わたしの前に出てきて、お姉さんのブラトップの襟を掴み上げた。弾みでお姉さんの黒髪が跳ね、隠れていたイヤリングが一瞬見えた。
「美紗!」
「お前か……彩佳をたぶらかして、泥棒の罪を着せたのは!」
その言葉と行動だけで、全てを理解したらしいお姉さんは、胸倉を掴まれても平然としていて、大人の余裕を見せるように微笑んでいる。
「ああ、なるほど……あなたが彩佳ちゃんの友達の、美紗さんね」
「どうでもいい! 一発ぶん殴らせろ!」
「美紗、さすがにそれはヤバいって!」
「いいわよ」
「「え?」」
お姉さんがあっさり、自分を殴ることを許してきて、わたしも美紗も驚き、拍子抜けした声を出してしまった。
「あなたにとってそれだけのことを、私はしたんだもの。でも殴るのは、彩佳ちゃんとのお話が終わってからにしましょう。玄関先で殴られたら、騒ぎになるもの」
「お、おお……」
落ち着いた大人の対応をされて、激昂していた勢いはどこへやら。お姉さんの胸倉を掴む美紗の手は緩み、お姉さんの手によってそっと離された。
「さあ、立ちっぱなしもあれだし、二人とも中に入って。お茶を出すわ」
そう言ってお姉さんは颯爽と踵を返し、部屋の奥へ戻っていく。玄関の外で、呆然と立ち尽くすわたしと美紗。
「……何者なの、あのお姉さん」
「さあね。それをこれから、確かめに行くよ」
* * *
リビングに通されたわたしと美紗は、丸テーブルのそばに正座した。台所ではお姉さんが、電気ケトルとティーバッグでお茶を作っている。
座りながら、部屋の中を見回してみる。最低限の家具しか置いていない、殺風景な部屋。壁際に置かれたチェスト。軽く布団を整えたベッド。レースカーテン。そのどれも、わたしは見覚えがあった。
お姉さんは温かいお茶を両手に持って戻ってきて、丸テーブルに置くと、わたし達と向かい合うように床に座った。
「さて、彩佳ちゃんは何に気づいて、どうやってここに辿り着いたのか。私にも説明してくれないかな」
「その前に……お姉さんの、本当の名前を教えてくれませんか」
望月佑というのは、わたしの思い違いを利用した偽名だし、宅配ボックスにも名前は書いていなかった。わたしがお姉さんの名前を知る機会は、一度もなかったのだ。これから話をするうえで、当事者の名前はちゃんと知っておきたい。
「うーん……ごめん、今は言えないわ。私はこれから、誰にも邪魔されずに成し遂げたいことがあるの。名前が知られたら、とてもやりにくくなるわ。あなた達が他の人に漏らすとは思えないけど、万が一に備えたいから……悪いけど」
「何をしようとしてるの? あんた」美紗が尋ねる。
「それは追々とね。わたしのことは、お姉さんでも佑さんでも、好きなように呼んでいいから」
そんな呼び方で大丈夫なのだろうか……佑さんというのは元々男の名前だし、口頭だったらはっきり区別できるとはいえ、紛らわしいことに変わりはない。ここは何歩か譲って、お姉さんと呼ぶことで我慢しよう。
「じゃあ、お姉さん……わたしは一昨日の晩、501号室へ誘われました。わたしはその部屋で眠ってしまったけど、翌朝に目が覚めた場所は違っていた」
「うん」
「わたしは、本当はここ……真上の601号室で、目が覚めたんです」
「え? どういうこと?」美紗が眉根を寄せる。
「つまり、わたしは眠っている間に、真上の部屋に運ばれたんだよ。お姉さんの手によって」
恐らく、夕食の時にわたしが飲んだコーラの中に、睡眠薬か何かが仕込まれていたのだ。あの場には他にも飲料があったけど、わたしの好みが分からないから、あえて複数を用意して、全てに睡眠薬を混入しておいたのだろう。まんまとわたしは薬が効いて、行為の最中に意識を失った。しばらく目が覚めないから、別の場所に運んでも気づかれない。
目覚めた場所が501号室でないとすれば、わたしの証言や記憶の矛盾は簡単に説明できる。
わたしが部屋を出た時刻と、望月佑なる男性が帰って来た時刻がほぼ一致するのに、鉢合わせしなかったのは、部屋が別々だったから。
わたしがドア枠の上に置いたはずの合い鍵がなかったのも、置かれたのが501号室ではなく、601号室だったから。
置いた鍵も601号室の鍵であり、本当の501号室の合い鍵は、お姉さんの手によって、わたしのカバンの奥に入れられていたのだ。鍵穴にはピッキングの痕跡もあったそうだが、あれもわたしを601号室に運んだ後で、お姉さんがわざとつけたものだ。
「お姉さんは、わたしがあなたを501号室の住人だと思い込んでいると、一昨日の会話の中で察し、わたしをこの計画に巻き込むことを決めました。まあ、同じ五階の住人で、あまり長く住んでいない人であれば、わたしでなくてもよかったと思いますが」
「あまり長く住んでいない、というのは?」
「六階と五階では、わずかですが、外の景色が違ってみえるはずです。わたしは平日に講義がある学生だから、遅めに起きれば慌ててしまい、細かい違いには気づきにくいかもしれませんが、長く住んでいれば、かすかな違和感に気づかれる恐れがあります」
「うん、確かにね」
「いずれにしても、そういう住人を最初から巻き込むつもりで、今回の事件は前から計画されました。501号室とそっくり同じ内装を、短期間で用意するのは難しいですから」
双子、というキーワードでわたしは、この可能性に思い当たった。内装や家具の配置を、可能な限り瓜二つにして、601号室を501号室と思わせたのではないか、と。たとえ細かい違いがあったとしても、初めて部屋に入った人に、そんな違いは分からない。眠った場所と起きた場所が異なるなんて普通は考えないから、違いを探そうとも思わない。
家族なら違いが分かる双子でも、初見では違いが分からない。違いがあると思わなければ気づくこともない。それと同じだ。
ちなみにこのトリックには、外の景色の違い以外にもネックがある。わたしが601号室を出た後、下へ行くためにエレベーターを使うはずだが、当然ながら六階で乗ることになる。つまりエレベーター内の階数表示で気づかれる可能性もあるのだ。だが、ここのエレベーターの階数表示は豆電球のみで、天井灯のせいでただでさえ見えづらい。六階と五階に当たる豆電球を少し緩めておけば、乗ったのがどの階なのか、すぐには判別できない。何しろわたしは、そこが五階だと疑っていなかったし、エレベーターの到着が遅くて焦っていたから、なおさら気づけないだろう。
「何のために、あなたみたいな住人を巻き込もうとしたのかしら」
「もちろん、501号室でお金を盗んだ疑いを、一時的に向けさせるためですよ」
お姉さんの行動はかなり計画的だった。部屋を尋ねる時間を細かく指定したのは、同じ階の向山という住人が、いつもその時刻に部屋を出ることを知っていて、目撃証人にさせるためだ。ノックをさせず呼び鈴も鳴らさないように言ったのは、不自然な入り方を印象づけ、向山にわたしを怪しませるためだ。この点は美紗も気づいていて、お姉さんの行動が全てわたしを嵌めるものだと分かっている。
玄関側の明かりをつけなかったのは、廊下から見て501号室が無人だと思わせるためだ。本当の住人が外出しているのに、わたしが入る前から部屋に明かりがあると、わたしが部屋に侵入したという可能性を疑われてしまう。だから、蛍光灯が切れていると言い訳して、玄関側を真っ暗にしておいたのだ。
全てはわたしの行動が不自然に見えるようにして、家人が留守にしている間に部屋に入った唯一の人間を、窃盗の容疑者に仕立て上げるためだ。あくまで一時的に、だが。
「一時的に、ってどういうこと?」と、美紗。
「お姉さんにとっては、それだけで十分だったってこと。わたしが犯人じゃないことは、調べればすぐに分かることだから」
昨日の警察の対応を見ていても、わたしを本気で疑っているわけじゃないのは分かる。それはそうだ。どこからも盗まれた現金が見つからないうえ、わたしの証言の矛盾はあからさますぎて、疑ってくれと言っているようなものだ。しかも、パトカーがまだマンションの前にある状況で、のこのこと現場に戻ってきている。犯人の行動としては不自然すぎる。
お姉さんも、いずれこうなることを見越して、わたしに疑いの目を向けさせたのだ。警察に疑わせるというより、短気な望月さんにわたしを疑わせる必要があったのだろう。実際、望月さんはかなり乱暴な解釈で、わたしを犯人だと決めつけていた。
「恐らくお姉さんは、望月さんの注意がわたしに向いている間に、別の何かをしようとしていたんだよ。お金を盗み、警察沙汰にして、別の人間に容疑が向けられたら、その間にお姉さんが何をしていても、望月さんに気づかれないと踏んでね」
「ふふっ」お姉さんは満足そうに笑う。「彩佳ちゃん、賢いのね。ひとつ大事なことに気づけば、芋づる式に全てを理解しちゃうんだもの。ここに辿り着いたのも、もちろん偶然じゃなくて、きちんと考えがあってのことでしょう?」
「ええ。実際にわたしが目覚めた場所は、お姉さんがこの計画のために押さえた場所。だから、住人として登録している可能性が高いと思ったんです。初めから望月さんを狙っていたとすれば、彼の部屋から近く、なおかつ彼に気づかれにくい場所だろうと」
マンションの部屋の間取りは、同じ階でも異なるものだが、上下に隣接する部屋同士は、間取りがほぼ同じになる。501号室と誤認させるには、上下で隣接する部屋を使うのが望ましい。候補は、真下の401号室か、真上の601号室だ。
だが、下の階に住んでいると、ひとつ問題が発生する。501号室の住人はマンションを出入りする際、ほぼ必ずエレベーターを使う。当然、行きも帰りも、エレベーターは下の階を必ず通過する。もし401号室に住んでいれば、同じ階の住人がエレベーターに乗るために止めた時、望月さんが乗っていたら、顔を見られる恐れがある。401号室はエレベーターの目と鼻の先だから、なおさらそのリスクは高くなる。
上の階の601号室なら、望月さんはまず間違いなくエレベーターでは来ない。乗り降りのタイミングを間違えれば、六階に行くこともあるだろうが、四階で見つかるより可能性は断然低い。望月さんに気づかれないように住むなら、601号室の方が最適だ。
「だから、ここじゃないかと思ったんです」
「すごいわ。名推理ね、彩佳ちゃん」
お姉さんはなおも嬉しそうに、拍手でわたしの推理を讃えた。事件を起こした主犯なのに、褒められてちょっと嬉しくなっている自分が悔しい。
聞いているだけの美紗は、どこか面白くなさそうだ。
「あのさ、こんなことをして、あんたは何をしたかったの。彩佳に泥棒の罪を着せるのも、一時的に過ぎないっていうし……その望月佑って男から、お金を盗むだけじゃなく、他に何をするつもりだったんですか」
「うーん……さっきも言ったけど、それはこれから成し遂げたいことだから、万が一を考えて誰にも話さないことにしているの。悪いけど……」
「告発の準備をするためでは?」
「!!」
わたしの指摘に、お姉さんは目を見開いた。初めてお姉さんが驚き、余裕を崩したところを見たかもしれない。
「彩佳ちゃん、どうしてそれを……」
「そうですか。正直、こっちの推理は自信がなかったんですけどね」
お姉さんがわたしに対して何をしたのか、状況をよく整理すれば、わたしは推測を立てることができる。だが、わたしの知らないところで進めていたことについては、断片から想像するしかなかったから、間違えている可能性も充分にあった。
どうやらわたしの想像は、間違っていなかったようだ。お姉さんが、わたしの二の句を待ち構えるように、真剣な面持ちでわたしをじっと見ている。
「……お姉さんの行動は何もかも計画的で、隙がないように見えたのですが、ひとつだけ、おかしな行動をとっていました」
「おかしな行動?」
「ホットプレートで焼きそばを作っていたことです」
「……ああ、なるほどね。そこから気づくなんて、私も油断したなぁ」
「どういうこと?」
お姉さんは、油断した心当たりがあるからすぐに理解したが、美紗はひとりだけ、わたしの指摘したことの意味が分かっていないようだ。
「さっきも言ったとおり、わたしが招かれた501号室は望月さんの部屋であって、お姉さんはその部屋に勝手に忍び込んでいた。そんなところで焼きそばを大量に作ったら、リビング中にソースの匂いが染みついてしまうから……」
「そっか! 後から帰ってくる望月さんが匂いに気づいて、誰かが勝手に部屋に入ったことが一発でバレてしまう!」
「ただの泥棒が、侵入した先で呑気に焼きそばを作るわけがないから、侵入者はその部屋で別の何かをしていたと、当然考えるだろうね。そうなると望月さんは、これがただの窃盗じゃないと思うはず。お姉さんが何を企んでいたとしても、支障が出てしまう。わたしを夕飯に誘うにしても、よりによって焼きそばを選ぶはずがない。強い消臭剤を使っても、今度はその消臭剤の匂いに気づかれる恐れもあるし」
「でも、望月さんは結局、そのことに気づいてないよね? 気づいていたら、彩佳を疑う時に何か言ったはずだし」
「気づいていながらわたしや警察に黙って、逆にお姉さんへの脅しに使おうとした可能性もあるけど……それはお姉さんだって当然想定できたはず。それなのに焼きそばを選んだのは、作って匂いが残っても、望月さんにバレる心配がないと分かっていたからだよ」
「バレる心配がないって……?」
「望月さんもまた、前日あたりに焼きそばを作っていて、最初から部屋にソースの匂いがあったから」
そういうことか、と美紗は呟く。焼きそばのソースの匂いが部屋に残っても、望月さんはその匂いが、前日についたものだと錯覚したのだ。だから望月さんは何も言わなかったし、お姉さんも問題なく焼きそばを作れた。しかし。
「ただ問題は、どうしてお姉さんがそのことを知っていたのか。焼きそばのことだけじゃない。601号室の内装を、501号室とほぼ完璧な瓜二つにするには、501号室の家具・家電の種類や配置を細かく把握していないといけない。さっきも言ったけど、全く同じ家具と家電を用意するのは、短期間じゃできない。お姉さんはもっと以前から、501号室の内装をチェックして、同じものを用意して601号室に運び込んでいた」
「ものすごく計画的だね……でも、前日の食事の内容とか、家具の配置とか、そんなものどうやって把握するの? どっちも、部屋の外から探るのは難しくない?」
「そうだね。だからこう考えるしかない。お姉さんは、元から望月さんと親しくしていて、何度も501号室に入ったことがあるんだよ」
「え? でも、望月さんは、このお姉さんのことは知らないって……」
「うん。わたしがお姉さんの特徴を伝えた時、それが誰を指しているのか、望月さんはすぐに分かったはず。でも知らないと言い張って、あまつさえそんな女性は存在しないのではないかとまで言った。つまりお姉さんと望月さんは、望月さんが表沙汰にしたくない、あるいは警察に知られたくない関係にある、ということになる」
……自分で言っておいて、すごく複雑な気分だ。どんな形であれ、このお姉さんが望月という男と親しくしていたという事実に、かすかでも不快感を覚えるなんて。
ただ、瓜二つの部屋を用意していた可能性に行き着いた時点で、二人がとても近い関係なのは容易に想像できた。だからこそ彼女は、現金や合い鍵がチェストの中にあることや、望月さんの生活サイクルも知っていた。わたしと初めて会ったときも、普通に501号室から外へ出かけようとしていた。501号室に出入りしてもおかしくない間柄だったのだ。
冷静に考えれば、こんなことはすぐ見当がつく。それでも、信じたくないという気持ちが、少しもないといえば嘘になる。もはや彼女に肩入れする理由はないというのに。
「……501号室を最初に訪ねたときから、ずっと不思議でした。内装がそっくりなこの部屋もそうですが、家具も家電も最低限しかなくて、生活感がほとんどありません。特に、収納が小さなチェストだけというのは、男性のひとり暮らしにしても少なすぎです。だからこそあなたも、この部屋を501号室そっくりにすることが、普通にできたようですが」
「…………」
「極限までシンプルな内装にしていたのは、予想もしないトラブルに見舞われたとき、例えば、警察に踏み込まれるなどに、素早く必要な荷物を持って逃げられるようにするため。多額の現金をチェストに仕舞っていたのも、万が一銀行口座が凍結されても、しばらく忍んで生活できるように、お金をすぐに使える状態にしておきたかったから」
「ちょっとそれ、なんか犯罪者の行動みたいだけど……」
美紗の言うとおりだ。お金を盗まれた被害者であるはずの望月さんが、警察署での事情聴取を頑なに拒んだのも、犯罪者だからこその行動といえる。おまわりさんを呼ぶ程度なら問題はなくても、警察署には他にも大勢の警察官がいるから、自分を知っている警察官に出くわす可能性が非常に高いと思ったのだ。
望月さんは何らかの犯罪に関わっていて、そしてお姉さんとの関係を、警察に知られたくなかった。お金を取り戻すことに強い執着を持っているから、お金絡みの犯罪に関わっている可能性が高い。考えられるパターンは二つある。
「望月さんがしているのは、デート商法かもしくは……結婚詐欺」
「…………」
「そしてお姉さんはそのターゲット。その立場を利用して、望月さんを罠に嵌めようとしている。望月さんが窃盗事件に気を取られている間に、詐欺の証拠を手に入れていた」
わたしが話している間、お姉さんは真顔のまま、無言でわたしを見つめ返していた。こっちに自信がなかったとはいえ、ここまで看破されるとは思っていなくて、警戒心を強めたかもしれない。もっとも、わたしが推理できたのはここまでだから、これ以上は警戒されてもあまり意味がない。
やがてお姉さんは諦観したようにふっと微笑んだ。
「ちょっと、彩佳ちゃんのことを甘く見ていたかな。世間ずれしていない学生さんだと見くびって、油断していたかも」
「お姉さん……」
「計画の一番肝心なところを見抜かれたなら、もう隠す必要はないわね。ここからは私が話すわ。でも、計画が完全に終わるまで、この話は他の誰にも言わないでね」
ということは、お姉さんの計画はまだ途中段階なのか。正直、お姉さんの計画というのが、犯罪者を捕まえるものなのか、それとも犯罪者を利用して利益を得るものなのか、どちらなのか分からないから、ここで他言しないと約束していいものかどうか。
だけど、ここまでのお姉さんのふるまいを見ていて、わたしはこの人が、悪い人とは思えなくなっている。そのふるまいも全て演技で、ただの幻想かもしれないけれど、信じてみてもいい気がする。
「分かりました。誰にも言いません。美紗は?」
「……わたしも言わない。そうしないと、ちゃんと話してくれなさそうだし」
美紗の考えは結構打算的だった。まあ、彼女はもっとお姉さんのことを信じていないし、美紗らしいといえばそうだけど。
お姉さんとしては、他言さえしなければそれでいいらしい。わたし達の返答に頷くと、静かな口調で語り始めた。
「彩佳ちゃんの推測どおり、あの望月佑という男は結婚詐欺師でね、これまで何人もの女性と関係を持って、結婚の話を持ち出しては、その費用を折半しようと言って、半分の額を相手の女性から預かって持ち逃げする、という犯行を繰り返していたの」
「クズだな」
「美紗」
苦虫を噛み潰したような顔で、望月さんのことを端的に侮辱する美紗を、わたしは呆れながらたしなめる。まあ、望月さんを擁護する気はわたしもないが。
「そして、私の友達も、望月の詐欺被害に遭ったのよ」
「え?」
「取引先の会社で出会って付き合い始めたと言っていたわ。半年ほど経ってから結婚の話が持ち上がって、具体的な計画を立てて、費用を半分ずつ出し合って、望月の口座に集めたところで、望月は姿を消した……私が結婚の報告を受けてから、わずか十日後のことよ」
「そんな……警察には知らせたんですよね」
「もちろん、私も同伴して警察に相談したわ。でも、相手の男のプロフィールはほとんどが偽造だし、資金を持ち逃げしただけだと、詐欺として立証するのは厳しいと言われたわ。詐欺罪って、当事者に騙そうとする意思があることと、被害者に騙されたという自覚があることの、両方を証明する必要があるから」
「じゃあ、泣き寝入りするしかないってこと? お金を持ち逃げされたのは事実なのに?」
「返す意思はあるけど返すためのお金がない、って言われたら、警察は手出しできない。借金だってそれと同じよ。こういう所があるから、詐欺の立件は難しいの」
嘘でもそれっぽい言い訳をすれば、詐欺で捕まることはない……詐欺師もそれが分かっているから、逃げ道に利用しているのだろう。あまりに腹立たしい話だ。
「法律って役立たずですね……」
「そりゃそうよ。この件で相談した弁護士にも言われたわ。法律というのは個人を守るものじゃなく、社会秩序を守るためのものだって。この世に、弱者を守る法律なんて、存在しないのよ」
「ふざけた話……弁護士の言うこととは思えない」
「まあ、あの先生は親切心で現実を教えてくれたのだから、悪く思ってはいないわ。でも、その友達はショックで寝込んでしまって……半年前、自殺を図ったわ」
「!」
わたしも美紗も、二の句が継げなかった。詐欺の被害に遭って、失意のあまり自殺する……ニュースでもよく聞く話だ。でも、身近な人の話として、直接に聞くのは初めてだ。ニュースを聞くだけでは感じなかった、総毛立つほどの寒気に襲われた気がする。
誰かに打ち明けることで少し気分が和らいだのか、お姉さんの表情は穏やかだった。たぶん、顔に出ていないだけだと思うけど。
「睡眠薬を大量に服用したの。幸い、途中で吐き出した後に気絶したおかげで、一命はとりとめたけど、精神的ショックが原因なのか、今も意識は戻らないままよ」
「…………」
「付き合い始めたときも、結婚を報告した時も、あの子は無邪気に私に連絡してきたわ。私はただ、あの子が幸せでいてくれれば、それでいいと思っていた。でも、その幸せはまやかしだった……私はそのことに気づかず、あの子が自殺するのも止められなかった。本当につらくて、苦しくて、惨めだったわ……」
淡々と、滔々と、朗読のように悲劇を語るお姉さん。冷静に事実を並べているだけにしか聞こえないのに、なぜこんなにも胸に突き刺さるのだろう。
一度は絶望に陥ったわたしには、なんとなく分かっていた。本当に深い苦しみの中にいる人間は、その苦しみが口調にはっきり表れることはない。苦痛に苛まれ、潰されないよう、とにかく耐えることに必死で、誰かの感情に訴える余裕すらないのだ。お姉さんは今も、友人を救えなかった悔恨と自責の念に苦しめられている。
「そんな私のもとに、あの男は現れた。今度は望月佑と名乗って、私を詐欺のターゲットにするために」
「でも、一度騙した相手の友人に近づくなんて、リスクが高すぎるんじゃ……」
「あの子は知り合いが多かったし、私も数ある友人の一人だったから、望月も、私が昔のターゲットの友人だとは気づかなかったのね。元より、あの男にとってターゲットの女性は全員捨て石だから、いちいち顔なんて覚えてないでしょうし、その友人だったらなおさら記憶していないでしょう」
「マジでクズだな」
「美紗」
望月さんを端的に侮辱する美紗を、わたしは呆れながらたしなめる。でも、もうたしなめるのもやめようかと思い始めていた。
「もちろん私は忘れてなんかいなかったわ。あの子から何度か写真を送られていたから、顔は把握していたの。でもそのことは、あの男の前ではおくびにも出さなかったわ。過去の被害者の友人だと知られたら、間違いなく逃げられるもの。今度こそあの男の尻尾を掴んで、ブタ箱に追い込んでやろうと決めていたから」
最後の台詞を言ったお姉さんの顔は、暗く、険しく、耐えがたい怒りに満ちていた。ブタ箱って確か留置場のことだよね……リアルで初めて聞いたよ、そんな言葉。わたしも美紗もちょっと引いている。
「まあ、結婚詐欺師を色気で騙すわけだから、かなり苦労したけれど、その甲斐あって、あの男が現在のねぐらとしている、このマンションに出入りできるようになったわけ。そしてすぐに、真上の部屋をこっそり借りて、あの男の動向をいつでも探れるようにしたの。何かのトリックに使えるかもしれないと思って、同じ家具と家電を揃えて、ここをあの男の部屋と瓜二つにしたりしてね……時間はかかったけど、ようやくあの男を嵌めるための算段が整った。その矢先に、あなたと出会った」
「…………」
「すぐ隣に住んでいて、私に好意的に接してくれる、世間知らずっぽい子。この計画で利用するには持ってこいだと思ったわ。悪いとは思ったけれど……」
分かってはいたことだが、改めて本人の口から、わたしを利用したと聞かされると、なかなか応えるものがある。それでも、お姉さんが多少なりとも罪悪感を持っているみたいだから、さほどショックでもない。
だから、ね? そんな殺意のこもった目で見てやらないで、美紗。
「私も当初は、あの男を殺すことも視野に入れていたのよ。生かしておく理由もなかったしね。でも、仮に完全犯罪を成し遂げて、警察に捕まらなくても、人を殺した事実は私に一生付き纏うことになる……そんなの、友達は望んでいないはずだと、思いとどまったの」
「…………」
黙る美紗。これはもしや、美紗の視線に気づいて、たしなめるつもりで話したのかな。
「それで、どうやって望月さんを嵌めるつもりなんですか」
「やること自体はシンプルよ。常習的な詐欺師はプライドが高く、特に結婚詐欺師はその傾向が強い。狙いを定めた女性の身上は徹底的に調べるし、首尾よくお金を騙し取れたら、戦利品のごとく女性のデータを保管しておき、自尊心を満たそうとするのよ」
「もはやクズと呼ぶのも可愛いレベル」
「…………」
「いや突っ込まんのかい」
はい、望月さんを端的に侮辱する美紗をたしなめるのは、もうやめました。
「予想どおり、あの男もこれまでに騙した女性たちのデータを、手帳に書き留めてチェストに隠していたのよ。安全性を考えれば、クラウドに保管する方がはるかにいいはずだけど、目に見えて戦果が分かる方が、自尊心が満たされるタイプみたいね。そのデータを警察に提供すれば、過去の詐欺被害の繋がりが立証できて、あの男が初めからお金を騙し取るつもりで女性たちに接触した、そのことも示せるわ」
「じゃあ、お姉さんはその手帳を……」
「いえ、隠し場所を把握するだけで、持ち出してはいないわ。無くなったことにあの男が気づいたら、警察が踏み込む前に逃げられるし、真っ先に私のことを疑うでしょうから。あの男が単独犯という確証がない以上、仲間や共犯者からの報復も、考慮する必要があるわ」
そっか……望月さんしか話に絡んでいないから失念していたけど、よく考えたら、事前の調査や仕込みのために、仲間を使う可能性は十分にあるのだ。望月さんが単独犯だなんて証拠は、どこにもない。
お姉さん、実は結構危ない橋を渡ろうとしているのでは……?
「そのままじっと機会を窺い続けて、先日、彩佳ちゃんを501号室に招き入れて、計画を実行することにしたの。彩佳ちゃんが眠りについた辺りで、手帳の中身をできる限りスマホで撮影しておいた。そして手帳はそのままにして、現金と合い鍵だけを取り出し、合い鍵は彩佳ちゃんのカバンの中に入れた。その後は、彩佳ちゃんが推理したとおりね」
「つまり、お姉さんのスマホには、望月さんの詐欺の証拠が……」
「ところがどっこい、写真のデータはクラウドに保存されていて、今はログアウト状態だから、パスワードを知っている私しか手出しできない状態ってわけ」
「抜け目ないですね……」
「小賢しいだけの詐欺師と違って、私は慎重で思慮深く動くから」
「……その割に彩佳への配慮は足りてなかったんじゃないの」
目を逸らしながら、棘のある言葉を吐く美紗。気持ちは理解できなくもないから、わたしもお姉さんも苦笑するしかない。わたしへの配慮が足りない、というのは正直わたしも思ったけど、自分では言いにくかったから、代弁してくれたのは助かったかな。
ところで、お姉さんの話の中でひとつ、気になる所があった。
「そういえば、盗んだ現金はどうしたんですか? まだ持っているとか……」
「まさか。目を逸らすためにチェストから取り出したのに、私が手元に置いていたら、窃盗罪で私が先に捕まってしまうわ。三十万円はまだ、501号室に隠されたままよ」
なるほど、元あった部屋に隠したのなら、盗んだことにはならない。後から501号室でお金が見つかれば、警察もそこで捜査を終えるから、お姉さんに警察の手が及ぶことはないってことだ。本当に抜け目ない。
「じゃあ、どこに隠したんですか。誰にも言いませんから、教えてくださいよ」
「気になる?」
「ここまで聞いて気にならないとでも?」
「じゃあ二人とも、ちょっと耳を貸して」
どこで聞かれるか分からないからか、お姉さんは耳打ちで教えるつもりのようだ。ここまで慎重すぎるのも考え物だけど。呆れながらもわたしと美紗は、テーブルを挟んで、身を乗り出してきたお姉さんに耳元を近づける。
「これは友達から聞いたことなんだけど、あの男、何か満足する出来事があると、決まってホットプレートで大皿料理を作るのよ。彩佳ちゃんが来た日の前日も、私が結婚資金を半分出すと言い出したから、調子に乗って焼きそばを作っていたのよ」
「んと、話がよく見えませんが……」
「彩佳ちゃんにもすでに見せたけど、あのホットプレート、よくあるヒーター式でね、電熱線のヒーターの上にプレートを置いて温めるタイプなの。そのプレートとヒーターの隙間に、ティッシュペーパーで包んで挟んでおいたの」
「…………ん?」
なんか、想像の斜め上を行く隠し場所だった。ホットプレートの、プレートの下に隠したということか。無くなったのは確か三十万だから、使用済みのお札でも、束ねた厚さは五ミリもないはず。隠そうと思えばできなくもないだろうけど……。
お姉さんのヒソヒソ話は続く。
「紙は普通、450度以上にならないと自然に発火しないんだけど、ホットプレートのヒーターは250度くらいだから、スイッチを入れても燃えることはない。でもティッシュペーパーは密度が低くて、230度くらいでも燃えてしまうの」
「…………」
「私はこれから警察署に行って、あの男の詐欺の記録を見せるつもり。そのうえで、あの男を油断させるためという名目で、私がお金を盗んだことを自供したと、警察側からあの男に連絡してもらう。私が観念して自首したと思い込んだあいつは、ホットプレートで料理を作って祝杯をあげるはず。そうすれば……」
ヒーターの熱でティッシュが発火し、お札に引火して燃え出す。ホットプレートの料理は普通に作っても煙を発するから、中でお札が燃えていても、すぐには気づかない可能性が高い。気づいたときには、三十万円が灰になっているわけだ。
開いた口が塞がらない……なんてえげつない隠し方だ。お姉さんはお金を隠しただけで盗んでおらず、お金を灰にしてしまったのは望月さんのミスということになる。単純に望月さんの犯罪を告発するだけでなく、彼の性格を利用して、彼が執着していたお金を灰にすることで、仕返しすることも企んでいたとは……。
お姉さんの頭の良さだけで、なせる業ではない。友達を苦しめて自殺未遂にまで追い込んだことが、それほど許せなかったのだろう。殺したりはしなくとも、痛い目に遭わせてやりたいという気持ちは、捨てていなかったようだ。
「……とまあ、これが私の計画の全てよ。納得してくれた?」
「納得というか……」
「さすがにあのクズ男が気の毒に思えたよ。このくらいだけど」
そう言って美紗は、気の毒に思った程度を、二本の指の隙間で表した。……いや、その親指と人差し指、完全にくっついてますやん。絶対ざまあみろって思ってるよ。
「この計画が無事に終わったら、入院している友達に報告しに行くわ。もっとも、未だに意識が戻っていないし、聞いてくれるかどうか分からないけど」
「その友達のために、騙し取られたお金を取り返そうとは考えなかったの?」と、美紗。
「いいえ」お姉さんはかぶりを振る。「あの子が自殺しようとした原因は、お金を取られたことじゃない。愛する人に裏切られたこと……その人から向けられる愛情が、偽物で、ただの幻だったと気づかされたことだから。その心の傷は、お金を取り戻したくらいで、癒えるものじゃない」
「……それもそっか」
「だからせめて、私だけはあの子のそばにいて、変わらず大切に思っているよって、伝えておきたいのよ」
どこか達観したような様子で、お姉さんは言った。
他人のこととはいえ、やっぱり聞いているのはつらい。たとえ親友でも、その苦しみにきちんと寄り添えるとは限らないし、まして傷を癒すのはもっと難しい。友達が自殺を図ったとき、お姉さんはどれほど苦しみ、悔しく思い、自分を責めたことだろう。そして、ここまで達観できるようになるまで、どれほどの逡巡を重ねてきたのだろう。その日々に思いを馳せるだけで、わたしは胸が締めつけられそうになる。
「さて、私からの話はこれで終わりよ。二人とも、今日も大学の講義があるんでしょ?」
「ええ、まあ……」
「私も警察署に行って、色々とやらないといけないことがあるから、お話はここまでにしましょう。名残惜しいけど、たぶん、二人とはここでお別れね」
お別れ……そうか。お姉さんがここにいるのは、望月さんに復讐する機会を窺うためだ。今日にもそれが達成できるなら、お姉さんがここに戻ってくる理由はない。きっと、入院している友達のすぐ近くに、居場所を移すのだろう。わたしがお姉さんに会うことも、恐らくもうない。
分かっていたはずだけど、綺麗さっぱりお別れ、というわけにはいかないな。わたしにとってあの夜の出来事は、それほど強烈で、あの日だけの過ちとして片づけるのは、途方もない事だ。このまま別れて全て忘れる、なんてできそうもない。
だからせめて、これだけは聞いておきたい。聞かないと、後悔しそうだ。
「じゃあ、先に行くわね。ドアの鍵はそのままにしておいていいから」
「待ってください」
話を終わらせて立ち上がり、ハンドバッグを持って玄関に向かおうとしたお姉さんを、わたしは呼び止めた。立ち止まって振り向いた彼女に、問いかける。
「最後に、聞きたいことが二つあります」
「何かしら?」
「わたしを一時的に窃盗犯に仕立て上げるだけなら、睡眠薬で眠らせるだけで十分だったはずです。体を重ねる必要は……なかったのでは?」
お姉さんは真顔のまま、答えなかった。
話を聞いている間、ずっと引っかかっていた。お姉さんの行動は何もかも計画的なのに、わたしとエッチしたことは、どう考えても必要な行動ではなかった。翌朝に起きたわたしを動揺させ、部屋の違いに気づけなくさせるためだとしても、他に方法はあったはず。ほとんど関わりのなかったわたしとあんなことをするなんて、後腐れが生じるだけでメリットはほとんどないだろう。
そしてもうひとつ、不可解なことは、今この瞬間にもある。
「それとお姉さん……どうしてまだ、この部屋にいるんですか?」
「…………」
「わたし、この部屋に来るとき、お姉さんはもういない可能性が高いと思っていました。望月さんの注意をわたしに向けている間に、告発の準備を進めるなら、望月さんのすぐ近くに留まるのは危険ですし。実際、お姉さんの話を聞く限りでも、三十万円が無くなったと判明した時点で、お姉さんは警察にデータを持ち込めばいいわけで、ずっとここに留まる理由はないはずです」
「確かに。なんかまるで、彩佳がここに来るのを、待っていたみたいだ……」
美紗の言うとおり、お姉さんがここに留まっているのは、わたしが来るのを待っていたからだと思える。その証拠に、お姉さんはわたし達との話が終わって、すぐにここを出ようとしていた。留まる理由が他にあるとは思えない。
わたしの問いかけに、お姉さんは黙ったまま伏し目になる。さっきまでの穏やかな雰囲気が消え失せ、影の差した表情になって、そしてぷいと目を背ける。
「……なんでだろうね。本当に、そんな必要はなかったし、そのつもりもなかったのに。どうしても、ここを去る前に、一目だけ彩佳ちゃんに会っておきたかった。ここに来ない可能性の方が高いし、来るとしてもいつになるか分からないのに、ね」
「お姉さん……」
「私も不思議に思ってた……彩佳ちゃんから、素敵なイヤリングをもらった時、この子の話し相手になりたいって強烈に思えた。彩佳ちゃんに手を握られて、離さないよね、って言われたとき、本当に、何が何でも離したくないって思ってしまった……」
どちらも覚えがある。お姉さんに似合うと思ってお土産に渡したイヤリングを、お姉さんはとても嬉しそうに受け取った。疲労と睡眠薬でぼんやりとした意識の中で、お姉さんの手を取って、美紗みたいに離してほしくないと告げた。その後に、お姉さんはわたしを抱いて、キスをした。
いったいどれが、お姉さんの計画どおりの行動だったのだろう。あるいは、お姉さんにとっても想定外のことが、彼女の心の中で起きていたのだろうか。
お姉さんはもう一度振り返って、髪を掻き上げながら、わたしに告げる。
「だけどね、改めてあなたと話して、ひとつ分かったことがあるの」
「…………」
「彩佳ちゃん、あの子に……私の友達に、どことなく似てる」
その微笑みは、さっきまでの余裕に満ちた穏やかさとは違っていた。まるで、そう、美紗がわたしに向けるものに、似ている気がする。
お姉さんにとって、その友達は、どんな存在だったのだろう。親友。単なる友情。それ以上の何かがあるのでは。そんなふうに勘繰るのは、さすがに不躾だろうか。
そして、ふと覗いたイヤリングを見て、同じだけの感情がわたしにも向けられたと勘繰るのは、自惚れすぎだろうか。
「迂闊だったわね……利用するだけ利用したら、そのまま忘れるつもりでいたのに、たぶん私、あなたのことは忘れられないわ」
「……忘れてくれた方が、よかったです」
「そうね、残念だけど」
うん、本当に残念だ。一夜の過ちなんて、一夜で忘れるべきだったのに。わたしもお姉さんも引きずってしまうなんて……。
ぬかるみのように付きまとう、夢想にも似た雑念が、わたしとお姉さんの間に横たわっている。
だがそれは、美紗の平手打ちで、綺麗に吹き飛ばされた。
「…………」
「本当は拳で殴りたかったけど、これで勘弁してやる。二度と彩佳の前に現れんな」
小気味よいほどの音を立てながら頬を叩かれて、目を見開いて呆然とするお姉さんに、美紗は力強い口調で言い放った。なんだか、怒っているというより、叱っているみたいだ。
左の頬が少し腫れたように見えるけど、お姉さんはどこか満たされたように、元の穏やかな微笑みに戻った。
「……よかった。あなた達、ちゃんと元の鞘に収まったのね」
「なんなら元の関係以上になってるけど?」
「ふふっ、頼もしいわね。美紗ちゃん、彩佳ちゃんのこと、よろしくね」
「あんたに言われずとも、一生そのつもりだっつーの」
鼻息を荒くしながら、美紗は当然のように答えた。陽キャで人当たりのいい子だと思っていたけど、こんなに男勝りで頼もしい一面もあるのだな……一生はさすがに重いが。
そのおかげか知らないが、なんだかわたしは、このままお姉さんのことを吹っ切れそうな気がしてきた。本当に、昨日からずっと、わたしは美紗に救われている。
「じゃあ、二人とも」
満足した顔でお姉さんは、玄関に立ってドアを開け、晴れやかに告げた。
「さよなら。それと、ありがとう」
* * *
お姉さんがこのマンションから離れるのを待ってから、わたしと美紗もマンションを出ることにした。一緒にいる所を見られるのは、たぶんまずいから。
エントランスから外に出て、一度立ち止まったわたし達は、人の往来が多くなったマンション前の通りを、ぼうっと見つめている。ここ数日だけで色々とありすぎて、一応の決着を迎えた今は、なんだか長い夢から覚めたような感覚だ。
「あのお姉さん、大丈夫なのかな……」
「さあ……上手くいくことを祈りたいけどね。傷つけられた友達のためにも」
「そうだねぇ。わたしはあの女を許すつもりないけど、計画は成功してほしいな。あの腐れクズ男に泣かされた人は、きっとあの女の友達の他に、大勢いたんだろうし」
美紗は会ったこともない望月さんを、さらにグレードアップした蔑称で呼び続けている。結婚詐欺師という以前に、わたしを散々泥棒扱いして苦しめたことが、よほど腹に据えかねているみたいだ。
「さて、これからどうする?」
「真相は分かったし、警察がかけた窃盗容疑もすぐに晴れるだろうけど、計画が上手く運んで、望月さんが逮捕されるまでは、自分の部屋に戻りたくないかな……もう少しだけ、美紗の家に一緒にいていい?」
「ふぐっ。も、もちろん……なんなら、このまま一緒に住むってなっても、わたしは一向に構わないけどねっ」
急に赤面して挙動がおかしくなる美紗。友達同士でルームシェアなら、今どきはさほど珍しくないと思うが、今の美紗が言うと別の意味も含んでいそうだ。まあ、満更でもないと思っているわたしも、大概なのだが。
とはいえ、確か部屋を借りる時は二年契約だったはずだし、いきなり解約でもしたら結構な額を取られてしまう。大学で知り合った友達と同居するから引っ越します、なんて話は、金銭的な理由で母君が認めてくれなさそうだ。しばらく身を寄せるくらいはできるけど、一緒に住むとなると、今はまだ面倒事が多いだろうな。
いやまあ、同居を真剣に検討している時点で、わたしもまあまあ本気っぽいが。
「……いつかは、そうなれたらいいね」
「んんっ、希望は残してくれるけど、このまま同棲生活に直結、とはいかないか」
「美紗と一緒に住むの、悪くないって思うよ。でもとりあえず今は……」
わたしは美紗の手を取る。今度は振り払われなかった。
「早く大学に行こう。一緒にお昼を食べて、一緒に教科書を買いに行こう」
「!」
わたしの誘い文句に、美紗は少しだけ驚いたけれど、すぐに顔がほころんだ。
「うん、行こっか!」
そしてわたし達は、手を取り合って一歩を踏み出す。
確かにこの瞬間、わたしの心は弾んでいた。入学したての頃の、期待と不安が入り混じったような、不思議な感覚を思い出す。でも少しだけ違う。今のわたしには、大げさな決意なんてなくても、何だって成し遂げられそうな予感がしていた。
だって、今この手の中にある熱は、幻なんかじゃないから。
突貫工事で書き上げたものですが、何とか間に合ってよかったです。ホットプレートの逆襲については、思いつきはしたものの、調べたら意外と無理があることが分かったので、寸前で何とか調整するはめに。トリックは思いついたときが苦労の始まりなのです。
前回の「春の推理」投稿作では、ほのめかすだけだった百合要素が、今回は前面に出るばかりかがっつりキスシーンまであって、驚いたかもしれません。一応、作品のジャンルは推理ものと指定されているので、キスシーンは本来なくても成立するのですが、登場キャラたちの感情の揺れ動きを見せるなら、あって損はないと考えました。ミステリは論理が主体ではありますが、やはり心情描写がないと、書いていても面白くないので、入れて正解だったと思っています。
彩佳と美紗はいいコンビになりそうなので、機会があれば、またこの二人をメインにした短編を書いてみたいですね。前回の投稿作では、メインが二人とも死んでしまったから、続きなんて書きようがないので……。