中編
大変なことが起きます。
そして、百合の花が咲きます。大切にしましょう。
レースカーテンをすり抜ける、外からの光で目を覚ます。
妙に体が重い。わたしはベッドの上で、肘を突きながら上体を起こした。目が覚めたとはいえ、まだ頭の中に澱みが残っている感じがする。朝にこれほどすっきり起きられないのは久々だ。
寝ぼけ眼をなんとか開いて、薄明るい部屋の中を眺めた。
「あれ……ここ、どこだっけ」
引っ越したばかりの部屋で朝を迎えるのは、これで四日目のはず。まだ見慣れない、という話じゃない。殺風景なのは変わらないが、明らかにここは自分の部屋じゃない。
ああ、そうだ、思い出してきた。昨日、友達のことで相談に乗ってもらおうと、隣の部屋に住んでいる女性の元へ行き、夕食をごちそうになり、その直後に……。
「や、やっちまった……」
急激に自己嫌悪が襲ってきたわたしは、頭を抱えた。
まともに話をした事が二度しかない、ほぼ他人といっていい女性と、昨夜わたしは、キスをして、キスをして、そして、情交に及んだ。
いや、もう、お堅い文章語でも誤魔化しきれる気がしない。要するにわたしは、女同士でエッチなことをしたのだ。雰囲気に酔って、流されるままに。
正直に言えば、いたしている最中の記憶はあまりない。だけど、最初のついばむような口づけは、感触も含めてちゃんと覚えている。そして今、わたしはよその布団の中で、下着だけのあられもない姿でいて、しかもショーツは少し湿っていて……。
「いや、もう思い出すのはやめよう。それより服、服着ないと」
東京でも四月の初頭だし、朝は結構寒い。まして今のわたしは下着姿だ。幸い、喉も鼻も調子は悪くなさそうだし、このまま風邪をひいてしまう前に服を着なければ。
でもここ、よその人の部屋なんだよな……昨日の服がこの部屋にあるなら、それを着るしかないだろう。下着姿で外に出るわけにはいかないし。とりあえず隣のお姉さん、佑さんを呼んで、この状況をなんとかしてもらおう。
「佑さん、今どこに……あっ」
部屋の中を見渡しても、しんとして静かで、わたし以外に誰かがいる気配はなかった。佑さんは先に出ていったみたいだ。そして、昨夜はホットプレートの載っていた丸テーブルの上には、綺麗にたたまれたわたしの服と、鍵と、書き置きの手紙が置かれていた。テーブルのそばの床には、わたしのカバンが残されている。
わたしは手紙を手に取って、その内容を見た。
『昨日はあまり相談に乗ってあげられなくてごめんね。仕事があるので、私は先に出かけます。部屋を出る時は施錠して、鍵はドア枠の上に置いておいてね。それと、あなたの服はシワにならないようにたたんでおいたけど、もし下着が濡れていたら、サイズが合うか分からないけど、私のを使ってね』
「佑さんの、下着を、わたしが……いや、ないわ」
たたまれた服の間に、見覚えのないショーツがあったけど、見なかったことにした。昨晩エッチした相手の下着を穿くとか、どんなプレイだよ。
置き手紙にはまだ続きがあった。
『それと、お友達とはちゃんとお話ししてね。私の考えが正しいとは限らないから。もしまた悩むことがあったら、遠慮せずこの部屋に来てね』
いや、来づらいって……友達の美紗もそうだけど、佑さんとも、次にどんな顔をして会えばいいのか分からない。
だけど、少なくとも美紗とは、このままでいられない。会って話をして、あの時の美紗がどんな気持ちだったのか、どうしてわたしの手をほどいたのか、知る必要がある。わたしの今後のためにも、相談に乗ってくれた佑さんのためにも。
「……あれ、そういえば、いま何時だ?」
カバンに仕舞っていたスマホで、時刻を確認した。八時五分。
まだ少し残っていた眠気が、一気に吹き飛んだ。
「やっば! 学食の朝メニュー、終わっちゃうじゃん!」
うちの大学の学食は、朝・昼・夕の食事の時間帯に合わせて開かれている。建物自体は朝の六時半から夜の九時まで開放されているけど、食事が提供される時間帯は限られているのだ。朝食が提供されるのは八時半まで。今から出ないと間に合わないかもしれない。
わたしは急いで服を着て、鍵とカバンを持って、部屋を出た。置き手紙のとおりに、ドアを施錠して、鍵はドア枠の上に置いた。思い切り手を伸ばしてようやく届く高さにあって、普通に立って見る分には、あんな所に鍵が置かれているとは気づけない。
さて、佑さんの部屋はエレベーターから一番近い所にある。急いでいて一秒すら惜しいから、この位置は助かるのだけど……。
「いや、おっそい!」
肝心のエレベーターの到着が遅いから、あんまり意味がないかもしれない。わたしはエレベーターのドアの前で、せわしなく地団駄を踏んでいた。
* * *
月曜の一限目に必修の講義はなかったので、わたしは学食で朝ご飯を食べた後、二限目から講義に出ることにしていた。その講義が行なわれる教室は、オリエンテーションで使われた講堂と違って、高校の教室と変わらない規模だった。机もどこか似ていた。講義の内容に目をつぶれば、その光景は高校までの授業の風景とそっくり同じだ。
とはいえ、自由に科目を選べるので、決まった席順というものはない。適当に席を選べば、思いがけない人と隣同士になる、なんてこともよくある。わたしも適当に後ろ側の席を選んだのだが、その前に左隣に陣取っていた帽子の子を見て、内心びっくりしてしまった。
昨日の一件で気まずくなっていた、大学で初めての友達。小園美沙、その人だった。
「えっと……おはよう」
「……うん、おはよ」
お互い目を合わせずに挨拶。昨日のことはなかったことに、とはどちらも考えなかったようだ。残念ながら気まずい空気は続いてしまう。
講義が始まって、他の学生の視線が教卓に向けられている間に、わたしはこっそり、美紗にLINEを送った。
『お昼、一緒に食べる?』
スマホの通知に美紗が気づいて、返事が来るまではかなり早かった。
『もち』
よほど気が急いているのか、返事はたった二文字だった。でも、嬉しさがまるで隠せていない横顔を見て、言葉以上のものを受け取れた気がした。昨日の出来事を帳消しにはできなくても、気まずいままが嫌なのは、美紗も同じだと分かって、思いのほか安堵している自分がいる。
でもまあ、そんなすぐに気まずさが解消できるわけもない。一緒にお昼を食べている間も、交わした会話は少なかった。主にコミュ強の美紗が、たわいもない話題を切り出し、わたしがそれに笑いながら反応するが、会話のラリーは三往復くらいで途切れてしまう。沈黙に耐え切れなくなったら、また美紗が話題を出して……こんな感じの繰り返しだ。
三限目と四限目も二人で同じ講義を受けて、そこから先は何もせず、真っすぐ家に帰る。無言の時間の中で、なんとなくそんな雰囲気を感じ取って、逆らわず流されるまま足を動かしている気がした。よく考えたら、教科書をまだ買っていないのだが、販売期間は今週末まであるから、今日慌てて買いに行く必要はない。
目も合わさず言葉も交わさない帰路のさなか、わたしは焦りばかり募っていた。このままだと、何も解決できないままお別れになってしまう。わたしも美紗も、昨日の一件を無意識のうちに話題に上げないようにしていたが、そろそろ覚悟を決める時じゃないか。
赤信号で止まったところで、わたしは深く呼吸して、意を決し、美紗に声をかけた。
「「あのっ」」
なんと美紗も同じタイミングで声をかけてきた。友達になって間もないのに、よくよく気が合うものだ。こうなると、どちらが話を切り出すかで、互いの遠慮合戦が始まる。
「えっと、お先にどうぞ」
「いえいえ、そちらの方から」
「いやいや、彩佳からで」
「いや美紗から」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
「…………」
「…………昨日のことです」
「だよねぇ。やっぱそう来るよねぇ」
不毛な遠慮合戦は、わたしから切り出したことで終わった。わたしもそうだろうとは思ったが、美紗が話したい事も同じだったようだ。
「昨日のことは何というか……自分でも上手く説明できる気がしなくて。悪いとは思うけど、わたしの中で整理がついたら、彩佳に打ち明けるってことにしてくんない?」
「……いつになりそう?」
「分かんない……でも、できるだけ早いうちに、必ず話す」
「そっか」
わたしの反応が思ったより淡白だったせいか、美紗は意外そうな顔を向けてきた。
「……追及してこないんだね」
「本人が上手く説明できないなら、上手く聞き出すこともできないしね。根掘り葉掘り聞いて、嫌な思いをさせて、友達でいられなくなるのは嫌だから」
「彩佳……」
「話す意思があると分かっただけでも、わたしはホッとしてるよ。気まずくなって何も話せなくなって、自然と関係が消滅する、なんて最悪の事態にはならなかったし」
「まあ、それはね……彩佳がお昼に誘ってくれて、少し気が楽になったのもあるから」
わたしが何の気なしにLINEを送ったことが、少しはいい方向に効いてくれたようだ。
信号が青になったので、わたし達は再び歩を進める。いつもの分かれ道は、すぐそこまで来ていた。
「どんな理由であれ、わたしは受け止めないといけないんだろうな。自信はないけど」
「その前にわたしが上手く説明できたらいいけどね。自信はないけど」
「これって、第三者に相談したら、何か違った答えが出たりするものなのかな」
わたしが昨晩、佑さんに相談して、思いがけない答えが返ってきたように。もっとも、相談に行った先で流されてエッチしたなんて、しかもその最中に美紗の気持ちを一部理解した気になったなんて、美紗にはとても言えないが。
「相談、できれば話は早いけど、ふさわしい相手なんて思いつかないなぁ。自分でもセンシティブな事情があると分かるから、関係ない人に話すのは気が引けるよ」
「センシティブ、か……確かに、気が引けるよね」
後半は美紗に聞こえないように呟いた。
「ん? 今なんて?」
「何でもない。じゃあ、また明日ね」
「…………うん、また明日」
この間とは違って、しんみりした雰囲気のままで別れたけど、お互い、明日もまた会いたいと望んでいると分かって、わたしはホッとしている。
美紗と別れて、自宅マンションに向かうわたしの足取りは、はっきり言って重かった。隣人とはいえ、そう簡単に出くわすものではないと分かっている。ただ、悪い偶然でもし出くわしてしまったら、平常心で向き合える自信はない。だからと言って無視するのは、余計な遺恨を作りそうで怖いし、せめてひと言くらいは話せるようにしたい。
などと悶々と悩みながら、わたしはマンションに戻ってきた。そこで異変に気づいた。
「あれ、パトカーが来てる……」
マンションのエントランスのそばに、白黒のパトカーが停まっていた。街中で見かけることはたまにあるけど、自分の住処の近くに駐車しているところを見るのは初めてだ。集合住宅に住んでいると、こういうことも起こりうるのだな。
まあ自分には関係ないか、と思いながら、いつものように遅いエレベーターに乗り込み、五階を目指す。このエレベーターの型式は古く、階数表示はドアの真上にある、1から6までの数字の表記と、各数字の下にある豆電球の明かりだけ。それも天井灯のせいで、目を凝らさないと、どの階の電球が点灯しているのか判別できない。せめて昔の信号機のように、上からの光を遮られる庇とかがあればいいのに。
到着してドアが開いて、わたしは気づいた。
警察の出動は、わたしと無関係などではなかったのだ。
「あっ、おまわりさん、あの子ですよ。私が昨日見たのは」
「え?」
わたしの部屋の隣、501号室の前には、わたしの知らない人が三人いた。わたしを見て指さした主婦らしき中年の女性と、ホスト風の若い男性と、制服の警官。女性の言葉で三人の視線が、一斉にわたしに向けられる。
するとホスト風の男性が、怒ったように顔を歪ませて、ずかずかと歩み寄ってきた。
「じゃあお前か! のこのこ現れやがって……」
何ひとつ状況を理解できず立ち尽くしていたわたしに、男性は接近するとすぐに、わたしの胸倉を乱暴に掴み上げた。
「わっ!」
「俺の三十万をどこにやった! さっさと返せよ!」
「さ、三十万って……?」
「シラ切ってんじゃねぇ! お前が昨日、俺の部屋から盗んだ金だよ! 俺が留守にしている間に勝手に入った所を、見た奴がいるんだよ!」
…………は?
何を言っているのだろう、この男は。男性の主張していることが、わたしにはまるで理解できない。わたしがこの男性の部屋で泥棒を働いた、とでも言いたいようだが、もちろんそんなことをした覚えは微塵もない。
「あ、あの、いったい何の話を……」
「まだとぼけんのか、お前!」
「ちょっとあんた、いきなり女の子に掴みかかっちゃダメでしょ。暴行罪の現行犯で逮捕することになるよ」
怒りで興奮している男性を、警官は冷静になだめてきた。それでもまだ男性の暴走は止まらない。
「うるせぇ! 警察のくせに泥棒の味方すんのかよ!」
「彼女が窃盗をしたかどうか、判断するのは警察の仕事だから。それに、たとえ相手が泥棒でも、暴力を振るっていいってことにはならないよ。手を放しなさい」
「…………ちっ」
舌打ちしながらも、分が悪いと思ったのか、男性はわたしの服から手を離した。それでもわたしに疑惑の目が向けられていることに変わりはない。
身に覚えのない窃盗容疑をかけられている。よく分からないが、この三人はわたしが犯人だと考えているみたいだ。警官だけはまともに話を聞いてくれそうだけど、疑いが晴れなかったら逮捕されるのだろうか。そのことがとにかく心配で、怖くて、足が震えそうになる。
怯えているわたしに気を遣いながら、警官は説明を始めた。
「突然すまないね。きょう通報があって、こちらの望月佑さんが住んでいる501号室から、現金三十万円が無くなったそうなんだ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「…………え? 望月、たすく……?」
「何か?」
「あの、“たすく”って、どんな字ですか……?」
「人偏に右と書いて佑だよ。何なら免許証見せてやろうか、ほら」
苛立ちを露わにしながら、男性はパスケースから運転免許証を取り出して、わたしに見せた。確かに『望月佑』名義で、顔写真も間違いなくこの男性だった。
どういうこと……? わたしは混乱する頭で、必死に情報を整理した。
ホスト風の男性は望月佑、501号室の住人。つまり、わたしの部屋の隣人。女性じゃないし、名前も“ゆう”ではなく“たすく”だ。
だったら、あの女性は? 501号室の住人のように振る舞っていたが、そうではなかったのか? 名前も、宅配ボックスにあった名前は男性のもので、当然あのお姉さんのものではないだろう。同姓同名で読み方だけ異なる男女が、同じ部屋の住人だなんて、そんな偶然があるとは思えない。
何者なの? わたしがいつの間にか心惹かれ、昨夜は流れるまま体を重ねた、あの綺麗なお姉さんは……誰なんだ?
「ちょっと君、大丈夫かい?」
口元を押さえて、動揺を隠せないでいるわたしを、警官が心配そうに見ている。気になることはいくつもあるが、まずは自分にかけられている疑いを、何とかしなければ。
「っ……大丈夫です。続けてください」
「ああ……。望月さんが帰宅したのは本日の朝八時ごろで、現金の紛失に気づいたのが正午ごろ、外出する前にチェストの中を確認した際に気づいたそうだ」
「あのチェストの中に、現金を……?」
「金庫とかねぇから、チェストの中しか多額の現金を仕舞える場所がないんだよ」
男性……望月さんは投げやりに言った。すでに警察にも話したことのようで、警官も望月さんの話に注目している様子はない。
すると、男性は何かに気づいて、眉間にしわを寄せながらわたしを見た。
「今お前、あのチェストの中に、って言ったな。うちのチェストを見たことがあんのか」
「あっ……」
失言だと気づいた。チェストと聞いてすぐに、昨夜に見たものを思い出して、つい口に出してしまった。わたしが501号室に入ったことがあると、白状したようなものだ。
「どうなんだい?」警官も気づいて追及を始めた。「現金が盗まれたのは、望月さんが出かけた昨日の昼から、今朝の八時ごろまでの間だと思われるが、こちらの向山さんの証言によると、昨日の夕方六時半ごろに、あなたが501号室に入ったみたいだけど」
さっきの主婦らしき女性は、向山というらしい。昨日の六時半……やはり、お姉さんに誘われてこの部屋を訪ねた時、誰かに見られていたみたいだ。後で説明すればいいと思っていたけど、まさかこんなに厄介な状況になるなんて。
でも、これ以上疑われないためにも、正直に答えないといけない。盗みなんてしていないことは、わたし自身がよく知っている。
「確かに昨日、501号室には入りました……でもそれは、女の人に誘われたからです」
「女の人に誘われた?」
「はい。友達と遊びに行った帰りに、偶然出くわして、お土産のお礼にって、夕食に誘ってくれたんです。お姉さんだけ先に戻って、後からわたしが……」
「それは変よ」
向山という女性が口を挟んできた。警官が振り返って首をかしげる。
「変とは?」
「だってこの子が部屋に入るとき、自分でドアを開けていたのよ。同居している家族じゃあるまいし、招かれたなら呼び鈴を鳴らすなりノックするなりして、相手の方からドアを開けてもらうのが普通じゃないかしら」
「ふむ、確かに……」
「だったら決まりだな」望月さんが尊大な態度で言う。「ここの鍵穴にはピッキングの痕跡がある。無理やり開錠して、自分でドアを開けたところを、このオバサンに見られたってところだろう」
「誰がオバサンよ!」
向山は望月さんのオバサン発言に気づいて、大声で怒りを露わにした。わたしをとにかく犯人扱いしたくて気が急いているのか、口を滑らせたみたいだ。もちろん言った本人は、向山の怒りなど歯牙にもかけていない。
正直、わたしもオバサン発言についてフォローする余裕はない。自分で501号室のドアを開けたことについて、釈明しないといけないからだ。
「違います! それも、誘ってくれたお姉さんに言われたことで……わたしも変だとは思いましたけど、誘った本人はそれでいいって言うから、大丈夫だと……」
「さっきから君が言っている、女の人とかお姉さんというのは?」
「わたしはてっきり、この部屋の住人かと思っていたのですけど……望月さんは心当たりないですか? 長い黒髪の、スタイルがよくて、胸が大きくて、わたしくらいの背の高さの、綺麗な女の人です」
わたしに尋ねられて、望月さんは一瞬、頬をぴくりと動かしたが、不機嫌そうに顔を背けて断言した。
「知らねぇよ、そんな奴。そもそもそんな女、実在すんのかよ。さもリアルっぽく言ってるけど、部屋に入った言い訳のために用意した架空の人間じゃねぇのか」
「そんな! わたしは、本当に……」
侵入盗なんてしていない、それは自分がよく知っている。盗まれた三十万円だって持っていない。今日だけで、学食で二度もカバンを開いたが、そんな札束は入っていないと、自信を持って言える。
そうだ。盗んだお金を持っていないと示せば、少なくとも警官は信用してくれるはず。わたしはカバンのファスナーを開けた。
「だったら調べてください。わたし、三十万円なんて持っていません。銀行口座にも入れていません。警察でちゃんと調べれば分かります!」
このときのわたしは、自分の無実を示そうと必死すぎた。警官にカバンを手渡してもよかったのに、すぐにでも疑いを晴らそうとして、カバンをひっくり返し、中身を一斉に床へばら撒いたのだ。
床に散らばる、財布、パスケース、学生手帳、スマホ、筆記具、ハンコ、入れっぱなしにしていたサークル勧誘のチラシ(四つ折り)、自宅の鍵が二つ……。
「あれ?」
おかしい。鍵は二つも持っていない。わたしの部屋の合い鍵は、実家の母親だけが持っているはずだ。しかも片方はキーホルダーもついてないし、形状も微妙に違う。こんな鍵を持っていた覚えはない。
わたしはしゃがんで、見覚えのない方の鍵を手に取った。
「何だろう、この鍵……」
「おい、ちょっとその鍵貸せよ!」
「ひゃっ!」
「ちょっと望月さん、やりすぎですよ!」
望月さんはわたしの手から、無理やり鍵を奪い取った。警官の制止する声も聞かず、すぐそばの501号室のドアの鍵穴に、望月さんはその鍵を差し込んだ。
ひとひねり回すと、ガチャリという音とともに、ドアは施錠された。
「うそっ……」
「なんでお前のカバンの中に、この部屋の合い鍵が入っているんだよ」
望月さんのわたしに向ける視線には、怒りと侮蔑がこれ以上なく滲んでいた。疑いを晴らすはずが、逆にわたしへの疑いを強めることになってしまった。
「望月さん」警官が問いかけた。「確か現金だけでなく、合い鍵も無くなっていたと、通報の際に伺っていますが」
「ああ。泥棒が持ち出したんだろうな。入るときはこじ開ければすむが、出る時は部屋の中にあった合い鍵を使って、施錠すればいいからな。実際俺が帰って来たとき、ドアに鍵はかかっていた」
「ふむ……」
警官は何やら考え込んでいるが、わたしを怪しんでいるのは間違いない。どういうわけか、わたしのやることが何もかも裏目に出ている。
「なぜ、この部屋の無くなった合い鍵が、君のカバンに入っていたのかな?」
警官はなおも冷静にわたしからも話を聞こうとしているが、わたしの知っていることをいくら正直に話しても、もう全部が逆効果になる気がする。それでもわたしは、都合のいい嘘で誤魔化せるほど、器用なたちではなかった。
「分かりません……わたしが朝にこの部屋を出た時、確かに鍵は閉めましたけど、その時に鍵はそこの……ドア枠の上に置いたはずなのに」
「ドア枠の上、か……」警官は手を伸ばしてその場所を探った。「鍵らしきものはないな。ちなみに部屋を出たのは、朝の何時ごろかな」
「えっと……八時の、五分とか十分あたりだったかと」
「おいお前、いい加減なこと吹かすなよ」また望月さんが絡んできた。「さっきこの警官が言ったよな。俺が帰って来たのが今朝の八時ごろだぞ。大体同じくらいの時刻に出ていたら、鉢合わせてないとおかしいだろうが」
そうだ……わたしも警官がそう言った時、変だと思った。今朝の八時ごろは、わたしが501号室を急いで出た、まさにそのタイミングだ。望月さんがその時刻に501号室に戻ってきたなら、ばったり会っていないとおかしい。
わたしの知っている光景、覚えている行動、その全てが、望月さんの証言とまるっきり食い違っている。どちらが嘘の可能性が高いかといえば、客観的に見れば、状況と矛盾しているうえに普通じゃない行動をとっている……わたしの方だ。
あれ? これってもう、詰んでいる?
「なあ、いい加減に下手な嘘で誤魔化すのやめろよな。さっさと俺の金返せよ!」
望月さんは再びわたしに掴みかかってきた。もはやわたしが泥棒なのは確定で、気遣いも遠慮もいらないと思ったのだろう。自分に降りかかった災難を直視できなくて、大混乱に陥っていたわたしは、まるで抵抗できなかった。
警官がなんとか望月さんを引き離してくれたけど、状況はわたしにとって、不利な方向に動いているままだ。このままだとわたしは、どうなる?
逮捕されるのだろうか。いや、疑わしいだけじゃ、逮捕まではいかないか。でも警察の取り調べを受けるのは確実だろう。大学にもこのことは知られるだろう。入学してすぐに泥棒の濡れ衣で警察沙汰なんて知れたら、平穏な学生生活はもはや保障されない。下手をすれば停学処分だってありうる。そうなれば、故郷の家族は、友達は……その時のみんなの顔を想像するだけで、わたしは気が狂いそうになる。
足がガクガクと震えだす。心臓が嫌な音を立てている。視界はぐにゃりと歪んで、耳に入る人の声はノイズそのものだ。呼吸のリズムは不規則になり、胸が破裂しそうなくらいに苦しくて仕方ない。
立つこともままならなくなり、わたしは膝から崩れた。
どうしよう。どうしよう。どうしたら。どうしたら。だめだ。もうだめだ。おわりだ。もうおわりだ。くるしい。くるしい。くるしい…………。
その時、床に落ちたスマホに、LINEの通知が来た。美紗からだった。
『ねえ、いま大丈夫? 電話していいかな』
「はあ、はあ、はあっ……美紗……」
「ちょっと君、大丈夫かい?」
心配する警官の声は、わたしの耳に届かなかった。ただひたすら、誰かに助けを求めたくて必死だった。縋るようにスマホへ手を伸ばし、トーク画面を開き、そしてわたしから、通話アイコンをタップした。
蚊の鳴くようなか細い声で、わたしは絞り出した。
「美紗……たすけて……」
* * *
その後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
わたしは警官に肩を貸してもらいながら、パトカーに乗って最寄りの警察署に行き、そこで事情聴取を受けることになった。その細かい内容は覚えていない。だが、覚悟していたほどの尋問は行なわれず、一時間ほどで解放されることが決まった。
警察は望月さんにも警察署に来てもらって、詳しい事情を聞きたかったようだが、もう話せることは話したと、本人が署に行くことを頑なに拒んだらしい。証人である向山は、呼ばれることすらなかった。
警察署の外に出た時、もうすでに日没を過ぎて、辺りは徐々に闇に染まっていた。
足取りは重い。厳しい尋問は受けなかったし、警察の人たちも、本気でわたしを泥棒と断定している様子はない。まあ、色々と怪しい言動があっても、盗まれた三十万円は結局、わたしの周りのどこからも見つかっていない。確たる証拠がない以上、精神的に参っている女子を、これ以上拘束することはできないと判断したのだろう。それでも、安堵にはほど遠い。
警察署の門のそばでは、美紗が待ってくれていた。わたしのスマホで警官から事情を聞いて、おっとり刀で駆けつけたらしい。色々あってぎこちなくなっていたけど、今は彼女の存在が、わたしの心の救いになっていた。
わたしが出てきたことに気づいて、美紗は不安そうな顔で駆け寄ってくる。
「美紗……」
「彩佳、どうだったの? 泥棒したなんて嘘だよね?」
「うん、わたしはやってない……でも、もう反論できる自信がない」
「どうしてよ。ねえ、何があったの?」
警察から事情を聞かされたとはいえ、詳しいことはまだ知らされていないらしい。美紗はわたしの両肩を掴み、わたしに詰め寄る。狼狽えているが、それでも美紗はちゃんと、わたしのことを信じてくれている。
きっと、わたしを一番信じられないのは、わたし自身だ。
「ねえ、彩佳ってば」
「……ごめんね、美紗。友達が警察のお世話になるとかシャレにならないって、言っておきながら、わたしがこんなことになっちゃって……」
「そんなのどうでもいいじゃん。わたしは、何があったかって聞いてるの!」
「……もうね、わたしにも訳が分からない。自分の身に何があったのか、自分の見たものが何だったのか、ひとつも分からないの。どうしたらいいのか、分からないの」
「…………。とりあえず、一旦家に帰って落ち着こう?」
「そうしたいけど、まだ隣に、あの人がいるかもしれないから……帰るのが、怖い」
警察署に行くことを拒んだ望月さんは、まだ501号室にいるかもしれない。帰ったら、まだわたしを疑って、暴挙に出かねないあの男性の、すぐ隣で夜を過ごすことになる。そんなもの、今のわたしには恐怖でしかない。
カバンのベルトを震える手で握りしめ、俯くわたしを見て、美紗はしばらく無言で考えてから、わたしに告げた。
「じゃあ、さ……わたしん家に来ない?」
* * *
ラストオーダー寸前で学食に飛び込み、そこで二人で夕食を済ませた後、わたしは美紗の住むアパートの一室にお邪魔した。二人分の食材はさすがになかったらしい。
美紗の部屋は、わたしと同じく住み始めて間もないはずなのに、もうすでにホームメイクがほぼできていて、生活感に満ちていた。中央の小さなテーブルにはレースのクロスがかけられ、本棚には本だけでなく可愛らしい小物が並べられ、壁には飾り棚もつけられている。なんだか、もう何年もここに住んでいるみたいだ。
「適当にくつろいでよ」
「うん……なんか、かわいい部屋だね」
「ホント? よかった、嬉しい!」
わたしにひと言褒められただけで、美紗はものすごく嬉しそうだ。照れくさそうに喜ぶ美紗の顔を見ていると、さっきまでの苦しさや不安が和らぐ気がする。
それにしても、友達の家に来るなんて久しぶりだな。受験生のときに、友達の家に集まって一緒に勉強をしたことがあったけど、それ以来かもしれない。しかもただの友達じゃない。ほんの数日前にできたばかりで、昨日から気まずくなっていた友達の、家に来ている。
いかん、だんだん緊張してきた。でもさっきまでの、思考が追いつかないほどの混乱に陥らせるような緊張と比べれば、何倍も健全なのだろう。今のこの緊張は、わたしにとってどこか心地よかった。
「どうする? テレビでも見る?」
「この時間って何やってるかな。ドラマかバラエティだと思うけど」
「まあ、適当に選ぼうじゃないかい」
美紗はリモコンを手に取って、テレビの電源を入れた。
『……大規模な武力衝突によって、人道上の危機に直面しているとして、国連の事務総長は深刻な懸念を示しています。米国の要請で安保理の緊急会合が開かれました。欧米が早期の停戦実現と市民の生活支援を訴えたのに対し、中国・ロシアなどは』
「よし変えるか」
画面がついたらNHKのニュースが始まった。美紗が真顔でチャンネルを変えると、今度は今話題のドラマが映し出された。途中からだけど。
テーブルのそばのクッションに腰かけて、二人でドラマを視聴する。CMに入るたびに、ドラマの内容についてあれこれ語ったけど、どちらもテレビ画面に釘づけで、お互いの顔を見ながら話したりはしなかった。
ドラマが終わると、そのまま次のバラエティ番組も見ることにした。よくある、パネラーの芸能人がVTR映像を見て、笑ったり語ったりする番組だけど、今日はいやに真面目な内容だった。……途中で何回か噴き出したけど。
バラエティが終わったところで、テレビを消した。わたしも美紗も、ぼうっとテレビのある方に目を向けたまま、静まり返った空間にうずくまっている。
「……少しは落ち着いた?」
「うん……ありがと」
「どうも。そろそろ話せそう? 彩佳の身に何があったか」
「うーん……」
正直、思い出すだけでも肩が強張りそうだけど、わたしを心から気遣ってくれる美紗のために、わたしはほんの少し、勇気をだすことにした。
「昨日、美紗と別れた後にね、お隣に住んでいるっていうお姉さんに会って……」
昨日の夕方からの、思い出せる限りの出来事を、わたしは順番に打ち明けた。
美紗とのことで悩んでいたところ、お姉さんに部屋へ誘われたこと。
その部屋でお姉さんと、キスをして、体を重ねたこと。
翌朝に起きたらお姉さんがいなくなって、その部屋から直接大学へ行ったこと。
帰ったらマンションに警察が来ていて、隣の部屋の本当の主が、現金を盗まれたと訴えたこと。その犯人としてわたしが疑われたこと。わたしが本当のことを証言しても、お姉さんの存在を含め、何もかも矛盾していて信じられていないこと……。
「……で、警察署に行って、簡単だけど取り調べを受けた。そんな感じ」
「…………」
美紗はずっと黙っている。
……幻滅されただろうか。それも致し方ない。客観的に見れば、わたしがおかしなことを言っているようにしか見えない。わたしが出来心で泥棒をして、濡れ衣を着せられた被害者を演じている、そう考えるのが自然だろう。冷静さを取り戻した今なら、よく分かる。
美紗は影の差した顔で俯いたまま、ふらりと立ち上がった。ゆっくりと窓側の壁に歩いていき、そして……。
ガッ!
拳を思い切り壁に叩きつけた。
「…………!」
「何よ、それ……許せない」
美紗の口から漏れた言葉には、激しい怒りが滲んでいた。やっぱりわたしに幻滅して、見損なったのだろうか……。
「……ごめん、美紗」
「なんで彩佳が謝るの! 悪いのはその女と、望月佑っていうクズ男でしょ!」
「え?」
「ろくに話も聞こうとしないで、彩佳が盗んだって決めつけて! それで彩佳がどんだけ怖い思いをしたか! もう、今すぐにでもぶん殴りに行きたい!」
あれ……美紗が怒っている相手は、わたしじゃない?
壁に叩きつけた拳は固く握りしめられ、プルプルと震えている。その拳を振るい上げたい相手は、望月さんとお姉さんだという。
「それにその女も、彩佳にさせたことは全部、お金を盗んだ犯人だと疑わせるためのものじゃない! 思い悩んでいた彩佳につけ込んで、泥棒の罪を着せようとするなんて最低! あまつさえ、彩佳の、体を……」
壁に押しつけたままの拳に、美紗は額を当てて、心底悔しそうな声で恨み言を呟いた。
わたしは呆然とするしかなかった。美紗はわたしのことを、誰かの企みに巻き込まれた被害者としか思っておらず、わたしを苦しめた人たちへの憎しみを連ねている。わたしは、自分が嵌められたなんて、ひと言も言っていないし、考えてすらいなかったのに。
「美紗……わたしのこと、信じてくれるの?」
そう問いかけたら、美紗は涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔で、勢いよく振り向いて叫んだ。
「当たり前じゃん! こういう時に信じないで、友達なんて名乗れるか!」
「…………!」
これは、ヤバい。油断していると、わたしまで泣きそうになる。
美紗はこれっぽっちも、わたしを疑っていない。出会ってまだ数日で、それほど互いのことを知っているわけでもないのに、他人が聞けば荒唐無稽に思えるわたしの話を、何の迷いもなく信じてくれた。
それなのに……この一日だけで色々ありすぎて、他者への不信感をこじらせているわたしは、美紗の力強い言葉にも、何か裏があるように、小指の先ほどでも思ってしまっている。
「ごめん……美紗……」
「だから、なんで彩佳が謝るの」
「わたし……自分で自分が、信じられなくて……美紗の言葉も、すぐに受け止められない。こんなの、美紗にものすごく、失礼なのに……」
こんなことを言われたら、さぞかし不快に思っただろう。それでも美紗は、なじる言葉をわたしに投げかけなかった。
「彩佳に信じてもらえないのは、ショックだけど……こんなことになって、他人をすぐに信じられなくても、無理はないと思う。彩佳が自分を信じられなくても、わたしは彩佳を信じるよ。そうしないと、彩佳が壊れちゃう……」
美紗の心配は的を射ていた。わたしの精神はすでに限界の寸前まできている。これで美紗にも拒絶されたら、もうわたしは立ち直れない。絶望に囚われたら、どんなことになるか想像もつかないが、わたしがわたしでいられなくなるのは確かだ。
美紗が信じてくれるおかげで、わたしは心を壊さずにすんでいる。たとえわたしが美紗の言葉を受け止められなくても、向けられる信頼は確かに救いになっていた。
「ありがと……美紗」
「うん……」
美紗は壁から離れて、わたしのそばへ戻ってきた。肩が触れそうなほど近くに腰を下ろし、わたしには視線を向けないまま、言葉を投げかける。
「あのさ……彩佳はその、お隣のお姉さんのこと、どう思っているの」
「どうって……?」
「えっとね、さっきはわたしも動揺して、彩佳がその女に襲われたと思ってしまったけど、冷静に考えたら、もし、本当にそんなことがあったら、彩佳はもっとまともでいられないと思うんだよね。翌日にわたしと普通に会話できていたんだから、彩佳はその女と寝たことを、あまり強く引きずっていないと思って……」
そうきたか。美紗の洞察力は、案外馬鹿にできないな。
さっきの話では、お姉さんの方から先に手を出してきた、という事実だけを打ち明けていた。それだけを聞けば確かに、わたしが一方的に襲われたと思われても無理はない。でも、そんな形で初めてを奪われて、正気を保てる人は多くない。翌日のわたしがいつも通りに接していたから、一方的に襲われたというのは誤解……なるほど筋は通っている。
「彩佳は、そのお姉さんとエッチするの、嫌じゃなかったの?」
「…………」
「お姉さんのこと、そういう意味で、好きだったの?」
そう問いかける美紗の声は、答えを聞くのが怖いみたいに、震えている。
ああ、やはりそうなのか。あの夜、お姉さんの言っていたことが、正解だったのかもしれない。昨日、美紗がわたしの手を振りほどいた理由は、きっとこれだったのだ。
そんな予感があったから、わたしはどうしても、お姉さんとの間に起きたことを、美紗にだけは話せなかったのだ。話せば美紗を傷つける、そんな気がしていたから。
でも、美紗は覚悟を決めて、わたしに問いかけてきた。だったら、わたしは美紗の友達として、はぐらかさずに答えないといけない。
「……正直に言って、わたしもよく分からない」
「…………うん」
「初めて会ったときから、あの人の存在が、妙に頭から離れなかった。何かにつけて、お姉さんのことを思い出すことがあった。お姉さんに誘われたとき、すごく嬉しかったし、相談に乗ると言ってくれたとき、すごく安心したの。それに……お姉さんとのキスも、エッチも、気持ちいいというか、心地よかった」
「そっか……」
「なんか、ごめん。聞きたくなかっただろうに」
「いや、まあ……彩佳がその人のこと、憎からず想ってるなら、わたしもあまり悪しざまに言いたくないから」
要するに、わたしに不愉快な思いをさせないためか。本当に美紗は……。
「彩佳に言わせてしまったから、わたしも正直に言うね」
「うん、いいよ」
「昨日、一緒に買い物してる時、彩佳がイヤリングを買ったでしょ。あれって、そのお姉さんのために買ったんじゃない?」
「よく分かったね」
「分かるよ。そのイヤリングを見ている時の彩佳……誰かのことを夢中で考えて、期待でいっぱいで、すごく嬉しそうで……わたし、そんな彩佳を見て、ドキドキしたから」
膝に顔をうずめて、気恥ずかしそうに美紗は告げる。
わたしがイヤリングを見つけて、お姉さんが耳につけた姿を想像してぼうっとしている時、美紗に声をかけられて我に返った。あの時に美紗は、そんなわたしの姿に見惚れてしまったという。ちょっとそれは想像もしなかったな……。
「講堂で初めて声をかけたときから、彩佳には友達として好意は持っていたよ。でも、一緒に買い物して、気分が上がっている時に、彩佳のあんな顔を見てドキドキして……自分でも気づかないうちに、彩佳への気持ちが変化していたんだと思う」
「そんな時に、急に手を握られそうになって、思わず離してしまった?」
「ほぼ反射的だったけどね。一度彩佳のことを、そういう対象として見るようになったら、手を取られるだけでも意識してしまいそうで、それが怖くて……」
「うん、怖いよね。身近な人への気持ちが、気づかないうちに変わっていて、それが簡単に受け入れられないものだったら……確かに怖い」
「……気味悪くないの」
「ううん、ちっとも」
「よかった……彩佳なら、そう言ってくれると信じてた」
心から安堵したという表情を、美紗はわたしに見せた。ノータイムの返答でも、ただの建前である可能性はあるはずなのに。
わたしのことを当たり前に信じられる美紗だから、わたしの言葉をすぐに信じたのだ。逆の立場だったら分からない。だからこそ、美紗が抱えていた感情への恐れが、わたしには痛いほど理解できる。
美紗が手を離した謎は、ようやく解けた。これでわたし達の間のわだかまりも、解消されるだろう。だけど、一番の問題は何も解決していない。
「彩佳を助けるために、わたしに出来ることは何だってしたいけど……わたしが彩佳を信じているってだけじゃ、他の人は納得しないよね。せめて、その女の人が実在して、彩佳を巻き込んだことが証明できたらいいんだけど」
「できるのかな……そもそも、そんな人が本当にいたかどうかも、分からないのに」
「何言ってるの? 彩佳は実際に、その人に……」
「だけどね、美紗……もう自分の記憶に、自信がないんだ」
体に刻まれた記憶はまだ残っている。肌の滑らかさ、唇の湿っぽさ、吐息の柔らかさ、包み込む温もり……その全てが、今もわたしの記憶に刻まれている。
だが、それらが本物だという確信はない。ついさっきまで、本物かどうかなんて疑いもしなかった。あのお姉さんに関して知っていることが、ほとんど事実じゃないと分かって、身に覚えのない疑惑ばかりが自分に向けられるまでは。
「だんだんね、全部が自分の、都合のいい妄想に思えてくるの。自分でも気づかないうちに罪を犯して、その現実から目を逸らすために、ありもしない女の人との記憶を、無意識に作ったんじゃないかって……」
「待ってよ、いくら何でも、そっちの方が無理あるでしょ。彩佳の中には、はっきりとその時の感触が残っているでしょ。無意識に記憶を作ったくらいで、そんなにはっきり感触が残るとは思えないよ」
「美紗がそう言ってくれるのは嬉しいけど……わたしは、自信をもって言えない。あの夜の出来事も、残っている感触も、全部、うたかたの幻のように思えて仕方ないの」
「彩佳……」
美紗の言葉を信じていないわけじゃない。だがそれ以上に、わたしはわたしのことが信じられなくなっている。本当の名前も知らない、ろくに話もしたことがない、そんな年上の女性の存在が、わたしの中で意外にも大きかったのだ。その存在がすっぽりと無くなって、わたしの心を支えるものは、途端に脆弱になった。
ああ、なんか、折れそうだ。心を委ねられそうなものが、一夜にして失われて……美紗がいなかったら、わたしはとっくに壊れていただろう。
だから、わたしは不安で仕方がない。今のわたしにとって、ほとんど唯一といっていい心の支え、それさえも虚構に過ぎないとしたら。きっとわたしは立ち直れない。
一縷の救いに縋るように、わたしは美紗に問いかけた。
「ねえ、美紗は、幻なんかじゃ、ないよね……?」
美紗は、両目を見開き、口をきゅっと結んだ。
確かにその目はわたしに向けられていて、わたしの痛みを何もかも理解しているように潤ませている。かすかに揺れている瞳には、こと切れそうな顔のわたしが映っている。
それは、一瞬の間のことだった。
美紗の手がわたしの耳元に差し伸べられると、ぐっと引き寄せられ、美紗の顔で視界が一気に遮られた。唇に、あたたかいものが触れた。
たったそれだけの接触だけで、美紗は唇を離し、わたしを真っすぐに見つめる。
「……わたしは」
穢れのない瞳でわたしを捕らえ、心に呼びかけるように、美紗は告げる。
「わたしは、ここにいる。幻なんかじゃない。そばにいる。ずっと彩佳の、そばにいるから」
「美紗……美紗ぁ……」
攪拌された感情は一気に膨らんで、今度はわたしから、二人の距離をゼロにした。目の前にある、唯一無二の確かな希望を、逃がしてしまいたくない一心で。
ほんの少し触れるだけのキスをして、もう一度離し、お互いを見つめ合い、今度は一緒に顔を寄せ合い、しっかりと唇を重ねた。
息が続かなくなっても、唇を離すことはしなかった。長く、長く、もっと長く。互いの想いを、互いの熱を、確実に刻み込むために。
熱い吐息が混ざり合うのを感じながら、わたしと美紗は言葉を交わした。
「はあっ……お布団、入ろっか」
「うん……」
わたし達は着の身着のままでベッドに入った。シングルベッドだから二人だと狭いけど、どうせぴったりくっついて寝るのだから、構わなかった。
体中が熱い。布団の中でもがくうちに、服は少しずつ乱れていく。二人で互いを両腕で抱き合い、貪るようにキスを交わす。言葉はいらない。そして、キス以上の行為もいらない。ただ、あなたがそこにいるという証を、幻なんかじゃないという証を、眠りに着くまで刻み合いたい。それだけだ。
心地よい熱に包まれながら、わたし達の夜は更けていく。
* * *
どこからか、電子的なアラームが鳴り響いている。
おぼろげな感覚だけを頼りに、わたしは音源を手で探った。ベッドの枕元に置かれていた、スマホの目覚ましだった。体を起こすことなく、手探りだけで何度かスワイプしていたら、三回目でアラームは止んだ。
カーテンの隙間から漏れる光は、まだ弱い。それでも、ぼんやりと開いた目は、次第に薄明るさに慣れていく。比例して、わたしの脳も徐々に覚醒していく。
どこだろう、ここは……明らかにわたしの部屋じゃない。可愛らしすぎる。わたしはまだホームメイクをほとんど済ませていないはずだが。それに、スマホで目覚ましをセットしていた覚えもない。
布団で寝ていたのに、身につけているのは寝間着じゃなく普段着。少し乱れている。そして隣には、気持ちよさそうに寝息をたてている友達。
その友達が、おもむろに目を開き、目の前で横になっているわたしを見た。どこか安心したように、ふわっと微笑む。
「……おはよ、彩佳」
わたしまで嬉しくなってきた。昨日の朝は、起きたら誰もいなかった。でも今日は、隣に美紗がいる。お互いに好意を分け合った、大切な存在。
「よかった……幻なんかじゃ、なかった」
「だから、そう言ったじゃん」
二人で、ふふっ、と笑い合って、ほんの少しの名残惜しさに応えるように、一度だけ、先が触れる程度の、軽い口づけを交わした。
時刻は午前六時十分。学食はまだ開いていない。
目が覚めてしまったわたし達は、とりあえずベッドから降りて、昨晩と同じように、テーブルのそばのクッションに腰かける。目を合わせないようにして、話し始める。
「キス……しちゃったね。それもたくさん」
「うん。わたしのファーストキス、女友達にあげちゃった」
「……同性同士のキスはノーカンだって言うよ?」
「だったらその理屈で、彩佳の初めてもなかったことにできない?」
「うーん……厳しいかな」
あの強烈な体験を無かったことにするのは、さすがに無理がある。本当にあったことかどうかも定かじゃないが。
「だよねぇ……あーあ、悔しいなぁ。あれこれ思い悩んでいる間に、彩佳の初めてをよその女に取られるなんて。一生の不覚だ」
「そ、そんなに落ち込むこと?」
「だって、今さら彩佳とキス以上のことをしても、わたしはどうしたって二番手だし。追い越すにはどうすればいいの? 結婚?」
「法律的な理由でできないよ」
「くっそぉ、同性婚の許容されない社会が憎い」
美紗は顔をしかめて、本気でそんなことを言っている。結婚したいほどわたしに好意を抱いてくれているのは、それはそれで嬉しいけど、反応には困る。
「まあそれは置いとくとして、これからどうする? お腹空いたし、何か軽く食べる? ちょっと高級な食パンがあったはずだけど」
「何それ、ちょっと興味ある。スープとかある?」
「インスタントのコーンポタージュがあったと思う」
「じゃあ、学食が開くまでの腹ごなしに、それで済ませようか」
「分かった。あ、それとシャワーも浴びておこう。昨日はお風呂にも入ってないし」
「やばっ! わたし、前の日もお風呂に入り損ねてた!」
「うぇっ? その状態で昨日、講義に出ていたの? ヤバいじゃん、早くシャワー浴びてきな。バスタオル出しておくから」
「うん、借りるね!」
夜のキスの余韻に浸る暇もなく、急にバタバタし始めるわたし達だった。
この部屋、学生が借りている割には、ユニットバスなんかの設備が整っている。女子学生の一人暮らしは何かと物騒だから、セキュリティ面やプライバシー面の設備が最低限あるのは普通なのだろう。むしろ、あんな古くて設備も不十分なマンションを、家賃が安いという理由だけで選んだ、わたしの方がおかしいのだ。
ユニットバスのおかげで浴室は広く、トイレスペースを脱衣所代わりにできる。浴室に入って服を脱ごうとして、わたしは気づいた。
「あ、下着はどうしよ……」
「わたしのやつでよければ、貸そうか?」
「え?」
まだ開けていた浴室の扉の向こうから、美紗が恥ずかしそうに提案してきた。ゆうべ、浴びるほどキスをした友達の、下着を借りるって……なんか、昨日の朝も似たような状況になっていたな。あの時は羞恥心が上回って、借りないことにしたけど……。
「いやでも、サイズは微妙に合わないかもだし、他人の下着だし、彩佳が嫌なら無理にとは言わないから……」
「いいよ」
「え?」
「ありがと。後で、洗って返すからね」
何の迷いもなく、わたしは美紗の下着を借りようと決めた。美紗は自分で言っておいて、顔を真っ赤にして恥じらっていたけど、結局自分の下着を用意してくれた。
今のわたしに迷いがなかったのは、美紗への、友達としての信頼があったからかもしれない。赤の他人ならこうはならない。美紗だったらいいか、と思っている自分がいる。言葉を交わし、キスをして、改めて友達としての想いを深めたおかげ、そんな気がする。
温かいシャワーを浴びながら、まだ感触の残る唇に指で触れて、わたしは自分の中にある気持ちに気づき始めていた。
濡れた体をしっかりとバスタオルで拭いて、美紗から借りた下着と、すでに三日連続で使っている服に身を通し、浴室を出る。帰ったら、この服も洗わないといけないな。今日も大学があるから、またしばらくこの格好になるけど。
リビングに戻ると、美紗はテーブルでスマホを見ていた。すでに食パンを焼いてバターを塗り終え、コーンポタージュも用意している。わたしは美紗の隣に腰かけた。
「シャワーありがと。何見てるの?」
「うん、実家からLINEが届いて……彩佳、いいにおいがする」
「え?」
「妹たちが今日、小学校の入学式だから、ランドセル姿の写真送ってきたんだよ」
瞬時に話を逸らしたな……わたしのいいにおいという言葉が気になるけど、まあそれは一旦置いておこう。
スマホの画面に映っている、民家の玄関の前に並んで立っている、二人の幼い女の子。小学一年生らしく、黄色い帽子をかぶって、それぞれピンクと水色のランドセルを背負って、屈託のない笑顔を見せている。小一ということは十二歳差、かなり年の離れた妹たちみたいだが、このあどけなさが可愛い……。
「というか、美紗の妹って、双子なんだね」
「うん。左が美花で、右が美那だよ」
「区別ができん……美紗はあれなの? ランドセルの色で判別したの?」
「いや? ランドセルがなくても分かるよ。生まれた時からずっと一緒に過ごしているから、自然と細かい違いが分かるようになったんだよ」
「うぅむ……家族だから分かる違いがあるのか。他人には分からないけど」
双子だけあって本当にそっくりで(美紗にもそっくりで)、初見で区別するのはかなり難しいだろう。じっくり見ているうちに、何かしら違いが見えてくるのかもしれないが。少なくとも、今日初めて見たわたしには、例えばこのうちの一人が目の前に現れたら、美花と美那のどちらなのか、きっと分からないと思う。
……あれ、何だろう、この感覚。何かがわたしの中で、すとんと腑に落ちたような。何か重要なピースが上手く嵌まったような。
双子。初見で区別できないほど、そっくりな双子。でも確かに違いがある双子。
待てよ。もしそうだとしたら、わたしの記憶にかすかに残っていた、あの言葉は……。
―――あなたなら私のこと、ちゃんと見てくれそう。
「……そっか。そういうことか」
「お? 何なに、美花と美那の違いが分かったの?」
「いや、それは全然さっぱりこれっぽっちも分からないんだけど」
「めっちゃ強調してくる(笑)」
「わたし、この事件の真相が、分かったかもしれない」
「…………へ?」
素っ頓狂な声を上げて、首をかしげる美紗を尻目に、わたしは考え続けた。この突拍子もない思いつきが、今回の事件を本当に上手く説明できるのか。説明できるとしたら、あの人は今どこにいて、何をしようとしているのか。詰めまでしっかりと考えたい。
「あの、彩佳……?」
「美紗、ご飯を食べたら、すぐに出かけよう」
そう言ってわたしは、用意されたジャムをトーストに塗って、かぶりついた。遅刻ギリギリの時みたいな素早さで。唖然としている美紗の視線がちょっと痛い。
わたしが行くべき場所は見定めた。だけど、そこには誰もいないかもしれない。
その人はきっと、春の幻だから。
満開の百合が咲いたところで、次回はいよいよ解決編です。
探偵でも何でもない、完全に素人の女の子が、頑張って推理しています。次回までに皆さんも、頑張って推理を進めてみましょう。必要なヒントは全て出ています。