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前編

書き始めが遅かったので、今になって投稿することに。期間内に書き終わるか分かりません。なんとか頑張りますので、応援よろしくお願いします。

春、隣人、ミステリーがテーマの公式企画に乗っかりました。大学生の女子が、思いがけない事件に巻き込まれるお話です。でも、この前編ではまだ事件は起きません。……起きようとしているだけです。そしてあらかじめ注意です。この作品には、女性同士のキス描写があります。

三話くらいで終わる予定です。短い間ですがお付き合いください。


 レースカーテンをすり抜ける、外からの光で目を覚ます。

 まだ夢心地にあったけれど、起きなきゃいけないという謎の義務感に突き動かされるように、わたしはゆっくりと体を起こした。そしてほとんど反射的に、両腕を上に向かってぐっと伸ばすと、滞っていた血の巡りがよくなって、覚醒が促された気分になる。

 今日からは、誰も朝にわたしを起こしてはくれない。だから、目覚まし時計をセットしていなくても、自力で起床しなければならない。


「……うぉー、なんか不思議な感じ」


 ベッドの上から見える光景に、わたしはまだ馴染みがなかった。昨日までに、この部屋にすべての荷物と家具を運び入れ、人間が生活できる空間へとアレンジした。それは間違いなくわたしが自分の意思でした事なのに、未だにここが、わたしの生活空間だという実感がわかない。

 ひとり暮らしを始めて、最初の朝というのは、こんな感じなのか。もうこんな感覚は二度と味わえないかもしれないとなると、貴重とすら思えてくる。


「とりあえず朝ごはん……あっ、自分で用意しないと」


 これから、生活の全ては独力でやらないといけない。電話で母親に相談できても、基本はひとりでやるしかない。食事の用意も、掃除も、洗濯も。

 もっとも、昨日まで実家でのほほんと暮らしていた十八歳の女の子に、いきなり全部自分でやれというのは酷な話だ。だから、気を利かせた母親が昨日、冷蔵庫に数日分の料理を入れておいてくれたのだ。しばらくはタッパーの料理でしのげばいい。

 そうしてわたしは、着替えもそこそこに、タッパーから皿に移したサバの味噌煮ときんぴらごぼうと、インスタントの味噌汁とパックの白飯で、寂しい朝食をとった。


「いつものお母さんの味だけど、やっぱり一人だと味気ないなぁ」


 外のかすかな鳥の声以外、何も聞こえない静かな朝。たいして広いわけでもない1LDKに、わたし一人。エアコンの暖房はつけていないけど、少し肌寒い。

 なるほど、これがホームシックってやつか。早いとこ克服しないと。


 雨洞(うどう)彩佳(あやか)、十八歳。電車で三時間くらいかかる田舎から、ひとり東京に出てきた。新しい環境に、不安と期待を抱きながら、胸を躍らせる女子大生。

 つい昨日、入学式と学部オリエンテーションを終えて、一緒に来ていた親とともに、引っ越しの最後の作業をすませた。というわけで、今日から本格的に、わたしの大学生活がスタートする。

 今日は朝の十時から、学科のオリエンテーションだ。家族の助けはない。ここからは、全てをわたし一人で決めることになる。

 で、さっそく決断した。割と余裕をもって起きられたと思うけど、十時までに指定の場所に辿り着けるか、ちょっと雲行きが怪しくなってきた。


「というわけで、帰ってからやります!」


 誰にでもなく言い訳をして、精一杯のおしゃれな普段着に着替えて、新品のカバンを持って部屋を出た。使い終わった食器は、水を張った洗い桶の中に突っ込んで……。


 都会の朝の空気が、全身に降りかかってくる。地元と少し違う匂いにはまだ慣れないが、いずれわたしもこの空気に染まっていくのだろう。東京の学生として、そしていつかは社会人として、この地に根を下ろしていく。今日が、その第一歩となる。

 そのためにはまず、今日のうちに学業の方針(つまり履修計画)を立て、できるなら友人も作っておきたい。部活とかサークルについては……まあ、後回しでいいかな。一年以上も勉強漬けの日々を送っていると、自分の趣味嗜好がぼんやりとしてしまうのだ。そしてこれも大事、生活環境を整える。周辺の地理はもちろん、買い物やお出かけにいい所も、しっかりとチェックしておかなければ。ああ、初日から忙しくなるな!

 わたしは拳を固く握って、高々と掲げた。


「よしっ、東京攻略じゃ!」


 ぶふっ、という声が直後に聞こえた。

 ちょいちょい、わたしのせっかくの決意表明を聞いて失笑するとか、どこの誰がそんな失礼なことを。わたしは渋面を作って、声のした方を振り向く。隣の部屋の、ドアの前に立っている人のようだ。

 わたしより年上らしき女性が、口元を押さえてぷるぷると震えている。まだ笑いをこらえているのは、言うまでもない。


「ちょっと?」

「ご、ごめんなさい……朝から語尾に“じゃ”をつける人に出くわすなんて、思わなくて」


 よほどツボにはまったのか、女性は涙を拭ってさえいた。カジュアルな装いに身を包み、肩にかかる黒髪は艶があり、背丈はわたしと変わらないが、すらりとして整ったプロポーションをしている。田舎の民の感覚で言えば、テレビで見るような都会の女性を、そのまま形にしたような人だった。

 色々文句は言いたかったが、思ったより綺麗な女性だったので、わたしは口をへの字にするだけで黙るしかなかった。


「あなた、学生さん?」


 ようやく落ち着いてきたのか、女性の方から尋ねられた。


「ああ、はい……この春から」

「そっか。大学のために東京に出てきた感じ?」

「そうです……」


 もしかして、言動や服装に田舎者っぽさが滲んでいるのか? わたしだって、たかが一日で都会人の仲間入りを果たせるなんて思ってないけど、見るからに東京に馴染んでいる女の人にそう見られると、妙な劣等感を覚えてしまう。


「だったらこれから、毎日が刺激的だろうなぁ。私なんか、長く住んでいるせいで、そういう新鮮な気持ちはとっくに薄れちゃったし」

「物は言いようですね……」

「若い学生さんには、そういう刺激があった方が、いい経験になると思うわよ。学生時代に得たものは、一生分の大事なものになるっていうからね」


 経験豊富な大人のお姉さんみたいな発言だ。確かにわたしより年上っぽいけど、それでも大きく年齢が離れているようには見えない。ナチュラルメイクのおかげで、そう見えるだけかもしれないが。


「なんて、ちょっと言い方が背伸びしすぎかな。初対面の若い子にお節介なんて、おばさんみたいなことしちゃって」

「別に、お節介だなんて思ってないですよ。初めての一人暮らしで不安もありますけど、お姉さんがそう言ってくれるなら、少しは励みになりますし」

「そう? よかった。ところで、時間は大丈夫なの?」

「あっ、すみません! じゃあわたしはこれで!」


 時間にあまり余裕がないのに、のんびり隣人と雑談している場合じゃなかった。わたしは慌てて女性の横を通り抜ける。この女性が立っている所の部屋は、エレベーターに一番近い所にあるのだ。

 わたしが住んでいるのは古い六階建てのマンションで、家賃が比較的安いこともあって、わたしのように地方から来た学生に重宝されているという。まあ古いうえにバス停も少し遠いので、賃貸情報サイトで検索に引っかかることも少ないのだけど。少し緩めの条件で探したとはいえ、見つけられたのは奇跡といっていい。

 そしてわたしが入居したのは、五階にある一室だ。このマンションにはエレベーターと階段の両方があるけれど、階段はエレベーターと反対方向にあるし、一階と五階を何度も上り下りするのはしんどい。だからエレベーターは必須なのだが……。


「いや、おっそい!」


 入り口の前で足踏みしながら、わたしは古いエレベーターに悪態をついた。さっきのお姉さんも聞いていたかもしれないけど、知ったことじゃない。


  * * *


 お昼を少し回ったところで、学科のオリエンテーションはつつがなく終了した。履修登録も教科書の販売も来週からなので、今日は少しゆっくりできそう……。

 しかし、事前に話を聞いていたとはいえ、大学の授業って、思ったより大変そうだ。一定数の単位が取れないと留年するのは高校と同じだけど、あまりにシステムが変わりすぎて勝手が分からない。慎重に履修の計画を立てた方がいいな。

 それとわたしには、もうひとつのミッションがある。友人を作ること、だ。地元の友達はここに一人もいない。それなりに親密に付き合える相手がいないと、寂しい四年間を過ごすことになってしまう。決して積極的な性格ではないけれど、一緒にいて楽しそうな人がいたら、とりあえず声をかけてみよう。そして充実した薔薇色の学生生活へ……!

 なんて意気込んではみるけど、焦っても始まらないし、気楽に探せばいいや。わたしは配布資料をカバンに仕舞って、講堂を出ようと席を立った。オリエンテーションが終わって、広い講堂は一気に騒がしくなっている。


「ねえあなた、これからお昼?」


 そんな賑やかな空間で、わたしに声をかけてきた人が、ひとりだけいた。わたしの左隣に座っている女の子だ。今から席を離れようと立ち上がっているわたしに、彼女は頬杖を突きながら、上目遣いで視線を向けてくる。


「…………ま」

「ま?」


 まじか、と言おうとして詰まった。その気はなかったけど完全に空気と化していたわたしに、声をかけてくる人がいるなんて思わないじゃないか。しかも、茶髪のハーフアップに、まつげもチークも綺麗に決めた、いかにも陽キャを絵に描いたような女の子が。

 こういう子、苦手ではないけれど、高校時代もあまり話したことがないのよね……どう接したらいいか見当もつかないが、とりあえず、訊かれたことには素直に答えるか。


「えっと……はい。学食に行こうかと」

「ほんと? ちょうどよかった。わたしも今日は学食でお昼食べようと思ってて。よければ一緒にどう?」

「わたしでよければ、ぜひ……」

「うん、決まりだね! 行こういこう」


 爆速でお昼ご飯の相伴が決まって、わたしは女の子に急かされるまま、講堂を出た。声をかけられるどころか、お昼ご飯に誘われるなんて……嬉しいし、願ったり叶ったりだけど、展開が急すぎて心の準備が追いつかない。


 女の子の名前は小園(こぞの)美紗(みさ)といった。彼女もわたしと同様、地方から東京に一人で出てきた学生だという。都会への憧れ一つで上京して、地元の友人と離ればなれになったので、新しい出会いを探していたところ、わたしを見つけたという。まさか境遇までわたしと共通しているなんて思うまい。

 一瞬シンパシーを抱きかけたけど、出身地を聞いたらそれも吹っ飛んだ。


「九州から来たの?」

「うん。周りからは無難に福岡の大学を目指したらどうかって言われたけど、全部無視してこっち来た。自分の手がどこまで届くか、試してみたくなったの」


 スプーンを親指と人差し指の間に挟んで、その右手を翳すように掲げる美紗。その瞳は期待と希望に満ちて、キラキラと輝いている。

 チャレンジャーだ……わたしも地方出身とはいえ、電車で三時間の距離がある程度だから、ちょっと所用で実家に行ってくる、というのもその気になればできる。だが美紗の場合は九州だから、新幹線を使っても最速で五時間はかかる。避けられない事情からではなく、自分の確固たる意志で、それほど遠方にある大学を選んだのだ。よほどの度胸がないと、目標に掲げることはできても、実現するのは到底できないだろう。

 似ているのは境遇くらいのもので、それ以外は外見も含め、気概も、求められる苦労もまるで違う。今朝のわたしの決意が、しょぼいと思えるほどに。


「すごいなぁ、小園さん……」


 わたしは釜玉うどんの麺をちびちびと啜りながら、劣等感たっぷりに独り言つ。ちなみに美紗が食べているのはビーフシチューだ。そこは名物のカレーではないらしい。


「えー? わたしは無謀なだけだよぉ。これだけ実家が遠いと、帰省するだけでも大変だから、夏休みでも行事とかに参加できるか怪しいもん」

「やっぱり行事には参加したいの? 学祭とか」

「そりゃあ、何かしら関与はしたいよ。せっかく東京に来たのに、勉強だけの四年間なんてつまんないでしょ」

「そこはわたしも同感。サークルとかは入るか決めかねてるけど、友達はちゃんと作っておきたいよ。一人ぼっちで勉強するだけの学生生活とか、虚しいにもほどがある」

「だったらよかったじゃん。初日にそういう相手ができて」


 まあ、よかったといえばよかったけどね。意気込んだ割に、何の苦労もしてないが。


「というか、わたしのことは下の名前で呼んでいいよ。わたしも彩佳って呼ぶから」

「そ、そう? じゃあ……美紗」

「うん、なに?」

「方言とかはあんまり出てないね。地方からの学生だったら、少なからず方言が出るものだと思ってた」

「あー、同級生たちと会話するときには、あんまり出ないかも。やっぱりテレビやネットで、東京の言葉にたくさん触れるからね。でも地元だとたまに出ちゃうかな」

「なるほど、ちょっと分かるかも」


 そんな感じで、一緒にお昼を食べながら、地元のことで話が弾んだのだった。わたしから何かアプローチを試みるまでもなく、友達といえる人ができたと言えよう。とりあえず今日の目標はひとつ達成したということで。

 さて、講義が始まるのは履修登録と同じく来週からなので、オリエンテーションが終わった今は、大学でやることがなくて暇だ。そこで今日の目標の残り一つ、生活環境を整える、これを午後にやるとしよう。

 ということを、学食からの帰り道で美紗に話すと。


「じゃあ、わたしも付き合っていいかな。遊ぶところ、探したかったんだよね」

「いいけど……これから回って探すのは、買い物とかするところだよ」

「食事なら学食でよくない?」

「休日だとお昼しか開いていないでしょ。頻繁に外食なんてしたら、ひとり暮らしの学生の財布なんてあっという間にカツカツになるから、お得に買い物できる場所は早いうちにチェックしておけって、うちの母君(ははぎみ)に厳命されているの」

「母君って」


 実家の家計をすべて握っている母親に、お金のことで父親の頭が上がらない所を、小さい頃から何度も見ているので、ことお金に関して、母親の助言は絶対なのだ。まあ、それ以外は割と好きにしていいと言われたけど。

 こういう事情があるので、少し遊ぶくらいは許されているけれど、そのせいでお金に困っても簡単には助けてくれない。元から節操なく遊ぶつもりもないが、やることはきちんと選んだ方がいいのだ。


「なかなか厳しい母君ですな」とは美紗の言。

「学費を出してくれているひとなので、何も言えないんだよね」

「まあ私立大の学費ってバカみたいに高いもんね。わたしもバイトのひとつやふたつくらいしようかなって、思ってるとこ」

「わたしも考えた方がいいかなぁ……美紗はどんなバイトがしたいの?」

「そうだなぁ……」


 美紗は虚空を見つめて少し考えてから、ぼそっと呟く。


「お猿さんを愛でるだけでお金が入る仕事……」


 動物園関連でないことは容易に察しがついた。わたしはすぐさま突っ込む。


「友達が警察のお世話になるとかシャレにならないからやめて」

「冗談だって。さすがのわたしもそのくらいの節度は弁えてるよ」

「美紗は見た目が結構ギャルっぽいから、水商売もやりそうで冗談に聞こえないんだよ」

「それはギャルへの偏見だから!」


 美紗は笑って突っ込んだ。自分の見た目がギャルっぽいことは否定しないのか。


「大体、彩佳だって他人事じゃないよ。そのつもりはないだろうけど、いわゆる闇バイトって、地方から出てきた世間知らずっぽい学生が狙われやすいから、簡単に高額を稼げるバイトの誘いには気をつけた方がいいんだよ」

「……その話はどこから?」

「学生センターで配られてたビラに書かれてた」


 地方から来た世間知らず、という部分は絶対に書いてなかったと思う。とはいえ、自分は大丈夫だと油断している人ほど、その手の誘いに引っかかりやすいと聞くし、わたしもうまい話には簡単に乗らないように心がけよう。


「バイトのことは、まだ後回しでもいいと思う。それより今日は、買い物をする場所をチェックするところから」

「彩佳の住んでいる所って、ここから近い?」

「自転車で二十分ほどかな。西側の川を渡った先の方」

「おぉ、わたしの借りてるアパートも、川の向こうだよ。意外と行動範囲がかぶりそうだね」

「そうなんだ……じゃあ、一緒にお店を見て回っても、大丈夫そうだね」

「よし決定! 今日はお店巡り、そして日曜日は一緒にパーッと遊びまくろう!」

「あれ? そんな話、あったっけ」

「いま決めた!」


 美紗はにっこり笑って親指を立てた。さっきからテンション高いうえに、行動が早すぎるな……まあ、大学で友達ができて、浮かれているのだと思うことにしよう。わたしも気持ちは分かるから。


「それじゃあ、家に荷物とか置いてから、適当なところで待ち合わせしようか。LINE交換しとこう?」

「そうだね」


 お互いにスマホを出して、連絡先を交換する。上京して初めての友だち登録……なんか、本格的に友達ができたと思うと、嬉しさで小躍りしてしまいそうだ。

 その後も、たわいもない会話を交わしながら、大学からの帰路を並んで歩いた。来たばかりの頃は不安だったけど、高校時代のように、友達とおしゃべりしながら並んで帰る事ができて、感慨深いものがある。まさか初めての土地で、こんなに話の弾む相手と出会えるなんて思わなかったし、その相手が今まで接したことのないタイプというのも、我ながら意外だ。

 まあたぶん、コミュ強の美紗に助けられているところが大きいのだけど。こういう友達は大事にした方がいいよね、きっと。


 さて、住んでいる家が同じ方面にあると言っても、ご近所と言えるほど近い所にあるわけじゃない。帰り道の重なる所も終わりが見えてきたので、わたしと美紗はここで一度別れることになった。そして、同じ場所で待ち合わせすることになった。二人とも知っている場所の方が、待ち合わせには最適だからね。

 美紗と別れてしばらく進み、古ぼけたマンションに辿り着く。住み始める前にも、内見や引っ越し作業で何度も見ているはずなのに、未だに見慣れない。いつになったらここがわたしのホームになることやら。

 ぼうっと建物を眺めているうちに、脳裏に人影がじわじわと浮かんでくる。


「あのお姉さんは、まだ仕事かなぁ……仕事だよなぁ。平日の昼間だし」


 朝に部屋の前で遭遇して、少しだけ言葉を交わした程度の、お互いによく知らない大人の女性のことを思い出す。わたしの大事な決意を笑われて、少しだけ腹が立ったけど、綺麗なお姉さんだったから妙に記憶に残っている。

 ……いや、違うな。彼女が笑ったのは語尾の“じゃ”であって、東京を攻略するっていうわたしの決意を馬鹿にしたわけじゃない。それにそう、地方出身の十八歳にとって、首都はまさに未知の世界、攻略すべきダンジョンのようなものだから、間違ってはいないはず。

 むしろ彼女はわたしを激励さえしていたと思う。本人はお節介だなんて言っていたが。


「……お隣さんだし、そのうちまた会えるよね」


 友達ができたこと、一緒に買い物や遊びに行くこと、話したい事がいくつもある。それらを最初に打ち明けたい相手が、家族や高校の友達を差し置いて、名前も知らない隣人の女性だなんて、どうかしている。

 あ、名前は分かるのか。エントランスの宅配ボックスに、名前が書いてあった気がする。わたしはエントランスに足を踏み入れて、壁に設えられた宅配ボックスを確認した。

 全てのボックスに名札がついているわけではなかったが、わたしの隣の部屋の番号が書かれた箱には、はっきりと名前があった。『望月佑』と。


「もちづき……ゆう?」


  * * *


 その女性と再会したのは割と早かった。初めて顔を合わせた日の二日後、日曜日の夕方のことだった。つまり、わたしと美紗が二人で遊びに出掛けた、その帰りだ。

 日没を迎えて徐々に暗くなり始めている住宅街を、わたしはひとりで歩いていた。今ごろは美紗も自分の家に帰っているところだろう。わたし達は、特に明日の約束もすることなく、普通に道の途中で別れた。

 楽しい一日だった。いい思い出になるはずだった。それなのに……。


「はあ……何だったんだろ」

「あれ? あなた、こんなところで何してるの?」


 とぼとぼ歩いてため息をついていたわたしに、後ろから聞き覚えのある声がかけられた。振り向くとそこには、よく知らないのに知っている女性が、自転車に跨って立っていた。


「あ、お隣のお姉さん……」

「奇遇ね。どこかに出掛けていたの?」


 変な巡り合わせもあったものだ。自分でも理由が分からないが、いま一番会って話をしたかった人と、まだマンションも見えていない帰り道で出くわすなんて。それに彼女も、一度会ったきりのわたしのことを、後ろ姿だけでよく判別できたものだ。周りは他にも、帰宅する人たちが何人もいるのに。

 奇遇といえばそれまでだけど、わたしはこの偶然が少し嬉しかった。


「はい、友達と……大学でできた友達と、遊びに出掛けていました」

「あら、もう友達ができたのね、よかったじゃない。学生時代の友達は一生ものっていうから、大事にしないとね」

「わたしもそのつもりだったんですけど……」


 お姉さんに会えた喜びが瞬時にして、陰鬱な気分に沈んでしまった。思い切り顔に出ていただろう。その変化にお姉さんもすぐに気づいた。


「何かあったの?」

「ええ、まあ、色々と……お姉さんは仕事帰りですか?」

「ふふっ、日曜日はたいていの会社がお休みよ。私も個人的なお出かけ」


 それもそうか。服装が以前に見たときと同じようなカジュアルだし、大人といえば仕事をしているイメージが染みついていたから、休日ということを失念していた。よく見たら靴はパンプスじゃなくスニーカーだし、自転車だからヘルメットもかぶっている。


「へえ、どちらへ?」

「裁判所」


 予想の斜め上を行く答えが返ってきて、わたしは思わず「へっ?」と言ってしまった。想定通りの反応だったようで、お姉さんは朗らかに笑った。初めて会った時みたいに。


「傍聴してきたのよ。知ってる? 刑事裁判は無関係な人でも、傍聴席から裁判の様子を見学できるのよ。私、たまに近くの地方裁判所で傍聴しに行ってるの」

「なかなか、社会派な趣味をお持ちで……」

「人ひとりの人生がかかった場面だからね、他では味わえない緊迫感があるのよ。まあ、軽めの犯罪だとみんなやる気なくて、淡々と進められることもあるんだけど」


 裁判の緊迫感というのもピンキリらしい。ドラマで見るような緊迫感が、現実の裁判の全てではないわけか。


「そんな感じだから、誰も一緒に行ってくれる人がいなくて……あっ、よかったらあなたも傍聴してみる?」

「……気が向いたときでよければ」

「あー、目逸らした。これ絶対いつまでたっても気が向かないやつ」


 バレたか。がっかりしているお姉さんには悪いけど、さほど興味はわかない。それでもはっきりと断らない辺り、わたしはこの女性に割と気を許しているみたいだ。

 あ、そうだ。いい機会だから渡しておこう。わたしはカバンを探って、今日のお出かけで買ったものを手に取った。


「あの、実はお姉さんに、お土産を買っていて……」

「え、お土産? 私に?」

「はい……遊びに行ったショップで、こんなもの見つけまして」


 カバンから取り出したものを、わたしはお姉さんに差し出した。

 見た瞬間に一目惚れして、同時になぜか、これを身につけているお姉さんを想像して、すごくいいと思った。想像に夢中になっていて、美紗に声をかけられるまで、ぼうっとしていたかもしれない。


「これ……イヤリング?」


 差し出された手の上にあるものを見て、お姉さんは目を丸くした。手のひらに収まるサイズのビニール袋に入った、銀色の耳飾りだった。


「はい。わたしのお小遣いでも買えそうだったので……」

「私に、くれるの?」

「お姉さんに似合いそうだと思って……ほら、お隣さんですし、何かと縁もあると思うので、挨拶代わりにと……」


 冷静になると、結構恥ずかしいことをしているな、わたし。一昨日に初めて会って、今回が二度目で、ほとんどろくに話してもいない関係の人に、イヤリングのお土産って……本来はもっと親密な間柄の人に渡すものじゃないのか。

 これをつけるお姉さんを見てみたい。その感情だけで購入してしまったけど、お姉さんには引かれてしまっただろうか。今になってチョイスをミスしたと、後悔が押し寄せる。

 お姉さんは少しの間、無言だったけど、やがてわたしの手からイヤリングの袋をつまんで取った。


「ありがとう。綺麗なイヤリングね。大事にするわね」

「あっ、えっと……はい」


 笑顔で受け取ってもらえると思わなかったので、ちょっと油断していた。こちらこそありがとう、とでも言えばよかったか。心が落ち着かなくて、上手く言葉にできない。


「……そういえば、あなたの名前は?」

「彩佳……雨洞、彩佳です」

「彩佳ちゃんね。ねえ、何か悩みとかあるならさ、私が話を聞いてあげるよ」

「え、悩みって……」

「今日のこととか。何か考え込んでいるみたいだったし……お友達とのことで、何かあったんでしょう?」


 ああ、なるほど。さっきは“色々と”で誤魔化したけど、今日の美紗とのお出かけで起きたことが、お姉さんは気になるらしい。

 ちょうどいいかもしれない。履修登録は明日からだけど、学科もコースも同じだから、同じ授業を受けようと、美紗と一緒に決めたばかりなのだ。つまり明日、普通に講義に出ようものなら、どうしたって美紗と顔を合わせてしまう。このまま気まずい月曜日を迎えるよりは、誰かに相談して気分を少しでも軽くした方がいいだろう。

 とはいえ、今日を含めて二度しか顔を合わせていない隣人を、相談相手とするのはどうなのだろう。何よりお姉さんに迷惑が掛からないだろうか。


「あの、迷惑じゃありませんか?」

「大丈夫よ。これのお礼でもあるから、気にせず話すといいよ」


 これ、というのは、さっき渡したイヤリングだ。お礼にわたしの話を聞きたいってことは、本当にプレゼントを喜んでいるみたいだ。社交辞令でも十分だったけど、心から喜んでいるなら安心だし、わたしも嬉しい。


「そうですか……でも、道端で話すような内容でもなくて」

「だったら私の部屋に来る?」

「えっ?」

「といっても、少し散らかっているから、片づける時間は欲しいかも。私は自転車だし、先に部屋の中を整えておくから、彩佳ちゃんは後からおいで」

「で、でも、部屋にお邪魔するのは……」

「もうすぐ夜になるし、他にゆっくりお話しできる場所もないでしょ。そうだなぁ、六時半くらいに来て。ノックもしなくていいから」


 ノックもなしによそ様の部屋に入れと? 家族でもそこまでやらないと思うが。


「じゃあ、先に行ってるよ。夕飯もよかったら食べていってね」


 そう言って自転車のサドルに跨ると、お姉さんは返事も待たずに走りだした。呆然と立ち尽くすわたしの目の前で、あっという間にお姉さんは人ごみに紛れた。

 お誘いを受けてしまった……出会ったばかりの、気になっている隣人に。お悩み相談に、夕食のご相伴までついてきた。なんだ、この急展開。

 なんか一昨日も似たようなことがあったな……そう、美紗との買い物や遊びの約束を、取り付けられたときと似ている。あの時の美紗も、やんわりとだが強引に話を進めていた。気づいてなかったけど、わたしってそういうタイプの人間を引き寄せる体質なのか。


  * * *


 お姉さんに言われたとおり、わたしは六時半ぴったりに、隣の部屋のドアを開けた。躊躇はあったけど、ノックはしていない。ドアを開けた直後に、どこからか別の部屋のドアが開く音がしたけど、変に思われてないのを祈るばかりだ。まあ、きちんと説明すれば済む話ではあるけど。

 マンションに到着してもまだ時間があったので、六時半になるまでは自分の部屋にいた。そして予定の時刻が迫ったところで、自室の鍵を入れたカバンを持って部屋を出て、お姉さんの部屋のドアの前で待機していたのだ。

 お姉さんは奥のリビングで、ホットプレートを使って焼きそばを作っていた。


「いらっしゃい、彩佳ちゃん」


 わたしが後ろ手にドアを閉めた後、お姉さんが気づいて声をかけてきた。なぜか照明がついているのはリビングだけだった。


「お邪魔します……あの、こっちの電気はつけないんですか」

「ああ、そっちの蛍光灯は切れていてね。代わりの蛍光灯もちょうど切らしていて……まあ洗い物は少ないし、一晩くらいつかなくても大丈夫よ」


 お姉さんは屈託なく笑って言った。家主が平気だって言うなら、わたしは口を挟まないけど。

 靴を脱いで上がると、わたしは真っすぐリビングに向かう。その間も、大人の女性の部屋がどんな感じなのか気になって、あちこちを見渡してみた。しかし、これといって、わたしの部屋との大きな違いは見受けられない。


「なんか、思ったよりシンプルな部屋ですね。綺麗な壁紙とか、お花とか置いてるかと勝手に思ってました」

「うーん、私はそういうの、あまり興味がないから。彩佳ちゃんの部屋はどんな感じ?」

「同じような感じですよ。引っ越したばかりでホームメイクもろくに出来てないので」

「一か月も経てば自分の部屋に変わるわよ。本棚とかキャビネットとか、たくさんの私物で埋め尽くされるの。大学生は自由な時間が多いからね」

「なるほど……」


 丸テーブルのそばに腰を下ろして、改めて部屋の中を見回してみる。本棚はないが、小さなキャビネット……あれはチェストというべきだろうけど、それは壁際にぽつんと置かれている。なんというか、適当に設置しているようにしか見えない。


「社会人は立派な本棚に仕事用の本や資料をたくさん仕舞っていると思っていました」

「普通はそういうものじゃない? 私の場合は、仕事に必要な資料はタブレットに入れているから」

「おお、大都会の勤め人って感じですね。働き方が進歩しています」

「たぶん都会も田舎も関係ないと思うけど……彩佳ちゃんの部屋に、本棚ってあるの?」


 焼きそばを作る手を止めることなく、お姉さんは尋ねた。ホットプレートだから火力を細かく調節できるとはいえ、それなりに集中力のいる作業だと思うのだが。というか、ほんのり焦げ風味の混じったソースの香りが、的確に鼻腔をくすぐってくるのですが。


「ジャンクフード万歳……」

「彩佳ちゃん?」

「あ、すみません。本棚はもちろんありますよ。といっても、教科書が販売されるのは明日からなので、半分くらいが漫画で埋まっているくらいですけど」

「本棚の半分が埋まるくらいの漫画を持っているのね……」

「それよりお姉さん、焼きそばはまだですか」

「もうそろそろ頃合いね。飲み物はそこにあるもの、好きに選んでいいわ」


 丸テーブルのそばに、ジュースや炭酸飲料のペットボトルが並べて置かれていた。まだちょっとくつろげる気分じゃなくて、好きに選ぶのもためらわれたけど、とりあえず無難にコーラを選んで、コップに注いだ。

 完成した焼きそばも、トングでお皿に盛られて、夕食の準備は完了だ。もうひとつのおかずはポテトサラダで、なんともシンプルかつカロリーの高そうなメニューだけど、今夜くらいは別に気にするまい。

 というわけで、食べてみました。


「うんまっ! お姉さん、お料理上手なんですね!」

「市販の袋麺を使った焼きそばに、出来合いのポテトサラダなんだけど……」

「それでもですよ。わたしじゃこんなふうに上手く作れるかどうか。これも自分で作っていくうちに、お姉さんみたいに上手くなるのかな……」

「さっきから彩佳ちゃん、私をお姉さんって言ってるけど、名前はまだ言ってなかったっけ」

「ああ、そうですね。でも、エントランスの宅配ボックスに、名前がありましたよ。望月、ゆうさんって言うんですか」

「…………ええ、そうよ」


 なんで間があった? いつ宅配ボックスの名前を確認したのか、怪しんでいるのか。一度会っただけの女性が気になって、二日前にはとっくに知っていた……と聞いたら、さすがに引かれてしまうだろうか。


「もしかして、読み方に自信がなくて、ずっとお姉さんって呼んでた?」

「まあ、そうですね……」

「分かるなあ。同じ漢字でも読み方が違う名前って、結構あるもんね。最近はキラキラネームも増えて、余計に混乱することもあるし。ほら、月に奈良の奈と書いて月奈(るな)とか、聖なる夜と書いて聖夜(のえる)とか」

「あー、たまに聞きますね、そういうの」


 よかった、気に障ったということはなさそうだ。自然な受け答えを装いながら、わたしは動揺を悟られまいと必死だった。

 その後も特に何事もなく、夕食の時間は進んだ。佑さんからは、今日傍聴した裁判で起きた変な出来事を、わたしからは、入学までの苦労話を、ひたすら互いに語り合った。他人の家でジャンクな夕食をいただくという、風変わりなシチュエーションに酔って、心なしか気分が昂揚していたようだ。

 ホットプレートに残っていた焼きそばもだいぶ少なくなってきた辺りで、佑さんが本題を切り出してきた。わたしが夕食の席に呼ばれた、そもそもの理由だ。


「それで彩佳ちゃん、今日は何があったの?」

「……まあ、その話になりますよね」

「だってそれを聞くために呼んだんだし。まあ、無理して話さなくてもいいんだけどね。イヤリングのお礼に夕食をご馳走した、っていうのもあるし」


 本音では、お土産のイヤリングをダシにして、わたしから悩みを聞きだそうとしているのかもしれないけど……そうでもされないと話せないだろうから、かえってちょうどいいが。

 ただ、自分でも上手く説明できる自信がない。何が起きたのか、わたし自身もよく分かっていないからだ。


「……今日は本当に、楽しい一日だったんです。近くのおしゃれなカフェに入って、二人でパンケーキを食べて……そうそう、パンケーキだけで色んな種類があって、どれも盛り方が凝っていたけど、学生が気軽に頼めるような値段じゃなくて……」

「あー、地方から来た子に、東京のカフェはなかなか勇気がいるかもね」

「結局、比較的シンプルで、値段もお手頃なやつを頼んだんです。食べたら二人そろって、美味い、って思わず声を出しちゃって……あ、美紗は『うまかぁ』って言ってました」

「訛ってるわね」

「九州出身だって言ってました。その後も、あちこちのお店に入って、買い物したり、写真撮ったりしました。休日に友達と遊ぶのも久しぶりだったので、自分でもびっくりするほどはしゃいでいましたね。そうやって、楽しい思い出だけ抱えたまま、家に帰るものだと思っていたんです」

「それはつまり、帰り際に何かがあったってこと?」

「はい……すごく楽しくて、わたしもちょっと浮かれていたんだと思います。最後のお店を出た後で、わたし、軽い気持ちで美紗の手を握ろうとしたんです。いつも美紗が同じことをわたしにしているから、わたしからやっても平気だと思って。でも……」

「でも?」

「……でも、美紗は、わたしが握った直後に、わたしの手を振り払ったんです」


 それはもう、反射的と言っていい速さだった。熱いものに触れた瞬間に手を離すように。振り払ったというより、素早くわたしの手から遠ざけた、と言った方が正確かもしれない。

 何が起きたのか分からなくて、わたしは美紗の顔を見た。美紗もすぐにわたしを見たので、自然と目が合った。

 その時の美紗の表情は、複雑だった。驚いて、訝って、そして同じくらい愕然としていた。信じられないことが起きたみたいに。わたしが手を握ったこと、美紗がそれを振り払ったこと、どちらが美紗にとってショックだったのか、判断はつかなかった。

 美紗は、わたしに触れられた手を、もうひとつの手で覆いながら、「あっ……」とだけ漏らした。やってしまった、と言わんばかりに。


「それで、その後は?」

「よく分からないうちに、お互いに『ごめん』とだけ言って、しばらく普通に一緒に歩いて、決めていた場所で別れました。ただまあ、なんとなく気まずくて、一緒にいる間は終始無言でしたけど」

「その後に私と出くわしたのね。運がよかったわ……そんな気まずい空気で声をかけたら、私まで居たたまれなくなっちゃう」


 本当にそうだ。手を握ることを拒絶された、その理由も受け止め方も分からず、ぐるぐるしていたわたしにとって、佑さんと遭遇したことは幸運だった。だけど佑さんにとっても、あのタイミングで出くわしたのは幸運だったといえる。

 言葉にしてしまえば、今日起きたことはこれだけだ。だけど、最初に出会ってから今この時までの、どこを拾ってみても、美紗があんなことをした理由が見えてこない。美紗に嫌われる心当たりもない。そもそも彼女も、握ろうとした手から逃れてはいたが、握るのをやめてほしいとは言わなかった。まして振りほどいた理由も説明してくれない。


「どうしたらいいんでしょう……明日、どんな顔して会えばいいのか」

「まあ、お友達の方に何か事情がありそうだけど、機会を窺いながら聞いた方がいいかもね。明日は平日だけど、会うのは確実なの? 大学の講義は自由に取れるけど」

「一緒の講義を受けようって、約束してるんです。気まずいからって出席しなかったり別の講義に出たりしたら、余計にこじれそうです」

「それはそうかもね……」

「ああ、もう」


 頭の中が何ひとつ整理されなくて、感情のやり場に困ったわたしは、丸テーブルに突っ伏した。話せば少しは気が休まるかと思ったけど、やっぱりどうにもならない。


「せっかく東京でできた、初めての友達なのに……」

「いやいや、友情が壊れるって決まったわけじゃないからね?」

「だとしても、やっぱり不安ですよ……このままいつも通りに接することができる、自信がないです」

「うーん、どうしたものか」


 相談を受ける側として、佑さんもそれなりに考えてくれるらしい。両手を床について、腕で支えながら体を後ろに傾け、天井を仰いだ。胸部になかなか立派なものを持っていて、のけ反るとその大きさが強調される。……いや、どこを見ているのだ、わたしは。

 でもやっぱり、改めて佑さんは綺麗な女性だ。都会っぽさ、というのではないが、顔はどこから見ても目鼻立ちが整っているし、二の腕はほどよく筋肉があって、すらりとした体型なのに立派なものがあるし。さぞかし男性からもてるのだろう。いや、ここまで綺麗だと女性だって心惹かれそうだ。

 床についている手も、しっかりケアされていて、指も細くて長い。触ったらとても、すべすべしていそうだな……。


 ほとんど無意識に、わたしは手を伸ばしていた。佑さんの綺麗な左手に、そっと自分の手を添える。

 佑さんは気づいて、わたしを見た。でも、美紗みたいに振りほどきはしなかった。


「彩佳ちゃん……?」

「お姉……(ゆう)さんは、手を離しませんよね?」


 疲れているのかな。それで眠気がするのかな。自分でも何を言っているのか、分からなくなりそうだった。

 テーブルに頭を載せたまま、じっと佑さんを見つめるわたし。そんなわたしを、どこか緊張気味に見つめる佑さん。わたしに触れられながら、左手をくるっと回し、わたしの手を優しく握り返してくれた。……嬉しい。

 そのまま佑さんは、床に膝をつきながら、すすす、とわたしに距離を詰めてくる。

 何だろう、と思って少し体を起こしてすぐ、佑さんは正面からわたしに密着してきた。握られていない右手を、わたしの背中に回して。


 あ、これ、ヤバいやつだ。柔らかいものがあちこちに触れている。自分のものじゃない体温が伝わってくる。耳元にかすかな吐息が聞こえてくる。体が熱くなって、動悸がして、腕も足も動かし方が分からない。このままだと……飲み込まれる。


「彩佳ちゃん……その、お友達のことだけど」

「は、はい」


 この状況で耳元に話しかけられて、冷静でいられるわけがないのに、佑さんは意味ありげに話を戻してきた。


「もしかしたらその子は、あなたのことを、友達として見られなくなったのかも」

「え? それって、どういう……」

「ほんの少し、気持ちの形が変わったのよ。そのせいで、あなたへの接し方が分からなくなって、頭が混乱したのね」


 混乱しているのは今のわたしも同じだ。置かれている状況を理解できなくて、気のない返事しかできなくなっている。

 ただ、ひとつだけ、頭をよぎった疑問がある。


「あの……どうして、そんなことを、思ったんですか」

「少しだけ、共感したからかな……」

「共感……?」

「ええ……今のあなたなら、きっと分かるわ」

「……なんで」

「彩佳ちゃん、とても、熱っぽいから。私と同じ」


 佑さんは抱擁する腕をゆるめて、わたしと真正面から見つめ合う。鼻先が触れ合いそうなほどの距離で。

 いけない。これは、いけない。振りほどかないと、この熱に、飲み込まれる。

 ……ああ、今、少しだけ分かった。

 だから美紗も、わたしの手を振りほどいたんだ。


 でも、わたしにはできなかった。


「あなたの瞳、とても綺麗ね。あなたなら私のこと、ちゃんと見てくれそう」

「あっ……」


 ふっと視界が塞がれると同時に、唇に何かが触れた。柔らかく、艶があって、それでいて湿っぽくて、あたたかい何かが。

 ああ、だめだ……わたし、この人のことを、拒めない。

 唇を伝って流れ込んでくる、心地よい温もりが、瞬く間に全身へ広がっていく。身を委ねずにはいられない。振りほどくなんて、考えられない。


 永遠に思えるほどの口づけは、割とあっさり終わった。たぶん、ほんの数秒だけだろう。でもそんな短い時間で、わたしの体は骨まで溶かされた。誰に押されたわけでもないのに、わたしはゆっくりと、仰向けに倒れた。その上で佑さんは四つん這いになり、火照った顔でわたしを見下ろしている。

 完全に絡め取られた。わたしの視線はもう、佑さんから離れられない。


「わたし……こんなの、知らない……」

「私もそんなに知らない。お互いさまだね」


 二度目の接吻を交わして、わたしの意識は、まどろみの中に沈んでいった。


あらすじを読めば、次回からの展開はだいたい予想できるかもしれません。しかし、前編だけでいくつも伏線が仕込まれています。どんな形で回収されるか、どうぞお楽しみに。

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