08:災害の爪痕
昨日は作者が忙しくて投稿できませんでした。
申し訳ございません。
そのような中、ここまで来ていただきありがとうございます。
「で、申し開きとかあるかな」
その後、トイレで嗚咽のオーケストラを奏でていた雅の顔色は、その特設ホールから戻ってくるころには、幾分かマシな色合いになっていた。そんな彼女に向かって、成海は地面に横たわっているお酒たちを指差す。
憤りを感じているであろう成海の雰囲気に戦々恐々になっている雅。その瞳は、チラチラと成海の背中の向こうにいる一人の女性を見ていた。
雅が指揮を振るっている最中に、母が戻ってきていたのだ。その時、トイレから聞こえる嗚咽音と共鳴するかのごとく、バーの中で悲鳴をあげている。
「ああ、うう」
成海には強気で当たれる雅だとしても、その親がいれば話は別だった。割れた酒瓶を抱き、すんすんと悲しみにくれる母の姿に、さらなる罪悪感を彼女は募らせていった。
「かあさん、そろそろ泣き止んだら」
「だけどぉ、私のお酒が」
「過ぎてしまったこと仕方がないと思うよ。それよりも早く掃除しないと、開店に間に合わないよ」
いつも通りに店を開けることは不可能だと感じた成海は、母と相談し、一時間だけ遅らせることにした。常連さんには申し訳ないが、優しい人達だからわかってくれるだろう……と自分は考えながら掃除をしている。
バーテンダーの服にモップというのは良く映えていた。白シャツに蝶ネクタイ、カーマベストというよくある出で立ち。下はタイトなスカートを履き、前掛けとしてソムリエエプロンをしている。足元は、少しだけ高めのヒール。一般的なデザインに準拠しつつも、自分の好き勝手に着崩しているところに成海らしさがあった。
そんな感じで、本来奉仕することを想定されていない服装を纏っているにも関わらず、よく映画で見るメイドのごとく、きゅっきゅっと床を掃除している。そのアンバランスさには一種の魅力があり、不思議な雰囲気を醸し出していた。
「えっと、えっっと」
その様子を、雅はおどおどした様子で眺めていた。手伝った方が良いか、余計なことせずにこのまま座っている方が良いのか、と言った葛藤を感じる。そんな状況を見かねたのか、彼女に向かって成海はダスターを投げつけた。
それをキャッチしつつも、動くことができない雅。その手に持つダスターと成海の表情を交互に見渡している。
自分は何かを察した表情になり、ぽりぽりと後頭部を書きながら、
「それで、カウンターとか机とかを拭いてくれないかな」
そう口を開いた。
その言葉を聞いた雅は、ガタンと椅子を倒さんというような勢いで立ち上がり、しどろもどろになりながらも返事をしてくる。
「ほら、かあさんも」
「……うん」
彼女を見届けた成海は、次というように母に声をかける。母は母で、ようやく立ち直ることができたのか、ほうきを持って開店に向けての準備を始めた。
そんなゴタゴタとした様子を見ながら、私は雅のことが気になっていた。どこかで見たことがあるような気がするのだ。初対面のあの日も、成海にとってはそうだったはずなのに、私にとっては妙な懐かしさというものがあった。
まあ、デジャヴというものよね。私には、あんな暴力的な知り合いなんていなかったと思う。
他人の空似とか、そんな感じのものだと考えた私は、そんな感じのちょっとした違和感を頭の奥に押しやった。
「このくらいでいいよね」
成海が、自らの死体をぬぐいながらそんな言葉を発した。ホールを見てみると、先ほどの悲惨さは何処へといわんばかりに綺麗になっていた。見事に復元されている。
割れてしまったお酒類は母が倉庫から補充し、手の回らないところは雅がやってくれていた。三人いなければ、もっと時間がかかったのだろう。……まあ、そもそも雅が襲ってこなければこうはならなかったのだが、成海はそのことをすっかり失念してしまっている。
「さてと、まず聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「……っ、ああ」
成海は、雅を手招きしてカウンター席へと座らせる。自らは机を挟んで向こう側へと陣取った。ゆったりとした動作でタンブラーグラスを取り出し、そこにオレンジジュースを注ぐ。それを目の前に座る彼女へと差し出し、満を辞して口を開く。
なぜ襲ってきたのか、を。
「それは…………」
「それは?」
雅の言った言葉を復唱して聞き返し、彼女を威圧する成海。非常にタチが悪い。
「それは––––っっっ!」
ぐうぅぅぅ〜〜〜〜〜。
雅が何かを告白しようとした瞬間、ティンパニーをかき鳴らしたような重低音が世界を包む。初めは何の音だかわからなかった成海だったが、目の前の人物の反応を見たことによって、それがなんだったのか察する。
前かがみになるようにお腹を押さえて、雅はうずくまる。その顔はほんのり赤くなっており、突如として起こったその出来事に目を見開いていた。
「もしかして、おなかすいたの?」
「空いてなどいない。ましてや、僕ではない! なんでそう思ったのだ」
焦燥した様子で、早口になりながら、ペチャクチャと唾を飛ばしてくる雅。汚いというように成海は虚空を払いながらも、その手元には着々とサンドイッチらしき何かが準備されていく。
その様子を見て、雅の顔がさらに赤くなる。自らの心の中では、自分のために作られていないと信じてはいるが、雰囲気ではなんとなく察していた。
ぎゅるるるるん。
そんな雅の言葉とは裏腹に、成海の考えを決定づける快音が店内に鳴り響く。お腹の中で天地をひっくり返したかのような、バイクのエンジンを吹かしたような、何かをねじ切ろうとする音が響いていく。
シーン、と静まる店内。そんな状況に、赤よりも紅い色に染まっていく雅の頰は、まるで熟れたトマトのようだった。
「ほら、千ヶ崎雅。君の顔と同じ真っ赤な野菜をいっぱい入れた、君が切望してやまないクラブハウスサンドだよ」
カウンター席に顔を伏せる雅の前に、その色とりどりな食べものを成海はおいた。存在を知らせるために、彼女の身体を揺さぶる。
「とりあえず食べなよ」
細長いまつげをかすかに震わせている雅の身体を、何にも怪我させないように、ゆっくりと起こそうとする。その途中で、雅は嫌がるように身をよじり、
「…………はえ?」
ようやく、目の前に置かれた食料の存在に雅は気がつく。自分用ではない、自分用ではない。そう自己暗示を繰り返そうとも、彼女の目の前にあるのは、自分のために用意されたクラブハウスサンドだった。
恥ずかしさのあまり強張っていた眉が弛緩してくる。お腹を押さえていた手も自然と机に上がって行き、今にも目の前のそれに手を伸ばしそうだった。
「……なんのつもりだ……」
一瞬目を輝かせた雅だったが、すぐにむっつりとした半目になって、バーテンダー姿の成海を睨む。
「なんのつもりのなにも、目の前であんなすごい音を鳴らされたらほっとけないよ。お腹空いていたら、話せることも話せないだろうしね。もしかしなくても、夕ご飯を食べずにここまできたの?」
「ほっといてくれ、余計なお世話だ」
「そう思うのなら、そう感じられない準備だけは済ましてくるべきじゃないかな」
「……うるさい。そもそも、僕が体調を崩している間に、何かしらの変なことはしていないだろうな」
まだ顔が青いのにも関わらず、雅はわざとらしく両手で身体を守る。蔑む視線を成海に向けるのも忘れてはいない。
心配したのにも関わらず、そんな態度を取られたら、人間反発したくなるもので、
「君が先に変なことをしてきたのだから、そっちがされても文句は言えないよね」
揚げ足をとるみたいに文句を言う。
その言葉に眉をひそめて、反論するように立ち上がろうとする雅だったが、今はもう暴れられる時間はないと考えた成海にせき止められる。
「もうすぐ開店だから、君と論争をしている暇はないんだよ。こんな状態の人を路上に放り出すのも気がひけるから、とにかく食べて!」
「お腹空いて––うぶっ」
皿に乗せられていた具沢山のクラブハウスサンドをつかんだ成海は、ここまでのことをしでかしておきながら、いまだグジグジ言っている雅のその小さい口に無理やり突っ込む。噛みつかれるかもしれないと言う心配もあったが、面倒くさくなってきた、早く終わらせたい、という自暴自棄に似た何かに成海は身を任せた。
「ほ、ほにゅすんのにょ」
目をぎらつかせながら、自らの口に伸びている成海の手を雅は払いのける。だが、口の中に入ったものまでも吐き出すことはできなかったのか、もきゅもきゅと、まるでリスやハムスターみたいに小さな頬を膨らませて嚥下しようとしている。
「あん……んぐ、ごくっ。ふぅ…………貴様、こんなことをして多々で済まされると思うなよ」
一気飲みした開口一番、そんな恫喝じみたことを放ってくる雅。
「人の家を荒らした挙句、撲殺しようとしてタダで済むと思わないことだね、後輩。次は法廷で会おう」
「すいません。私が悪かったから、それだけはやめてくれ」
しかし、待ち構えていたかのような綺麗なカウンターを相手に浴びせる成海。雅も思わずたじろいでしまう。
「だ、だが、貴様がしたことだって、世が世なら重罪だぞ」
「無理やり突っ込んだことかな」
「そうではない」
「なら、お酒をぶっかけたこと?」
「そうでもないっ!」
「なら、なんだって言うのさ」
逃がさないぞ……と足を掴みながら言ってきていそうな雅の所業に、成海は頭を抱えていた。しつこすぎる、と。
もうすぐで開店というのにも関わらず、こんな危険人物を店内に残していては、開けるものもひらけない。そういう発想に成海は至り、手早く済ますために彼女に向かって答えを求める。
「それは……だな」
だが、自分の思惑とは裏腹に、雅は口ごもってしまう。いたずらに時間だけが過ぎていく。それが耐えられずに、成海は急かすような言葉を述べた。
「もうすぐお店が始まるんだから帰ってくれないかな。警察や学校には言わないからさ」
そんなことを言ってみるが、雅は動かない。何か言い出しづらいものを抱えている雰囲気はあるものも、それをどうこうしてくれる存在はここにはいなかった。
痺れを切らした成海が、カウンター席から回り込み、雅を椅子からひっぺがそうと彼女に手を伸ばした––その時。
「だって、僕のラブレターを勝手に見たじゃないか。挙句の果てに、お菓子も持って帰った。それを取り返すためにはこうするしかなかった!」
そのような言葉が成海に飛んでくる。初めは理解して雰囲気のなかった自分だったが、徐々に彼女の言った言葉の意味が明瞭になってきたようだ。
今日、拳の机に置いてあった贈り物。非常に難しい古文のような言葉遣いで書かれた手紙。菓子折り。何よりも、わざわざあの時間帯に届けているという事実。それらが成海の頭の中で、ジグソーパズルのようにカチリと噛み合っていく。
「あの意味がわからない手紙と、とても不味いお菓子の送り主は、君だったの」
「さっきからそう言っているだろ。宛先を書いてなかったのはこちらの落ち度だったが、それでも、なぜ貴様のものに行くんだ!」
かなりの憤りを成海は感じていた。こうなってくると、自分が悪いんじゃないかという考えまで浮かんでくる。
「そもそも、人のものを奪っといて、やれ意味がわからないだの、やれ不味いだのとは、一体どういう了見なんだ」
さらには、彼女から浴びせられる今までの不憫さの結晶のようなものが、さらにそれらを加速させていく。
ただ、
「直接渡せばよかったんじゃないの」
純粋に、単純に、成海はそう思ってしまった。口に出してしまった。その言葉が、雅の心をどれだけえぐるかなんて考えずに。
「そ、それは、そうなのだが。幾分か…………恥ずかしくて、な」
成海は固まった。こんな危険人物に、そんな人並みの人間レベルの感情が備わっていようとは露ほども思ってなかったからだ。じっとりとした目を雅に向けながら、自分は口を開けた。
「なんで。正直言って、あそこまで気持ち悪いほどの行為を本人に見せられるのに、どうしてこういうところは普通なの」
「いや、なんかな、こういうことしたのは初めてで……すごく恥ずかしくて、どうしようもなかった」
乙女かっ! そう成海は突っ込みたくなるが、グッと我慢をする。そんなことを続けていたら、ただでさえ短い時間がさらになくなるからだ。
幸か不幸か、雅の方も目の前にあるクラブハウスサンドに夢中になっている。たぶんだが、自分の口でこういうことを言うのが恥ずかしくて、隠そうとしているのだろう。
もぐもぐして、ごくんと飲み込む。オレンジジュースにも口をつける。それが終わると、またもぐもぐするのを始める。あらかじめ塗ってあったマスタードソースにびっくりしたのか、はっ……とした表情を一瞬作り、さらにもう一口。
そんな雅の向かい側に座り直した成海は、クラブハウスサンド作りから先ほどまで考えていたことを口にしようとしていた。
「ねえ、千ヶ崎。少しだけ、俺の話を聞いてくれないかな」
もぐもぐもぐ。
「そもそもの、君がここに突撃してきた理由はわかった。この店がいわれもない被害を受けたのもね」
ごきゅごきゅごきゅ。
「やろうと思えば、君を警察に突き出すことも可能だよ。でもね、俺の方にも落ち度があったようだし、これで水に流そうと思うんだ」
もきゅもきゅもきゅ。
「だからね、」
かつかつかつかつ。…………ごくごく。ぷはぁ。
「ねえ、聞いている」
「おかわりっ」
「そんなものないよ!」
喚けど喚けどもこちらに目の向ける様子のない雅。挙句の果てにお代わりまで要求してくる。馬の耳に念仏といった状態。それを打開すべく、ろくに確認もしていないはずのクラブハウスサンドの残りをないと言い張り、ひょいっとお皿とコップを奪い去る。
雅は、それに反感を持ったのか、どこぞの番犬見たく歯ぎしりをしながら、成海の方を睨んでいた。
「あのさ、そろそろ開店時間だから、出て行ってもらっていいかな」
できるだけ優しい口調でそう発し、店先にあるドアを指差す成海。その言葉を聞いた雅は、まるで忍者かのように表情を変えていき、今にも泣き出しそうなチワワみたいな顔を作っていた。その表情のまま、
「帰る家などない」
こういった。
いやいやいやいや。待て待て待て待て。そんな文字の羅列が、成海の脳裏にある集積回路を駆け巡っていく。
「親はどうしたの」
「さっき、喧嘩別れしてきた。ようするに、家出だ」
「いや、そんなドヤ顔で言われても」
してやったりの顔になっている雅だったが、そんなことないと、成海からのツッコミを受ける。
「じゃあ、どうするのさ」
「…………」
「決まってないんだね」
こくり。雅がゆっくりと頷く。成海はおっとりと頭を抱える。そんな感じの無言がいっとき続く。自分は、どうしたものかと頭を悩ませていた。
学校に報告するは……いや、根本的解決にはならない。それなら……。
成海にとっての解決法はいくらでも出るが、雅にとっての解決法が一切出てこない。そんな状況が嫌で、彼女を捨ててしまったら自分が負けた気になりそうで、成海は一生懸命に考えを巡らす。
雅もまた、自分の処遇がどうなるのだろうとか考えたり、これからどうしようかと思っていたりしてそうな感じの思案顔を作っている。
そんな重苦しい雰囲気の中、ある一人の女神が、この状況を打ち破る武器を、ぽつりとその口からこぼしていった。
「なんなら、うちに住み込みで働く? みやびちゃん」
「っ⁉️」
「ぇ––––」
今まで存在を忘れ去られていた我らの母が、その持ちうる大人という暴力の元、迷える子羊にそんな提案をしてくる。成海はそのありえない内容に絶句し、雅は想像以上の好条件に言葉を詰まらせてしまう。
「か、かあさんっ」
「いいじゃない、なるみちゃん。ちょうど、給仕のアルバイトが一人欲しいとおもっていたんだわ。タイミングばっちりってやつぅ〜」
「それなら、一般人を募集すればいいじゃないか。なんで、よりにもよって、中学生になるの」
成海のその言葉に顔を青くする雅。自分の処遇が悪い方向に行きそうな匂いを嗅ぎ取ったのか、ふるふると首を横に振って母の方を見ている。
それに返事をするように、母は彼女に向かってウィンクをしてから口を開いた。
「だって、なるみちゃんだって見知った人の方が楽でしょ。初対面の人なんかよりも」
「まあ、そうれはそうだけど」
「だよね〜。だからこれは決定です。おかあさん権限ね」
「で、でも、こいつは俺を殺そうとした存在だよ。それと我が子を一緒にできるの?」
言い負かされそうになる成海だったが、ギリギリのところで母に食い下がる。述べた言葉もかなりの説得力があると踏んでいた自分だったが、
「だからって、野放しにしても変わんないと思うな。それよりも、近くにおいて監視していた方が良くない」
簡単に母の言葉に負けてしまう。確かにそっちの方が良いかも……と成海は納得してしまったのだ。この時点で自分の負けは決まりきっていた。一度やってしまったことに人は慣れていくもので、成海もまた、次々に投げかけられる母からの言葉に納得するしか無くなっていた。
「この店的にも楽になるし」
「うん」
「同年代の女の子を採用できるっていうことで、こちらとしても安全だし」
「そうだね」
「かわいいから、お客さん受けもいいと思う」
「確かに」
「何より、このお酒代の弁償にもなるってことよ」
「そうだよ。完璧じゃないか」
成海の完全敗北だった。特に自分に聞いたのは、お酒の弁書もできるという面。雅が壊していったウォッカたちはそれなりに高いもので、母とまでは行かずとも、成海も悲嘆には暮れていたのだ。それを保証してくれるというのは願ったり叶ったりということだった。
雅にしてみても、住む家どころかご飯も出てきて、恩返しのような奉公もできるとくれば逃したくはないものだったのだ。
まさしくウィンウィンの関係であり、両者ともに納得のいく結果になっているように見えた。
「決まれば即実行ね。もうお店も開けないといけないし、みやびちゃんにはアレを着せておいてね」
そう言われた成海は、はじめ何のことだかわかっていないような反応をするが、母が胸の前で丸を作るジェスチャーをすると、冊子を得たような表情になる。そのまま、何のことだかさっぱりの雅の手を引いて、母屋のほうに向かった。目的地は自分の部屋のクローゼット。そこには多くの衣類が収められていた。
「なんだ、これは」
Tシャツ、Yシャツ、ブラウス、タンクトップ、カーディガン、ニット、パーカー。ジーンズ、チノパンツ、テーバードパンツ、ワイドパンツ、ガウチョパンツ。フレアスカート、タイトスカート、プリーツスカート、ラップスカート、レーススカート。シャツワンピース、ニットワンピース、ティアードワンピース、カシュクールワンピース、パーカーワンピース。デニムジャケット、レザージャケット、ミリタリージャケット、テーラードジャケット、ダウンジャケット。チェスターコート、Pコート、ノーカラーコート、トレンチコート、ボアコート。
その異種多様な服が収められたウォークインクローゼットを見て、雅は目が飛び出るほどに驚愕していた。
そんな様子の彼女を無視して、成海はズカズカとその中に入り、ある一つの衣装を取り出した。
「これが君の制服ね。クリーニングは済ませてあるから大丈夫だとは思うよ」
そう言いながら、雅に向かってそれを投げ渡す。しかし、それを受け取った彼女は動く様子もなく、ただ、じーっとその衣装を見て固まっていた。
「どうしたの。ダニとかが出ているとは思わないけど」
「……いや、違う。そうじゃない」
すぐに着替えないことを疑問に思った成海は、的外れな回答をしてしまう。それに対して、眉を寄せながら苦い顔をする雅は、自分の正気を疑うような視線を向けている。それにもかかわらず、いったい何のことだろうと首をかしげている成海の図は、はたから見ればもどかしいものがあった。
ほんの数十秒くらいの出来事だったが、二人の熾烈な攻防は、それらの何十倍もの時が流れているように思えた。それほどまでに滑稽だったのだ。
早く気づけ。そう思わずにはいられない。
「あっ」
その願いが神にでも通じたのか、左の手のひらを右こぶしで、ぽん、と叩いた成海。ようやくかといった感じで、雅のほうも、その強張らせた顔を弛緩させる。だが、
「ヘッドドレスとニーソックスを忘れていたよ。それと靴もね。確かに着替えに行かないわけ――」
「だから、そうじゃないっ!」
またしても襲来してきた、まったく的外れな回答に思わず大きな声をあげてしまう雅。切実な願いは、見事に裏切られたといわんばかりの表情で、くわっと成海に迫り、今まで溜めていた鬱憤を吐き出した。
「この、服は、なんだ、と言っているんだ」
「何って、メイド服じゃないの」
「そういうことではない。いや、そういうことでもあるにはあるが……」
「どっちなのさ」
意図を得ない雅の言葉に、やれやれといった感じのしぐさをしながら、彼女を見据える成海。その行為が、火に油を注ぐことになる。
「この穴だ。なんでこんなところに空いているのだ。隠す気がないのか? こんな破廉恥なもの着られないぞ」
雅は、その手に持った服のいる箇所を指さす。そこには、大胆に開けられた穴が優雅に踊っている。見せるための穴。母がジャスチャーしたくらいの、こぶし大の空間があった。
「だって、隠す気がないものだからね。大丈夫、大切なところは隠れるよ。そっちのスリットもね」
「ここで住み込みさせてくれることはありがたいが、このようなものを僕が着るわけないからな」
「でも、着ないとどうしようもないでしょ。母さんもそれを求めているし。ほかに服もないよ」
「くっ…………」
いろいろと文句を言う雅だったが、次々に論破されていく。どうにかして、これを着ないで済む道を模索する彼女だったが、そんなものありはしなかった。
「くぅうううう……。わかった。これを着よう。だから、ここから出ていけ」
「ここ俺の部屋なんだけど」
「淑女の行為を除く馬鹿がどこにいるっっっ!」
「あのさ、忘れているかもしれないけど、僕も一応淑女だよ」
雅に背中を押されながら、自らの部屋から追い出される成海。一応文句を言ってみるが、彼女が意固地に断ってくる。
覗いてやろうか。そんな意地悪な考えが頭の中に浮かび始めるが、腕時計を見ると、二十一時を過ぎていることに気が付く。すでにバーのほうは開店しているね、母さんには悪いことしちゃったかな……と思いながら、急いで階段を駆け下りていく。
言い訳をしていいわけ? などとつまらないギャグを考えながら、一瞬だけ振り向き、雅がいるであろう部屋を見る。
その瞳に込められていたのは、仲の良いクラスメイトのグループの中にどこからか悪い虫が飛んできたときに浮かべる、憎悪のある瞳の色に近かった。
ここまで来ていただきありがとうございました。
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