01:見えていないもの
こんにちわ。
よろしくお願いします。
鷺宮成海が、卵焼きを作っている。
あの衝撃的な出来事から一夜明け、ゴシックな時計にいる長針と短針は、6の文字盤のところで、お互いの体をごっつんこしている。
いつもより開店を遅くした代わりに、閉店時間を一時間遅らせたせいで、普段のシフトよりも一時間残業を行った成海は、まだ一時間足りないよという体の悲鳴を無視してキッチンに立っていた。
そこにある机に座ってその光景を眺めていたのだが、いつもとは違う成海の所作を見られて、少しは面白い。いつもは砂糖たっぷりの溶き卵をうまく整形しているのだが、今日に限っては話が違う。まだ目覚めていない細胞をフル活用しているせいか、力加減がまるでなっていなかった。
薄くひかれた卵の膜を菜箸で突き破ってしまい、ガタガタになった表面に再び不細工な形をした布を巻くのだから、それはもう、子供にすら鼻で笑われてしまうようなブロックをしていた。挙句の果てに、脳細胞やシナプスの情報伝達もうまくいっていないのか、火加減を間違えている。黄色からきつね色ほどに仕上がるはずの卵焼きは、黄金色から茶色とぎりぎり食べられなくもない彩をしている。
「うん、味はいいからいいよね」
ただ、砂糖をいっぱい使ったせいで、少し失敗したくらいでは味なんて落ちなかった。そこがまたいやらしい部分でもある。
そんなこんなでいつものように赤色に分類される食べ物を作り終わった成海の後ろで、チーンと、心地よいようなそうでもないような電子音が鳴る。子供だったら鳴らしまくって親から怒られもしただろうが、今の成海にそんな童心はない。
回した覚えはないのにな……と言わんばかりの表情をしながら、電子レンジの扉を開けると、しゅぅうううという音を立てているシュウマイときんぴらごぼうが入っている。それに少し驚いた顔を見せた成海は、あたりをきょろきょろ見回す。
安心して。それはあなたが入れたものよ。
そう口に出しながら念を送るが、それに気が付くことはない。
もちろん、器を持たない私に、ずっと眺められていることにも気が付かない。
始業式から一週間と数日が過ぎ、新入生や後頭部に進学してきた人たちも、ぼちぼちと部活動を決めてきたこの頃、成海の家にもまた、新しい人物が増えていた。
昨日の歓迎会で、常連の人たちや母から吹き込まれた仕事に右往左往する雅は、メモ帳が千切れるのではないかというくらい閉じたり開いたりを繰り返し、スケベおやじたちのセクハラを成敗しながら、この店での自分の立ち位置を確保していた。
とはいえ、雅がここまで一生懸命に仕事するのもはじめだけだろうと、成海はそう思っていた。ゴールデンウイークなどの休みを挟んだら、徐々に自堕落な態度が出てくるはずだと確信していた。
人の不幸を呪うな、成長を願え……と思わなくもなかったが、成海は成海で、自分の場所が奪われそうな危機感を抱いていることも私にはわかっていた。だからこそ、私は自分に向かって何も言えなかった。
成海は臆病で繊細だ。そして、不器用だ。それを隠すために飄々と生きている。だからこそ、成海は気を付けたほうがいい。そう言いたかった。このままでは、本当に取り落としたくないものまでもこぼしてしまう。水をすくうときは、指と指の間や両手をしっかりと引き締めないと救えないんだよ、と。
私がそう祈っている合間にも、成海は着々と弁当の完成を目指している。白米に梅干し。きんぴら、シュウマイ、卵焼き。メインは唐揚げという、幕の内を名乗るには一品だけ足りないお手製弁当が二つ出来上がる。余った食材は、成海の口の中へ。
「起きたかな」
成海が口いっぱいにから揚げをほおばったまま、彼女の鳴動の気配に振り返る。
朝の星座占いの時間になっても、成海以外の誰一人も、この家では目覚めようとしない。先ほどの気配もただの寝返りであり、起きるにはまだ幾ばくかを要する。
そんな彼女に成海は気が付いていて、成海の接近に彼女は気が付かず、ただすやすやと、リビングのソファに寝転がったまま小さな寝息を立てる。
そんなことには気が付くはず成海だけど、少し抜けている部分もあって、察しが良い時と悪い時もある。私の存在に関しては、もちろん察しが悪い。
ここまで読んでいただきありがとうご会いました。
二章までこれてよかったです。
明日もよろしくお願いします。