アイリス☆プロジェクト
共に時間を過ごすようになってみれば、民子は噂に聞くほどの変人ではなく──とはいえ、確かに変人には違いなかったが──細やかな気遣いを見せ、弟子を思いやり、なによりも真剣に、花のことを教えてくれた。どちらかというと物覚えの悪い良樹に対し、フラワールームに取りそろえた花々だけでなく、時には課外授業と称して植物園や公園へと出向き、花のあれこれをレクチャーした。
半月を過ぎるころには、良樹の知識もかなりのものになっていた。
花の姿だけでなく、有名どころの花言葉も暗記し、民子による花試験も見事にクリア。
良樹はもう、良樹ではなかった。
花マスター、クサボケとなっていた。
「というわけで、アイリス──おっと、アイリスの花言葉は、『恋のメッセージ』なんだぜ──をしたためてみた。そろそろ勝負どころだろ。ゴールデンウィークも近いしな」
昼休み、例によって智光と顔をつきあわせて昼食をとりながら、良樹は自慢げに白い封筒を取り出した。
「なかなか良いできよ。ご友人として、読んでみていただけないかしら。きっと文才に驚かされるわ」
なぜか、あたりまえのような顔をして、良樹と智光の机の隣に、特別仕様の大きなテーブル。三年生であるにもかかわらず、ごく平然と、民子も食事風景に混ざっていた。
今日が初めてのことではない。良樹が彼女の弟子となってからは、こうして昼も出没するようになった。智光も、他のクラスの面々も、一年の教室にピンク色の頭が見えたところで、もはや驚かない。
白い封筒には、薔薇のシールが貼ってあった。表には、笹木佐恵さま、と丁寧な文字。
箸を口のなかに入れたまま、智光が呆れたように肩をすくめる。逡巡するような間を挟み、ため息を吐き出した。
「正直さ、最初はこいつバカなんじゃねーのとか思ったりもしたけど、ここまでくると尊敬するわ。すぐ告白して、残りの日々を好きな子と一緒に過ごしたいとか思うだろ、ふつう。おまえってさ、なんか未来見据えてるよな」
「バカだと思ってたのか」
「いまでも思ってるけどな」
さらりと肯定されたが、良樹は気分を害することはなかった。親愛なる友人の、「未来を見据えている」という発言に気をよくしていたのだ。
それだけ、良樹は本気だった。
たとえ頑張る方向がズレているとかオカシイとかいわれようとも──事実、心ある数人の友人らにそう指摘されたわけだが──それでも、やれることをやれるだけ、精一杯やったという自負があったのだ。
ゴールデンウィークまで、あと一週間もなかった。
勝負どころだ。
「で、いよいよ告白か。その、ラブレター、で?」
「このアイリスで、だ」
智光はそれ以上つっこまなかった。良樹が得意げに封筒を押しつけるので、面倒くさそうに眉を寄せながらも、箸を置いてそれを受け取る。
弟子の卒業試験かなにかのつもりなのか、民子も悠然と見守っている。
咳払いをひとつして、智光は、ご丁寧に薔薇のフレグランスまでしこまれた便せんを、そっと取り出した。
笹木佐恵さま
突然のアイリスをお許しください。
僕は隣のクラスの吉本良樹、クサボケでありアストランチァです。
僕は決して、ムスリカではありません。けれど、フリージアでデンファレなあなたへのバラがあふれ出しそうで、こうしてアイリスをしたためています。
あなたは僕に、スイートピーを教えてくれました。
あのアガパンサスの瞬間を、僕は忘れません。
僕のカスミソウを、どうか聞いてください。
あなたと、ムラサキツユクサ。
智光は、ごく静かに、ラブレター(アイリス)を置いた。
師匠としての自信なのか、民子が勝ち誇ったような顔をして、良樹が胸を張る。
「言葉もないようね」
「すげえだろ」
「…………なんといえばいいのか」
言葉を濁した。
訪れる沈黙。
絶賛の嵐を期待していた良樹は、予想と違った反応に、首を傾けた。
「もっと褒めろよ」
促す。ひどく難しい顔をしていた智光が、なにかをいおうと口を開き、それから首を振り、黙ってしまった。重苦しいほどの間を挟み、言葉をしぼりだす。
「おまえさあ……いや、ある一点においては、本当に本気で尊敬するけどよ……これは……なんつーか、おまえこのままどこへ行く気だ?」
「決まってんだろ。最終目標は、佐恵さんに告白して、晴れてバカップルだ」
「バカップルになりたいのか」
智光は遠い目をした。不安になってきて、良樹は置かれたラブレターを自ら読み返してみる。何度読んでも完璧だ。これ以上のものはない。ラブレターコンテストでもあれば、最優秀賞に選ばれる自信すらある。師匠である民子にだって、太鼓判を押されたのだ。これで落ちない女はいない、と。
「まあ、ここまで頑張ったおまえに、いまさらやめとけっていうのもな……」
智光は、なにかを諦めたような悟ったような、複雑な顔をした。意味はよくわからなかったが、背中を押してもらったものと解釈し、おうよ、と良樹はうなずく。決戦は、今日の放課後か──チャンスがなければ、明日。手紙と一緒に渡す薔薇も、準備済みだった。
「けどさ、おまえ、どんな結果になっても、自暴自棄になんなよ。方向性とかおかしいけどさ、そうやって突き進んでるおまえは、ちょっとかっこいいと思うぜ」
結果を知っているかのように、智光がそんな言葉を投げてくる。かっこいいとかやめろよ、と冗談めかして返そうとして、良樹は固まった。
見えてしまった。
視界の端に、思ってやまない、愛しい人。
「さささささささ……」
言葉にならない。民子も気づいたのか、あら、と小さくつぶやいた。智光が良樹の視線の先を追って、すげえタイミング、と声を漏らす。
笹木佐恵が、教室のドアの向こうに立っていた。誰かを捜しているのか、それとも待っているのか、周りに他の人物はいない。緊張したような顔で、教室内を伺っている。
「チャンスね、クサボケ。行くならいまだわ」
現れた黒服からナプキンを受け取り、優雅に口元を拭いつつ、民子がきっぱりといった。智光もそれに便乗する。
「もういま渡してこいよ。ちょうど一人だし」
彼は彼なりに、ちゃんと応援してくれているようだ。良樹の胸が、うるさいぐらいに音をたて始める。
遠くから見たことしかなかったのだ。話したことも、もちろん話しかけたことも、一度もない。
それが、いま、窓際にすわる良樹から、数メートルのところにいる。きっと同じ空気を吸っている。彼女の目には自分だってきっと映っている。
肩までの、黒い髪。小さな顔、大きな目。控えめな身長、細い手足。紛れもなく、笹木佐恵だった。それも、良樹の想像ではなく、生きて歩いて言葉を話す、本物の。
良樹の顔が赤くなったり青くなったり白くなったりした。もう呼吸も止まりそうだ。
「……呼んできてやろうか?」
見かねて、智光が立ち上がろうとする。待って、といいたいが、ひどく裏返った音が口から流れ出るだけだ。
良樹は、意を決した。
ここまで努力したのだ。もうタイムリミットまで、それほど余裕が残されていない。いまこの最大のチャンスに、行動を起こすべきだった。
「──行く!」
拳を握りしめて、立ち上がる。
放送部が流している昼放送が、彼を応援しているかのようだった。ムードはないが、テンションだけは上がるアニメソング。右手と右足を同時に出しながら、ほんの少しの距離を行進していく。
笹木佐恵が、良樹を見た。
心臓が止まってしまうかと思ったが、それよりも早く、良樹は急いで声を出した。
「さささささ笹木佐恵さん!」
「吉本くん?」
声を出したのは、同時だった。
良樹の目が飛び出す。背後で智光がガッツポーズを取っているのが、気配でわかる。
「な、なんでしょうか、アガパンサス」
花言葉、『愛しい人』。
良樹にはもう、ものを考える余裕がなかった。手にしたラブレターをいまにも握りつぶしてしまいそうだ。薔薇を持ってくるのを忘れた、と意識の片隅で気づくが、もはやそんなことは問題ではない。憧れの笹木佐恵が、自分の名を知っていた──もうそれだけで、満たされそうになっている自分を胸中で叱咤する。
笹木佐恵は、頬を赤らめた。
瞳をさまよわせ、良樹に顔を近づける。小さな声で、そっと告げた。
「あのね、友田智光くん、呼んでくれるかな」
──刻が、止まった。
良樹の脳内が、空白で埋め尽くされた。
そんなはずはないのに、あらゆる音が消えた。心臓が収縮していく。
もうこの時点で、良樹には、シナリオが完全に見えてしまった。
自分自身の恋の結末が、イヤというほどに。
予想しなかったわけではない。智光にだって忠告されたのだ。あれほどかわいい子なんだから、彼氏がいるかもしれない。そうでなくても、好きなやつがいるかもしれない。自分なんて、入り込む余地などないかもしれない。
けれど──よりによって。
いざ告白というタイミングで、この展開。
ぐるぐると、言葉たちが脳内を走り回る。それでも首を回して、自分でも驚くほどいつもどおりの声で、使命だけはまっとうした。
「智光、笹木さんが呼んでるぞ」
「え、オレ?」
智光が、素っ頓狂な声を出す。隣で、佐恵がいっそう頬を染めるのが見える。
ふらふらと、良樹は自分の席まで戻った。背後で展開されるやりとりなど、見たくもなかった。
「まあ、そんなものよね」
さして感慨のない声でつぶやいて、民子が良樹に一輪の花を差し出した。
白いチューリップ。
花言葉、『失恋』。