クサボケが行く 2
昼間から制服のままで外を歩くというのは、妙な気分だった。
どの学校でも、いまごろは授業をしているはずだ。昼食直後のけだるい授業。いったい何人の生徒が、机に向かってあくびをかみ殺していることだろう。
「センパイって、不良なんですか」
前を行く、一般人とはとうてい思えないピンク色の田中民子に、良樹は思わずそう問いを投げる。良樹とて優等生というわけではないが、それでもサボるという発想はなかなか出てこない。
「不良? まさか。わたくし、自由なの。授業など出なくとも、教師がいいそうなことぐらいぜんぶ知っていてよ」
「自由、スか」
まさかその言葉で片づけられるとは思っていなかった。計り知れないものを感じて、良樹はそれ以上つっこまないことにする。自由万歳だ。
民子がスタスタと先を行くので、これといって意見を述べることもなく、良樹はただついて歩いた。繁華街というわけでもない昼の通りは、時折車が行ったり来たりするだけで、ほとんど人とすれ違わない。表通りまで出ることなく、民家と民家の間の小さな道を、ひたすらに進む。
顔を上げて、民子のうしろ姿を見た。
学校を出てしまえばなおさらに、その姿は異様だった。あまりにも目立っている。
それでも彼女は、恥じることなどなにひとつないとばかりに、背筋を伸ばして歩いていた。
その姿に、良樹は、少なからず感銘を受けていた。生き様を見習おうというのではなく、単純に、尊敬の念を抱く。
十分ほど歩いただろうか。唐突に、民子は立ち止まった。
「さあ、クサボケ。少し休みましょうか」
「え、ここで?」
良樹の口から、ごく素直な驚きがこぼれる。
たとえば、自動販売機があるとか、ベンチがあるとか、公園があるとか、そういう状況ならまだしも、そこは休むためのツールなどなにひとつない、狭い道の途中だった。車道と歩道が分かれてさえいない。対応に困って、どうしたものかと良樹があたりを見る。まさか、民家の壁にもたれて小休憩、とでもいうのだろうか。
しかし、民子には慌てる様子など微塵もなかった。革製らしい茶の鞄から、金色のベルを取り出す。古風な洋食屋に置いてあるような、小さなハンドベルだ。
こともなげに、それを鳴らした。チリンチリン、と上品な音。
とたんに、民家の塀を乗り越えて、黒服の男が二人、飛び出してきた。
「おわ!」
良樹が悲鳴をあげる。悪漢かと思ったのだ。
しかし、黒服の男たちに、敵意の類はないようだった。というよりも、民子や良樹の存在に注意を払っている様子がない。迅速に、一人がホウキのようなもので一帯の掃除をし、もう一人が白い布で地面を磨き上げる。さらにもう一人が現れて、ローソファのマット部分をどかんと設置すると、最初の二人がその上に上等な布をセッティングした。時間にして、ほんの一分弱。そうして三人は、また塀の向こうへと姿を消した。
まさか、この家の住人というわけではないだろう。民子のベルでやってきたということは、こういう事態のために、常にスタンバイしているということだ。
「い、いまのは……?」
良樹の目が、文字通り点になる。民子は、それがごくあたりまえのことであるかのように、裾の広がった改造スカートに手をあてて、優雅に即席ソファに腰をおろした。
「あら、すわらないの?」
促されてしまう。なにを驚いているのか、まるでわからないという顔。
良樹は、疑問のようなものを口にしようとしたが、やはりあきらめた。返答がだいたい予想できてしまったからだ。住む世界が違う。しかしどうしてもすわる気にはならなかったので、ありがたいお誘いは丁重にお断りした。
「ねえ、クサボケ。学校を出てからここまでに、どんな花を見たか、覚えていて?」
即席ソファの上で優雅に足を組んで、民子はふわりと問いかけてきた。道路の脇であるというのに、まるで民子の周りだけ高級な場所に変わってしまったかのような錯覚に陥りながらも、良樹は質問に答えた。自信を持って、一言。
「タンポポ」
間違いなかった。アスファルトの隙間から顔を出しているのを見たのだ。
そのとおりね、素晴らしくてよ──予想した返答はなく、民子は表情を変えずに黙っている。良樹は、不安になってきた。それでも、じりじりと待つ。
「……それだけ?」
きょとんとして、民子がつぶやく。どうやら、続きを待っていたようだ。
期待を裏切るもうしわけなさを感じつつも、良樹は深くうなずいた。
「残念ながら」
「まさか! あなたの目は節穴なの? 世界はこれだけたくさんの花々に溢れているというのに! なにもマイナーな花の名をいえとはいってなくてよ。水仙やユキヤナギ……そうでなくても、チューリップぐらいなら、ご存じでしょう?」
「え、チューリップとか咲いてました?」
思わずそう尋ねると、民子は大仰に首を左右に振って、頭を抱えた。良樹は謝らなければならないような気になったが、実際にはゴメンナサイというのもおかしな話だ。せめて思い出そうと、ここまでの道のりを脳裏に描くが、どうしてもタンポポ以外の花は思い出せなかった。
見た、のかもしれない。民子があったというのだから、道中にそれらがあったのは本当なのだろう。しかし、注意を払っていなかったのだ。花博士になりたい、などといいながら。
ひどく恥ずかしい気持ちになった。同時に、自分に対して怒りが沸き起こった。
この程度のものだったのかと、苛立つ。花のことを知りたいと思う気持ちに、嘘偽りなどなかったはずなのに。
「──センパイ、俺……」
反省と、新たな決意を口にしようとする。
民子が目を見開いた。どこからともなく──一瞬黒服の男が現れたのだが、良樹には認識できないほどの早さだった──ピンク色の花を取り出すと、それを良樹に投げつけた。
「シャクナゲ!」
鬼気迫る声で、叫ぶ。良樹には、それがおそらく花の名なのだろうということしかわからない。
しかし、行動には結びつかなかった。すぐに耳をつんざくクラクションが響いた。
「っぶねーだろ、高校生!」
ブレーキ音と、続く怒声。良樹の手にした学生鞄すれすれのところで、青いコンパクトカーが止まっていた。
即席ソファの前に立つ良樹は、必然的に道のど真ん中に位置していたのだ。花を覚えていなかったショックで、車が来たことにも気づかなかった。
低姿勢でひたすらに謝って、すみやかに壁に寄る。若いドライバーはなおもブツブツと悪態を漏らしていたが、結局そのまま走り去っていった。
「だから、シャクナゲを投げたのに。好意は素直に受けるものよ」
不機嫌な顔で、民子がいう。もはや、先ほどのショックを引きずればいいのか、怒ればいいのか、決意し直せばいいのか、呆れればいいのか、取るべきスタンスは霧の中だ。調べずとも察しはついたが、とりあえず、良樹は『ポケット花言葉図鑑』を引いた。
シャクナゲ。花言葉、『注意せよ』『危険』。
「口でいってもらえませんか」
無駄と知りつつ、一応いってみる。
民子は高圧的な表情で、ふん、と鼻を鳴らした。
「勉強不足ね」
そうか、ならばしかたない──己のふがいなさに打ちのめされていた良樹は、彼女の言葉に深く納得した。
決めたのも、行動するのも、自分自身だ。
ならば、やるしかない。
車にぶつかりそうな危機的状況で、シャクナゲを投げられれば、すぐに危険を察知できるぐらいの高みに、到達してみせる。
「俺、頑張ります!」
決意も新たに、良樹は拳を握りしめた。