カトレアに弟子入り
「たのもー!」
八丁高校、東棟の三階。音楽室、視聴覚室、図書室、それらもろもろを飛び越えた一番奥の、プレートに「花」とだけ書かれた、赤いドア。
ただ一人、校内のとある有名人を除いて、だれもが敬遠するそのドアを、吉本良樹は勢い良く開けた。
そこにためらいはなかった。彼には、とてつもなく大きな野望があった。こんな序盤でつまずいている場合ではない。ただし、開け放った瞬間に襲いかかってきた強烈な香りには、少々くじけそうになったが。
ドアの向こう側は、まるで教室ではないかのようだった。
色とりどりの花々が、ところ狭しと並んでいる。実際、教室では足りないといわんばかりに、壁や天井にまで棚らしきものが増設され、そこらじゅうに鉢植えやら花瓶やらが置かれていた。
教室だと思わせるものは、一切なかった。普通ならあるはずの、机も椅子も、黒板すら。
その代わり、中央にぽつんと、白いベンチ。
良樹に背を向ける格好で、どうやら花々を眺めていたらしいうしろ姿があった。ドアの開いた音も、先の良樹の叫び声も聞こえていただろうが、驚いた気配は微塵もない。時間をかけて、随分ゆっくりと振り返る。
良樹は息を飲んだ。彼女こそ、彼が弟子入りを志願する、八丁高校一の有名人に違いなかった。
「は、はじめまして、一年A組、吉本良樹です! あの……三年の、田中民子センパイ、ッスか?」
緊張する心臓を押さえようと胸元を掴むようにしながら、上ずる声で問いを投げる。
本当なら、聞くまでもなかった。彼女のその姿はあまりにも有名で、ただそこにいるだけで、本人に間違いないということをこれでもかと示していた。
校則違反ど真ん中の、ピンク色に染められた長い髪。もはや改造制服と呼ぶこともためらわれる、リボンとレースで飾り立てられたセーラー服。生徒が皆、学年別に色分けされたスリッパを履くなか、彼女だけは黒い革靴を履きこなしている。
八丁高校に通うもののみならず、近隣のものならだれもが知る、有名人。田中民子、その人だった。
「違ってよ」
しかし、民子は一言、否定を口にした。座ったままの状態で顎を上げると、良樹を見下すような目をして、一瞥。そのまま視線を戻してしまう。
必然的に、良樹からはうしろ姿しか見えなくなってしまった。まっすぐに伸びた背筋。思わず自らの姿勢も気にしつつ、良樹は開けたままだったドアを閉めた。わざとらしく咳払いをし、失礼しまス、と前置きをして、民子の前に回りこむ。
「実は、田中民子センパイにお願いがあって、来ました」
否定されたことなどスルーした。
民子は不快そうに、目を細める。じろじろと良樹を眺めて、まっすぐなピンクの髪をうしろに払った。
「興味本位、というわけではなさそうね。けれどわたくしの名は、他にあるの。民子、などと、幼名で呼ばないでいただけるかしら」
「あ、スンマセン、知らなかったんで」
日本にまだそんな文化が、と思いつつも、良樹は腰を折り曲げて非礼を詫びる。その様子に気を良くしたのか、良くてよ、と民子は微笑んだ。
「顔を上げなさい、クサボケ。正直に謝ることのできる殿方を、わたくし嫌いではないわ。わたくしのことは、カトレアとお呼びになって」
良樹の脳が、一瞬停止した。
優しい声で告げられた言葉の意味を考えようとするが、疑問符ばかりが脳を侵食していく。
クサボケ。間違いない、クサボケと呼ばれた。もしかしたら、喧嘩を売られているのだろうか。
それに、カトレア。カトレアと呼べと。カトレアというのは聞いたことがあるような気がして、細かいことはとりあえず置いておいて、記憶を掘り起こそうとする。
良樹は目を見開いた。脳に閃光が走った。
「あの、細長いシュークリームみたいなのに、チョコのかかった……」
「それはエクレア」
ぴしり、と突っ込まれた。
「惜しい」
ような気がして、うめく。
「あなた、その程度のことも知らないで、どうしてこのフラワールームの扉を開けられて? わたくし、呆れてものもいえないわ」
民子は大げさなしぐさで首を左右に振り、ため息を吐き出した。さすがに、ものいえてるじゃん、とつっこむ空気ではない気がして、スンマセンと良樹は謝る。民子が立ち上がったので、場所を空けた。数歩下がって、彼女の行動を見守る。
立ち姿だとなおさら、恐ろしいほどに民子の姿勢はまっすぐで、まるで足先から頭まで一本の棒が通っているかのようだった。決して急くことのない挙動、ほんの少しの動作までが洗練されていて、良樹は思わず見とれてしまう。
民子は、『花と暮らしとインテリア』がキャッチフレーズの、全国各地に店舗を持つ企業グループ、タミタミコの社長令嬢であり、正真正銘のお嬢様だった。それがなぜ地元の公立高校へ来ているのかといえば、武者修行ということらしいのだが、わが道を行く外見を見るだけでも、修行とやらが成功しているとは思えない。
「これよ」
長く白い指が、一輪の花に触れた。
良樹ははっとして、意識を現実に引き戻す。彼女の弟子として認めてもらうまでは、一瞬の気のゆるみも許されないはずだった。両手で頬を叩くと、民子の手にある、白とピンクの花を見る。
「それが、なにか」
「カトレア。花言葉は、『優美な貴婦人』。まさにわたくしにふさわしいでしょう?」
その花は、確かに美しかった。色合いや造形もだが、これだけの花々の中にあってなお埋もれていない、その存在感。民子にふさわしいといわれればそのとおりだという気がして、良樹は深くうなずく。
「ということは、クサボケっていうのも、クサいボケナスという意味ではないんですね?」
そう解釈してこっそり傷ついていたので、聞いてみた。民子はにこりともせず、カトレアよりもずいぶん下の位置で咲き誇る、小さな赤い花を指す。草、というより小さな木のようだ。
「これよ。花言葉は、『平凡』」
それは丸みを帯びた、確かにこれといって目立った点のない花だった。平凡、と言葉だけ突きつけられたのではあまり良い気もしないが、この花のようだといわれているのならば褒め言葉に聞こえるものだと、良樹は不思議な気持ちでクサボケを見やる。
愛着がわいた。かわいい。
「光栄です。でも、これだけかわいい花だと、俺よりむしろ民子センパイの──」
「カトレア」
「──カトレアセンパイの方が、似合ってます。つーか俺、そもそも花とか似合わないし」
「あらそう」
すっと民子が目を細めるのを見て、良樹は己のミスに気づいた。単純に褒め言葉、というよりなにも考えていない一言だったわけだが、これではまるで民子のことを平凡だといっているようではないか。
しかし、民子は気分を害した様子ではなかった。微笑むように瞳を伏せ、ほんの少し頬を赤らめる。
「なかなか気の利いた告白ね」
意味がわからず、良樹は眉根を寄せる。助けを求めるように、クサボケに視線を投げた。ヘルプ。
プランターに白いプレートが突き刺さっているのに気づき、腰をかがめて読んでみる。
クサボケ──花言葉『平凡』『一目惚れ』。
「いやいやいや、違いますよ? そんな手の込んだ告白しませんよ、花言葉なんていま初めて知ったっつーの! ──いや待て、これはあれですか、まさか、カトレアセンパイが俺に一目惚れしたっていう、遠回しな愛の告白……?」
「あなた馬鹿なのね」
民子は鼻で笑った。良樹の胸に、鋭い刃が突き刺さる。
「あなたのどこに、一目惚れする要素があって? 見た目も平凡、口を開いても平凡、マナーに至っては平凡以下。頭が良さそうにも、運動が得意そうにも見えないし、これといって特技があるというわけでも……」
「あの、もうそのへんで」
丁重に打ち切りを願い出た。的はずれならまだしも、なにもかも当たっている。
しかし、だからこそ、ここに来たのだ。決意も新たに、瞳の奥に炎をたぎらせ、良樹は民子の両手を取った。
「センパイ!」
良樹はまっすぐに、民子の目を見た。民子のピンク色の瞳──カラーコンタクトを入れているのだろう──に、炎をまとった自分の顔が写る。
「実は俺、すでに、恋をしてるんです! 花の好きな素敵な女性に──あ、まちがってもセンパイじゃないですスンマセン──それで、花に詳しくなって、その子に告白しようと思ってます。そんな俺に、花のイロハと花言葉を、教えて欲しいんです! 俺は、愛のため、花博士に、なりたい!」
一息で、野望を告げた。
民子は、目をまたたかせた。ひどくゆっくり、二回。
「……お願い、というのは、それかしら? つまり、愛する人へ告白するにはあまりにも自分が薄っぺらいので、それを補うために、花に詳しくなりたい、と?」
「えっと、そう、です、ざっくりいっちゃえば」
改めてまとめられてしまっては、なんだかものすごく情けなく、かつ不純な動機のような気がして、良樹は尻込みした。心から花を愛している民子にとっては、憤慨すべきことだっただろうかと、だんだんと不安がつのっていく。
しかし、対照的に、民子の瞳はみるみる輝いていった。
良樹の手をはねのけるようにして、両手を握りしめると、花々を見つめて自分の世界に酔いしれる。
「聞いて? 愛のために、あなたがたのことをもっと知りたい、美しさに触れたいと、クサボケがいっていてよ! 花が結ぶ愛! 素敵ではなくて? そういうことならわたくし、あなたをデュランタするわ。バーベナとなって、邁進致しましょう!」
良樹には答えることができなかった。意味がわからない。わからないが、どうやら、彼女の口から飛び出すカタカナ語は花の名前らしいと、いままでの会話から察する。
教室の隅に、一つだけ置かれた白い本棚から、そっと『花言葉大辞典』を抜き出した。
「……えーと、俺を歓迎するから、努力家となって頑張りましょう、ですね?」
「まあ! もう勉強しているのね。素晴らしいわ!」
どんどんヒートアップする民子の姿に一抹の不安を感じる。しかしもう、後戻りするつもりなどない。
残りの日々すべてを捧げる覚悟の良樹は、拳を握りしめて腹の底から叫んだ。
「よろしくお願いします、民子センパイ!」
「カトレア」
「……カトレア、センパイ!」
どうやら、前途多難、ではあったが。