肆 招かれざる客、来たること
小弥太が男と出会って一年程経った。
この頃になると、大人達の話にも黒船の話題が上る事が多くなった。黒船やそれに乗って来た者達の実物は誰も見た事などなく、興味本位の噂程度の話でしかない。
それでも、何時か昨日とは違う明日が訪れるのではないか──という言葉にならぬ予感と不安が、無意識の内にも人々の中に静かに芽生えつつあった。
黒船は、鉄で出来た大きな船だと云う。鉄が水に浮かぶのかと小弥太は思ったが、その一方でそんな事もあるのかも知れぬとも思った。何にしろ、そんな物は永く生きた師匠でも見た事はあるまい。
もしも刀を清めた後でも師匠が生きていたら、一緒に黒船を見てみたい。そう思いながら何時もの様に山へ向かっていた小弥太を、誰かが呼び止めた。
それは旅姿の若い侍であった。この辺りでは見かけない顔だった。身なりから見て、ご城下などのもっと大きな街から来たのだろうと思われた。何処かの武家の次男か三男であろうか、と小弥太は思った。
「この山を越える道を知らぬか」
若侍はそう訊いて来た。
「俺は知らねえ。でも師匠なら知ってるかも」
小弥太は若侍を男の元まで案内する事にした。……それを後々まで後悔するとは、この時の小弥太には知る由も無かった。
男は家の前で薪を割っている最中だった。
「師匠、この人が山を越える道を教えて欲しいって」
小弥太が若侍を連れて来ると、男は彼をぎろり、と睨んだ。
「何故わざわざ山を越えようとする。里を行けば、街道がある筈だ」
「私は正規の街道を行く訳には行かぬのだ。……出奔した身なのでな」
「……出奔?」
ふと、小弥太は若侍の様子に違和感を覚えた。何かがおかしい。つい先程までは普通だったのに。
「藩や家に縛られておっては、自由に行動が出来ぬ。──先般、黒船が来航し、幕府は奴らの言いなりとなって港を開いた。弱腰の幕府のお陰で、異人共は我が物顔で神州を闊歩しておる。私は幕府に代わり、異人共を打ち払うべく出奔したのだ」
……何がおかしいのか、やっと判った。この若侍は、師匠と顔を合わせてから、一度も瞬きをしていない。若侍の視線は、ただ一箇所を見ている。
刀だ。
「──だが、それには力が要る」
男の刀をじっと見据えながら、若侍は言った。
「その、刀」
声が上ずっている。
「それを一目見て、判った。その刀は、私に力をくれる。異人共を打ち払える、力を」
力を欲する者、鬱屈を抱える者。そういった者は刀に魅入られる。小弥太は男の言葉を思い出していた。……この若侍は、師匠に会わせてはならない者だった。
「一つ、訊く」
男は対照的に冷静だった。
「お主がやろうとしている事……それは、正しい事か?」
「正しい」
間髪を入れず、若侍は答えた。一つの迷いも無い口調だった。
「そうか。……ならば、この刀を渡す訳には行かぬな」
「何故だ⁉」
にべも無い男の態度に、若侍は詰め寄った。男はそんな若侍に冷ややかな眼差しを向けた。
「諍いと云うものは、大抵は己の正しさを信じて疑わぬ者同士の間で起こるものだ。子供の喧嘩から国同士の戦まで、それは変わらぬ。そこに力を与えれば、火に油を注ぐようなものだ。結果は目に見えておる」
男は突き放すように言った。
「山を越える道なら教えてやる。早々にこの場を去れ」
若侍は。
そこにいた小弥太の体を不意に引き寄せた。脇差を抜き、小弥太に突きつける。
「何すんだ!」
「刀を渡せ。さもなくば、この小童の命は無いぞ」
若侍の眼は血走っていた。小弥太はその手から逃れようともがいたが、びくともしなかった。
男は刀を腰から外し、若侍に手渡すように見せかけ──そのまま横へ投げた。刀は三人から離れた場所に落ちた。
「貴様ッ!」
激昂した若侍が、脇差を振るった。男に向かって斬りつける。肩から腹にかけて、ばっさりと刃が食い込んだ。傷口から血が吹き出す。男はどう、と倒れた。若侍は更に、何度もぐさぐさと男の体を脇差で突き刺し、斬り刻んだ。
小弥太を捕らえている手がわずかに緩んだ。小弥太はその手に思い切り噛み付いた。若侍が怯んだ隙に、手をすり抜ける。小弥太は走った。──刀に向かって。
男が捨てた刀を拾い上げ、しっかりと胸に抱いて逃げ回る。若侍は刀を奪い取ろうと追いかけたが、すばしこい小弥太はなかなか捕まらなかった。
「この小童が……その刀を寄越せ!」
「誰が寄越すか! これは師匠のだ!」
その時。
小弥太の視界の隅で、確かに何かが動いた。
若侍もそれに気づいて、そちらに眼をやる。
先程まで血にまみれ、地に伏していたもの。
二人の視線の先で、斬られた筈の男がゆらり、と立ち上がった。
ぱっくりと開いた傷口が、みるみるうちに塞がって行く。斬られ刺された事など無かったように、男の体は元通りになっていた。
「師匠!」
小弥太は急いで刀を持って男の元へ走った。
「師匠、これを!」
男は刀を受け取ると、すらりと抜き放った。刀身が陽光を浴びてぎらりと光った。男の視線が若侍を射た。
対照的に、若侍の顔には恐怖がべったりと張り付いていた。若侍の口から、言葉がこぼれ出た。
「……バケモノ……」
恐怖に駆られるように、若侍は脇差を捨て大刀を抜いた。
「うわああああ!」
叫びながら、若侍は男に向かって突進した。二人の姿が交錯する。その刹那、銀色の光が奔った。
若侍はふらふらと二三歩歩いた後、その場に倒れた。胴を一文字に斬り割かれていた。しばらくびくびくと痙攣していたが、直にその眼から光が消えた。
「バケモノ、か。……永らく聞かなんだ言葉だな」
バケモノ。それは、男のこれまでの人生に度々付いて回った言葉だった。齢を取らぬと知られた時も、郷を出た時も、数多の者達を斬った時も。
ある時は怯えの表情で、ある時は恨みがましく、またある時は石や棒持て追われながら。常に男の背には、この言葉が投げかけられていた。
──化物、と。