弐 小弥太、男を師と仰ぐこと
翌朝。
目を覚ました小弥太は、男がいないのに気づいた。何処へ行ったのかと外へ出てみると、小屋の表には山を下る道、裏手には上りの細い道がある。
少し迷った末、小弥太は上りの道を選んだ。しばらく登ると、水の流れる音が聞こえて来た。音のする方に向かって進んでみる。道を少し外れた所に、小さな川が流れていた。
川のほとりは少し開けた河原になっていた。そこに、一人男が佇んでいた。声をかけようとして、小弥太は思いとどまった。邪魔をしてはいけない。そう感じた。
男は川で身を清めたようだった。蓬髪から水が滴った。
と。
すらり、と男が刀を抜いた。
刀身が朝日を反射し、光った。
小弥太はその輝きに目を奪われた。
男は。
抜いたその白刃で、空を斬った。何もないその空間が、一瞬すっぱりと斬れたように思えた。
上段から、下段から、斬り下ろし、斬り上げ、また横に薙ぐ。小弥太には剣の事など判りはしなかったが、男の動きは剛健にして力強かった。
──美しい。
そう感じた。
じっと見ていると、輝く刀身から、ゆらり、と黒い靄のようなものが立ち昇るのが見えたような気がした。
その時。男が不意に動きを止めた。鋭い眼で小弥太の方を見る。小弥太は思わず身をすくめた。
「童か」
男は刀を鞘に納めた。
「足はもういいのか?」
男に言われ、小弥太は足の痛みが引いている事に気づいた。
「歩けるのなら、里に戻れ。小屋の方に、山を下る道がある。そこを行けばすぐに戻れる」
「……ありがとう」
小弥太はやっとの思いで言葉を口にした。
「礼などいい。早く行け、童」
「童じゃねえよ。……小弥太だ」
厳つい見てくれに見えるが、この男はどうやら人であるようだ。一度そう思えると、言い返す事も出来た。
男は小弥太の事など最早興味を失ったかのように、眼をそらした。小弥太は男に背を向け、里に向かって降りて行った。
一晩帰って来なかった事で、母には泣かれ父には拳骨を食らったが、小弥太は何故か平気だった。
数日後、小弥太は再び男の元を訪れた。
「何をしに来た」
男は無愛想に言葉を投げかけた。
「俺に剣を教えてくれ」
小弥太はそう言った。
「百姓が剣を学んでどうする」
「この前、あんたが剣を鍛錬しているのを見たんだ。何て言うか……凄く、強くて綺麗だと思った。俺もあんな風になりてえと思った」
「……美しい、か。所詮は人を殺める術でしかないぞ」
男は刀を抜いた。良く手入れされた刀身が顕になる。
「おまえが魅せられたのは、恐らくはこれだ。これは魔性のもの──人を惑わすものだからな」
優美さと鋭さ、美しさを兼ね備えたそれは、しかし確かに人を殺める為の刃に他ならなかった。
「違うよ」
だがきっぱりと、小弥太は言った。
「刀も綺麗だったけど……俺はその刀を使うあんたが凄いと思ったんだ。だから、あんたの弟子になりてえ」
まっすぐに、小弥太は男を見つめた。そのまましばらく、沈黙が流れた。
「……好きにしろ」
折れたのは、男の方だった。小弥太の顔がぱっと明るくなった。
「やった! よろしくお願いします、……えーっと、あんた、何て名前だ?」
その時になって初めて、小弥太は男の名前も知らない事に気づいた。出会ってから、一度も名乗られてはいない。
「名などない」
男はそう答えた。
「今の儂には、名など意味を為さぬ。好きに呼べ」
「そうか。……じゃあ、“師匠”だ。あんたは俺の師匠だから、師匠って呼ぶ」
それから小弥太は度々男の元を訪れるようになった。
剣を教わると言うが、そう言っているのは小弥太だけで、特に剣の持ち方だの型だのを教えられているわけではない。ただ男の真似をして、木刀に見立てた木の枝を振り回しているだけだ。親兄弟も村の者も、あるいは師匠と呼ばれている男本人でさえも、ただの遊びの延長だと見ているようだった。
小弥太にまとわり付かれながら、男は淡々と己の生活を続けていた。山の木を切って薪とし、川の水を汲む。時には山で採った山菜や木の実、罠を仕掛けて捕らえた兎などを里の市に出して、わずかな米や野菜と交換する。
その合間に、黙々と剣の鍛錬を続ける。山の空気の中で刀を振るうと、やはり刀からはあの黒い靄のようなものが立ち昇るのが見えた。それが小弥太の眼だけに見えるものなのかは判らない。男は何も語ろうとはしなかった。
思えば、この男が何時からここに住み着いているのか、小弥太は知らなかった。村の者達も良く知らないようだった。何時の間にかふらりと現れ、山にいた。
素性も判らぬ者ではあるが、たまに力仕事を手伝うこともあり、小弥太も助けられたことから、どうやら悪い者ではないようだ──と村人からは思われていた。