お迎えに上がりました、花嫁どの
2月の夜風が、生暖かく吹いた
大型犬より少し大きめの体にしなやかな筋肉
黒く艶のある毛をなびかせ、ルビー色の瞳をこちらに向ける獣が
自分を見つめたまま、低いうなり声を上げるのを
一瞬で動けなくなった体でただ見つめていた
(ヤバイ、噛み殺される!犬⁈より大きいなんか黒いのに)
なぜそうなったのか
いつもと同じ帰り道、明日の会議の資料作りに少し手間取り時間は遅くなったが、これといって特別な変化はなかった
近道の公園は、街灯が少なく薄暗かったし
夜9時を過ぎると人通りもほぼない
そんな道を毎夜帰るうちに
女性と区分される自分が30歳を目前に逞しくなってきたのは認め始めていた
でも電車を降りて家まで10分の道のりで、足がすくむ体験をするとは思わなかった
(彼氏いない歴29年、記録更新したまま死にたくない)
一歩後ろに下がろうにも、まるで地面に吸い付かれたように動かない両足にやっと目を向けたその瞬間
「主の名を教えてください。」
唸り声の後の静寂を破るように、自分の耳へ届いたのは、確かにその獣が発した言葉だった
(は?恐怖って想像で獣から言葉が聞こえたりするの?もう既に自分がパニクり過ぎて脳が何かのホルモン分泌?これはいよいよ死の恐怖からの逃避行⁈)
考えていることが支離滅裂な私へ一歩、歩みを進めた獣から自分も一歩後ずさろうとしたが、やはり動いてはくれない足のせいで
その場に尻から崩れ落ちた
止まる事なく近づいてくる獣が更に問う声が
かすかに揺れる葉音と共に響いた
「主の名を教えてください。」
(もうダメだ、今更足が動いてももう間に合わない)
諦めが頭を過ると、恐怖からか彼氏ができなかったまま死ぬ事への悔しさか
俯いた両目から涙が滲んだ
獣の息が額にかかると、涙が落ちる手の甲を見たのを最後に思い切り目を閉じた
(お父さん お母さん、ふつつかな娘でしたが
今まで育てて頂いてありがとうございました
花嫁姿を見せられず旅立つ不幸、どうぞお許しください)
頭の中で両親への別れの言葉と、今までの思い出が走馬灯のように流れていくのをぼんやりと感じていると
〝ぺろっ〟と頬に生暖かく濡れた感触が触れた
「ヒィィヤァァ!」
闇に響くどこから出たのかわからない声が
自分の悲鳴だったと実感したのは
目の前の獣が震えながらその場に伏せているのが見えたからだった
「すみません、主が泣いていたようなので
慰めようと舐めてしまいました
どうぞお許しください」
さっきの悲鳴のせいか、ほぼ開き直りで冷静になってくると
喋る獣の言葉を急激に理解しようとし始めていた
「あ、主って何ですか?ひ、ひ、人違いだと思うし、これは現実ですか⁈」
我ながらよく噛むなぁと感心しつつも、なんとか言いたいことが声として出た事へ
ホッとしている自分もいた
私の言葉が聞こえると、伏せていた獣が耳をピクピク動かし頭を上げた
またルビー色の瞳と目が合ったが、最初の時より恐怖は薄れていたのか、毛の艶を目の端で捉えながら
獣からの返答を待てるまでになっていた
「あなたは確かに私の主です、そしてここは主が住む世界の現実です」
少しややこしい言い回しの返答に、疑問符が湧いて出た
「私が住む世界の現実ってどういう事ですか、あなたの住む世界とは違うってこと⁈」
どもりはしなかったが、敬語の後のタメ口が動揺を表しているのは間違いない