伸びる影
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──伸びる影
トールベルク郊外の村。
そこにいた住民たちは全ていなくなっていた。
突如として野盗のような集団の襲撃を受けた村では、村人が逃げ去り、代わりにその野盗のような集団が居着いていた。
野盗というが、彼らは簡素な武装をしているだけで、力を誇示するような恰好はしていない。一見すれば元から住んでいた村人にすら見え、村は表向きは平和な光景を映し出していた。
だが、よくよく見れば、そこに居着いた新しい住民の目が酷く濁っているのが分かっただろう。違法ポーション──ネッビア中毒者の初期症状である。彼らはネッビアの中毒者たちなのである。
そのネッビアを製造しているのもこの村だった。
村の家屋の地下に錬金釜が置かれ、そこでネッビアが生成されている。ネッビアの材料となる麻薬成分を含んだ薬草もこの村で栽培されており、村はネッビア製造の拠点として利用されていた。
「ここでのネッビア製造過程の運用は順調です、ボニファティウス様」
村の集会場の中でそう告げるのは、ヘニング・ハイゼンベルクだ。当局による拘束を逃れたガルゼッリ・ファミリーの雇われ錬金術師が、今は新しい主に仕えて、人々の心身をむしばむ毒薬の製造を指揮していた。
「結構だ、ヘニング君。君にも神による救済があるだろう」
ヘニングの仕える主とは、あのガルゼッリ・ファミリーの拠点で“取引”というものを行っていた老人。ボニファティウスだ。
ボニファティウスは集会場の中央に胡坐をかき、その傍らにはペルガモンと呼ばれた女性が控えている。広い集会場の中には何もなく、ただボニファティウス、ペルガモン、ヘニング、そしてエリスの4人がいるだけだった。
「その、救済というのはどのようなものなのでしょうか……?」
ヘニングがこの新しい主に仕えることになった過程は少し事情がある。
ヘニングはあの時、空間転移魔術でガルゼッリ・ファミリーの拠点を脱出し、当局の手が及んでいないガルゼッリ・ファミリーの隠れ家に転移したのだが、そこにも既に灰狼騎士団の手が及ぼうとしていた。
そこを助けたのがボニファティウスだった。
彼はヘニングに“救済”を申し出、逃げることに必死なヘニングはそれを受け入れた。そしてボニファティウスの空間転移魔術によって、更に遠くに位置するボニファティウスたちの拠点へと逃れたのだった。
空間転移魔術は座標の細かな指定が必要になる。ほぼ事前に登録しておかなければ、空間転移は失敗に終わる。失敗に終わった空間転移魔術の結果は概ね死である。迂闊なことはできない。
ヘニングが登録していた座標はほぼ灰狼騎士団の手で制圧され、あの場面ではボニファティウスの手を借りなければ、彼は安全地帯に逃れることはできなかった。
「救済だ。理想郷に君は迎え入れられる。もう何人も君を追いかけることはない。全ての罪は許され、理想郷で穏やかに暮らすことができるのだ」
「その理想郷というのはこのような拠点のことでしょうか?」
「違うよ、ヘニング君。この拠点は理想郷を実現するための足掛かりにすぎない。真の理想郷は幸福で満たされた世界だ。人々は苦難から解放され、罪は許され、もはや争いというものは過去のものになる。そのような世界のことだ」
「そ、そうなのですか」
実際のところ、ヘニングはこの老人を信頼しかねていた。ある意味では金が稼げればそれでいいという前の雇い主──ガイウス・ガルゼッリの方が分かりやすくて、やりやすかった。この老人は何を目的とし、何のために行動しているのか分からない。
「今はただ理想郷の実現のために働きたまえ。いずれは救済される。その体も、心も、魂すらも。穏やかな世界でくらしていくことができるのだ」
「はっ。では、ネッビアの生産拡大に勤しみます」
ボニファティウスが告げるのに、ヘニングが頭を下げて退出した。
「ペルガモン。教えてくれないか。我々はどれほど理想郷に近づいた?」
「まだまだです。どうにかして“アレクサンドリア”の権限を掌握しなければなりません。そのための中枢フレームがこの付近にあるはずなのですが、戦争の影響でアレクサンドリアは何度か移転しました。探すのは一筋縄ではいかないでしょう」
ボニファティウスが尋ね、ペルガモンが些か奇妙なことを告げる。
「だが、確実に理想郷に近づいているのだな」
「その通りです。理想郷は近づいています」
彼らはそう告げ合うと沈黙し、ボニファティウスは瞳を閉じた。
「アレクサンドリア。彼女さえ掌握できれば、全ては理想郷に近づくのです」
ペルガモンは静かにそう告げ、ただ微笑んだ。
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