動く影
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──動く影
エデンの民の信者たちはトールベルクの街近郊に潜んでいたそれが、ほぼヴァルトハウゼン村の周囲に移動を完了した。彼らは森の中に潜み、号令が発されるのを今か今かを待ち望んでいる。号令が発されれば、数千の信者たちがヴァルトハウゼン村を強襲して、“大図書館”を制圧しに動く。
その様子をヘニング・ハイゼンベルクは眺めていた。
「頭のおかしい連中だ。ヴァルトハウゼン村なんて田舎村に何があるというのだ。大人しくトールベルクの街近郊でネッビアを製造していれば、普通にいくらでも金が稼げたというのに……」
ヘニングはこの事態に賛同してはいなかった。
もちろん、この小心者には表立ってそれを宣言する勇気はない。ただ、周囲の様子を窺い、消極的にこの事態に関与しているだけである。
「だが、ヴァルトハウゼン村にはあの忌々しいエステル・アンファングとあの異国の軍人がいる。あの連中だけは絶対に許してなるものか。この私のプライドを踏みにじってくれてからに……!」
ここまで来てなおもヘニングがエデンの民から抜け出さないのは、ひとえにエデンの民が彼のために復讐の機会を回してくれるかもしれないからだった。
帝国錬金術学校でも主席の座をヘニングから奪い、ガルゼッリ・ファミリーのネッビアの製造拠点を潰してくれた女──エステル・アンファング。そして、突如としてエステルと共に現れ、ガルゼッリ・ファミリーを瓦解させた異国の軍人。
そいつらだけは許してなるものか。ヘニングは心に固く誓っていた。
自分はエステル・アンファングなどより優れた錬金術師だ。そのことは間違いない。だが、あの女は何かしらの不正を働いて、主席の座を奪い去ったのだ。本来は自分こそが偉大なる大天才として讃えられるべきだったというのに……!
憎悪がヘニングの内部で渦巻いていた。
何としてもエステル・アンファングを殺し、あの異国の軍人も殺す。そのために今日は特別に手配したものがあるのだ。
「さあ、我が子たち。フラスコの中の小人よ。これを使いなさい」
ヘニングがそう告げて見渡すのは、あのエリスにそっくりの子供たちだった。
ヘニングはこれをホムンクルスと呼び、自分で開発したと告げた。
だが、それは彼の思いこみがそう思わせただけだ。実際にはヘニングは過去の遺跡から人類に万が一のことがあった場合に備えて製造されていた戦闘用シーディング素体を取り出しただけだ。
エリスに何も教えなくとも魔術が使えたように、この戦闘用シーディング素体もまた何も教えずとも高度な魔術を行使する。
であるからにして、ヘニングはこれまで右腕のように使っていたエリスがいなくなっても、気にしてはいなかった。代わりはいくらでもいるのだ。稼働していた遺跡から取り出して育てた戦闘用シーディング素体30体が。
「これは?」
「爆裂ポーションだ。これを使って敵の陣形を崩しなさい。君たちならばうまく使えるでしょう」
爆裂ポーションを使わせるのに戦闘用シーディング素体ほど優れた存在はない。彼女らは間違って腕が吹き飛ばされても痛みを感じない。その攻撃を止めるには、その心臓を握りつぶすか、ヘニングが死亡しなければならない。
ヘニングが死亡するか、連絡不通になれば、戦闘用シーディング素体は同じ人類の中で所有者を探し始める。だからこそ、エリスはああもあっさりとヒビキに所有者を変更したのである。
「さあ、この手であの忌々しいエステル・アンファングと異国の軍人を葬り去ってやるのです。今日こそ我が復讐が成就すべき時。待っていなさい、エステル・アンファング! あのあばずれめ!」
ヘニングはそう宣言すると、視線をヴァルトハウゼン村の方向に向ける。
今、エデンの民の多くの信者たちがそうしているようにヴァルトハウゼン村に貪るような視線を向けて、攻撃のタイミングを今か今かと待ちわびる。
そして、空に火の玉が打ち上げられた。
パアンという炸裂音がそれに続き、ヴァルトハウゼン村付近の薄暗い夜明け前の空が明々と照らされる。
「今です! 攻撃です! さあ、行くのです、我が子たちよ!」
そして、ヘニングを含めたエデンの民の信者たちが動き出す。
エデンの民の目標、“大図書館”。ヘニング・ハイゼンベルクの目標、エステル・アンファングとヒビキ。
それぞれの思惑が絡み合いながら、エデンの民によるヴァルトハウゼン村襲撃が始まった──!
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