第3話 それでも行くしかない
「世論が望むというのなら、海相としても日本海軍の、艦隊の欧州の本格派遣を検討しましょう」
1916年1月での帝国議会の野党議員の質問に対する斎藤實海相の答弁が、日本海軍が遣欧艦隊を編成する直接的な発端となった。
1915年8月5日に行われた日本海兵隊を主力とするガリポリ半島への第二次上陸作戦は大成功を収めることに成功していたが、既にガリポリ半島上陸作戦によってトルコを崩壊させるという第一目的からすれば、時機を失したものになっていた。
一時的には、ガリポリ半島の大半を制圧するという戦果を挙げたものの、その後のブルガリアの参戦、セルビアの崩壊と言った側面事情もあり、最終的にはガリポリ半島から連合国軍は撤退し、サロニカへ主力は転進することになったのである。
そういった状況の変化に伴い、1915年11月から12月に掛けて日本海兵隊はガリポリ半島から全面的に撤退、更に南仏へと移動することになり、その移動をこの議会答弁時には果たしていた。
なお、言うまでもなく、この第二次ガリポリ半島上陸作戦時に日本海軍航空隊も初陣を見事に飾り、更に日本海兵隊に対する様々な航空支援任務等を完遂している。
だが、その一方で。
日本海兵隊や海軍航空隊に対する輸送船の護衛任務は、英仏海軍が基本的に担っており、当時としては充分なものといえたが、やはり独海軍を主力とする敵潜水艦の跳梁を防げてはいなかった。
中でも問題となったのは、物資のみならず、日本兵を慰安するための日本からの家族の手紙や見舞い品、更にガリポリ半島で戦死等した日本兵の遺骨といったかけがえのないものが載せられた輸送船が何隻も、敵潜水艦の攻撃により沈んだことである。
このことに、日本の世論は、いつの間にかかなり感情的になっていた。
口に出して大声では言わないが。
やはり、英仏海軍は自国を優先しているのではないか、日本海軍が輸送船を護衛していれば。
日本海軍は、世界でも指折りの規模にあり、日清、日露と勝利を収めてきた優秀な海軍だ。
それが、輸送船を護衛していれば、手紙等は無事に届き、遺骨も日本に還れたのではないか。
そういった世論が密やかに広まっていた。
そこに、上記の斎藤海相の帝国議会答弁があったのである。
多くの新聞が記事として報じ、また、大規模な日本海軍の艦隊派遣を後押しする社説一色といってよい有様になった。
こういった世論の高まりを受け、日本海軍本体は遣欧艦隊の派遣を決断せざるを得ない有様となった。
とは言え、本音では嫌だ、というのが日本海軍本体の主流だった。
結局、海兵隊出身の斎藤實海相と鈴木貫太郎海軍次官のクビを事実上は差し出すことで、日本海軍本体の不満を何とかなだめることになったのである。
最もそこまで日本海軍本体の不満が高まったのには、もう一つの理由があった。
「海兵隊は日本を亡ぼすつもりか」
「林忠崇は国賊です」
東郷平八郎元帥に、加藤寛治大佐は進言していた。
「対米戦戦備は必要不可欠だ。戦艦を作る必要は無いというのか。林を殺して、海兵隊を解体しろ」
東郷元帥は怒髪天を衝く勢いで怒鳴った。
遣欧艦隊の派遣と簡単に言うが、そもそもそのための駆逐艦が無いのである。
そのために樺型駆逐艦を急きょ16隻建造して(幸か不幸か、仏から12隻の樺型駆逐艦建造の打診もあって、各海軍工廠はそのための準備をしていた)、ということになったのだが。
そんな予算が急に確保できる訳が無い。
そのために建造停止となったのが。
当時の日本海軍の希望の星となっていた戦艦「山城」だった。
米が超ド級戦艦建造に勤しむ中で、日本にとって「山城」は対米戦を考えるならば緊急に建造する必要があったのである。
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