第1話 艦が無い
本編の始まりになります。
時をさかのぼり、第一次世界大戦当時の話をする。
1916年の初めになるまで、日本が第一次世界大戦に参戦していたとはいえ、海軍本体としては欧州に艦隊を派遣すること等、正直に言って想定していなかったと言っても良かった。
この頃、言うまでもなく日本海兵隊はガリポリ上陸作戦に参加して、勇名を世界に轟かせる戦果を挙げることに成功していた。
また、海軍航空隊も欧州に派遣され、海兵隊と同様にガリポリで見事な初陣を飾ることに成功していた。
だが、艦隊を欧州に派遣することについては否定的な意見が、海軍本体内では大勢を占めていた。
後に海軍次官等の顕職を務めた秋山真之海軍少将(この人が海軍大将に昇進できなかったのは、日本海軍七不思議の一つとすら言われる日本海軍の天才)等が、海軍本体も欧州に艦隊を派遣すべきでは、という意見を唱えはしていたが、海軍本体内では少数派の意見に過ぎなかった。
何故にそうなったのか?
理由は極めて簡単で、当時の日本海軍には欧州に派遣するのに適切な軍艦が無かったのである。
まず、この当時、日本海軍の戦艦は、欧米の列強が行いつつある前ド級戦艦からド級戦艦へ、更に超ド級戦艦への更新を慌ててやっている真っ最中と言っても良い有様だった。
日露戦争時の主力戦艦だった敷島型から香取型、薩摩型といった前ド級戦艦を日本海軍は表面上は順調に建造していたが、結果的には世界各国海軍に巻き起こったド級戦艦から超ド級戦艦への移行に乗り遅れることになった。
(それ以外に、筑波型、鞍馬型といった装甲巡洋艦(巡洋戦艦)も、日本海軍は建造してはいる。)
そのために、ド級戦艦(?)の河内型戦艦を急きょ建造したが、日本海軍としては不満が募る代物となる戦艦であり、英国に急きょ「金剛」の建造を依頼し、それを参考にして「比叡」を半輸入戦艦として建造、更に「榛名」、「霧島」を独自に建造して、超ド級戦艦の金剛型(巡洋)戦艦4隻を揃えた。
だが、これでは超ド級戦艦が不足するために、扶桑型戦艦の建造に日本は取り掛かっていたのである。
しかし、これは代償を当然に支払う代物であった。
その代償となったのが、駆逐艦だった。
この当時、いわゆる航洋型駆逐艦が徐々に世界各国で建造されるようになっていたが。
(日露戦争時に既に駆逐艦は存在していたが、この当時の駆逐艦は近海専用と言って良く、いわゆる遠洋に出撃できる航洋型駆逐艦は、まだまだ黎明期にあると言っても過言ではなかった。)
日本の場合、日露戦争に備えて大量の水雷艇、駆逐艦を建造したことや、超ド級戦艦の建造を最優先せざるを得なかったことから、航洋型駆逐艦の建造は後回しになってしまったのである。
とは言え、このまま航洋型駆逐艦を作らないままでは、日本の駆逐艦の旧式化は避けられない。
そうしたことから、当時の日本海軍は、現代で言うところの「ハイ・ローミックス」を採用した。
具体的に言うと一等駆逐艦の海風型と二等駆逐艦の桜型という二種類の駆逐艦を建造することで、航洋型駆逐艦の日本海軍への導入を図ることにしたのである。
とは言え、上述の事情から第一次世界大戦が勃発した当時、日本海軍には海風型駆逐艦が2隻、桜型駆逐艦が2隻しか竣工、保有しておらず、海風型の後継といえる浦風型駆逐艦2隻が英国で建造中というしまらない有様だった。
そうした中で、第一次世界大戦が勃発したことから、日本海軍は背に腹は代えられないとして、桜型駆逐艦の後継、樺型駆逐艦10隻を急きょ建造することにした。
だが、これはあくまでも応急措置である。
日本海軍としては、こんな状況での欧州への艦隊派遣等、真っ平ごめんというのが、多数意見だったのだ。
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