第18話 雑木林の戦いの終わり
いつもの2倍の長さになりました。
このスペイン風邪による日本海軍本体の被害は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
遣欧艦隊のみならず、遣欧艦隊以外の日本海軍本体にも容赦なくスペイン風邪は襲い掛かった。
第一次世界大戦突入前、平時人員は約5万人と謳われていた日本海軍本体は、このスペイン風邪の襲来によって約5千人が戦病死したと公式には発表されている。
これは、ある意味では当然の話で、軍艦と言うのはある意味で隔離された社会である。
一旦、そこにスペイン風邪のような伝染病が入り込むと、その社会全体がその伝染病に襲われるという悲劇が引き起こされてしまうのだ。
だが、最も相対的に大被害を被ったのは遣欧艦隊に他ならなかった。
この1918年当時、地上で支援に当たる人員を含めれば、5000人を超えると謳われていた遣欧艦隊の人員は、バタバタとスペイン風邪にり患して倒れていった。
延べ人員にすれば、約1万人近い人員が遣欧艦隊に所属していたが、その内の約1割に当たる1000人近い犠牲者が、日本本土から欧州への遣欧艦隊派遣から日本本土への帰還までに異郷の地で亡くなってはいる。
だが、その内の約3分の2、600名余りは、スペイン風邪による死者と推定されているのだ。
(推定と書くのは、遣欧艦隊の戦病死者数の公式発表が日本海軍からは為されず、全て戦死者として日本海軍から公表されているからである。
何故かと言うと、この当時、戦死なら相続税免除という特例があったが、戦病死では相続税が掛かるという事情があったからだった。
勇敢に戦って戦死なら、相続税免除という特例があって当然だが、後方での戦病死までそんな特例は認めるべきではない、という世論がこの当時は強かった、という背景がある。)
こうして第一次世界大戦末期まで苦戦を強いられた遣欧艦隊だが、その苦闘が終わるときが終に来る時がようやく来た。
その時、森下少尉は木村中尉と交代した直後で、水中聴音機で敵潜水艦の捜索に取り掛かろうとしていたのだが、いきなり艦内に響き渡った万歳の歓声の声の大きさに肝をつぶした。
何しろ敵潜水艦の僅かな音を聞き逃すまい、と耳をそばだてかけていたところに大歓声である。
文字通り、鼓膜が破れるか、とまで森下少尉は思った。
怒りの余りにヘッドホンを外して、怒鳴り声を挙げかけた森下少尉の下に、木村中尉が飛び込んできて叫んだ。
「戦争が終わったぞ。今、公式の発表があった。(1918年)11月11日午前11時に休戦協定が発効されるとのことだ」
「本当ですか」
森下少尉も喜びの余りに、絶句してしまった。
「ああ、本当だ。日本に生きて還れそうだぞ」
木村中尉は滂沱と言える涙を零しだしながら言った。
森下少尉も、それを見た瞬間に啼泣し出した。
お互いにそれ程、これまでにストレスをため込んでいたのだ。
ようやく戦争が終わった、それだけのことしか、二人の頭の中には浮かばなかった。
遣欧艦隊派遣が決まった当初から遣欧艦隊に所属していた木村中尉はともかくとして、森下少尉にしてもこの1年近くはつらい日々だった。
一生懸命に職務に精励しても、商船護衛の任務は果たせるが、潜水艦撃沈といった戦果は挙がらない。
(なお、第一次世界大戦終結までに、遣欧艦隊は独潜水艦撃沈確実6隻、撃沈不確実8隻、潜水艦損傷公算大4隻の戦果を挙げたと当初は主張していたが、これは100回以上の戦闘(100回以上となるのは、複数の駆逐艦が戦闘に参加したこともあるためで、個々の駆逐艦の戦闘参加数を単純に足すと約200回の戦闘になる)の結果によるものだった。
なお、最も戦闘参加数の少ない駆逐艦でも3回は戦闘に参加しており、最多戦闘数を誇る「樺」に至っては20回の戦闘参加を数えている。
だが、第一次世界大戦終結後に、独海軍の潜水艦の行動と照らし合わせた結果、遣欧艦隊の潜水艦撃沈数は0、損傷が6隻と(英仏海軍も加わった検討の末に)最終的に判定されることになった。
それくらい、この当時の潜水艦は沈めにくかったという表れだが、このことは日本海軍の誇りを大いに傷つけることになった。
第二次世界大戦勃発前に、日本海軍が対潜作戦充実に奔ったのは、この屈辱が根底にある。)
それでも戦わねば、という想いを抱いて奮闘し、戦友がスペイン風邪に倒れていくという悲劇を味わって来たのだ。
その苦労が遂に終わる。
二人が感無量になるのも無理はなかった。
「故郷の日本に還ることになるのですね」
「そうだ。故郷に還れるぞ」
「良かった。でも、還れない人が思われてなりません」
「俺もだ」
二人は、そう言葉を交わして、様々な想いに耽らざるを得なかった。
「樺」がマルタに帰港すると、マルタにいた遣欧艦隊の各艦は、サイレンを鳴らして無事に休戦を迎えられたことを共に祝った。
「樺」もサイレンを鳴らし返して、それに応えた。
この時、休戦協定締結後であり、マルタ島近海で独潜水艦の行動は既にほぼ絶えていたことから、手空き総員は上甲板可、という命令が出ていた。
そのために木村中尉は森下少尉と共に上甲板に上がっていたのだが、いつの間にか馴染んだマルタ島の風景を目にして、もう少ししたら、この景色も見納めになる、そして、多くの戦友が欧州で眠ることになったと思うと、共に涙が出てならなかった。
そして。
木村中尉は田中頼三中尉と、森下少尉は有賀幸作少尉と、休戦の宴を個別にした。
その席では共に戦った連合国軍の戦友、そして故郷に還ることなく欧州で散った海兵同期生を始めとする多くの日本軍人の為に杯が捧げられた。
マルタ島の酒場の多くで、日本海軍の軍人が同様の行為をする行為が多々見られた。
また。
「堀悌吉少佐。少しは休んだらどうだ」
「山梨勝之進大佐。これだけ書いたら、休息しますよ」
「これだけか。既に大量の報告書を作成しているではないか」
「まだ、私の予定では、半分しかできていませんよ」
「これでか」
山梨大佐と堀少佐は,そんなやり取りをしていた。
「それにしても、この世界大戦の戦訓は大きいな。陸では戦車、海では潜水艦、空では航空機等、新兵器が大量に出現し、また、大活躍した」
山梨大佐は、堀少佐の手を休めさせようと、そんなふうに語り掛けた。
堀少佐もそれに付き合うことにした。
「確かにそうですね」
「それに対応する兵器も、また作らねばならない。例えば、対潜兵器については、水中聴音機はできたが、音響探信儀は、まだ試作段階だ」
「対潜爆雷も、まだまだ改良の余地がありそうですね」
「兵器以外にも色々と、今回の遣欧艦隊の作戦では通商護衛についての様々な知見が得られた。将来的には潜水艦のみならず、航空機による積極的な通商破壊が行われてもおかしくない。そういったものにも対処できるように日本海軍はならねばな」
「おっしゃる通りです」
「そういったことを考えると、色々とやらねばならないことは多いな」
「ええ。日本に還ってからも忙しい日々が続きそうです」
2人はそうやり取りをした。
山梨大佐や堀少佐の想いは、この時に遣欧艦隊に所属していた多くの士官が共有していたものだった。
そして、彼らの想いは日本に帰還した後、多くの日本海軍士官の面々も持つようになった。
その一端が表れたのが、電探開発に日本海軍が懸けた情熱である。
1942年時点で電探連動での射撃が日本海軍で可能になったのは、警戒を目視のみに頼る危険をこの時に痛感し、それを補おうと努力した成果だった。
これで、本編は終わり、次のエピローグで完結します。
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