第17話 スペイン風邪の襲来による最後の苦戦
こうして、1918年春に遣欧艦隊に着任した森下信衛少尉は、黙々と職務に精励する日々を送ることになっていた。
駆逐隊司令、山梨勝之進大佐の下、堀悌吉少佐を艦長とし、木村昌福中尉を水測班班長とする駆逐艦「樺」は、森下少尉にしてみれば、後から思い返しても最良の職場環境と言って良かった。
木村中尉は、部下の意見具申に素直に耳を傾ける一方で、間違っていたらすぐに指摘する厳しさも持ち合わせている。
堀少佐や山梨大佐も、森下少尉(当時)が海軍退役時までに思い返す限り、最良の上官といってよかった。
船団護衛の為に出港してから帰港するまで、この当時は気の抜けない状況が続くのが当たり前で、それに加えて。
「今回の護衛任務の間に、1隻でも敵潜水艦は沈められたか」
「いや」
「悔しいだろう。お前も悔しいと思うだろう。俺も1隻も沈められなかった。悔しくて堪らない」
と共に遣欧艦隊所属になっていた海兵同期の有賀幸作少尉と半舷上陸で顔を合わせて、共に呑むたびに愚痴られることも、しょっちゅうという有様だったが。
山梨大佐や堀少佐、木村中尉は商船が無事に目的地に着くのが最良の戦果で、潜水艦撃沈は二の次という態度を崩さなかったので、森下少尉も自然とそれを受け入れるようになっていた。
(なお、他の駆逐隊では、どうのこうのいっても潜水艦を沈めて何ぼ、商船護衛は二の次という想いをしていたのが多かった。
こうした想いが、後に日本海軍に酸素魚雷開発を中止させ、複合感知式対潜爆雷開発へアクセルを踏ませる事態を引き起こすことになるのである。)
そして、敵潜水艦も沈められないが、味方の商船も沈まない、といった日々を過ごしていた森下少尉他、遣欧艦隊の面々に1918年の夏以降、いきなり暴風として襲い掛かったのが。
インフルエンザ、いわゆるスペイン風邪であった。
当初は単なる風邪だ、大したことにはならない、安静にすればすぐに治る、と八代六郎提督以下、遣欧艦隊の面々の多くが想っていたのだが。
スペイン風邪は、すぐに猛威を振るうようになる。
8月28日にマルタを出港してマルセイユへ赴く輸送船団を護衛していた「楠」に、スペイン風邪は襲い掛かった。
8月26日時点では、「楠」の乗組員87名の誰一人、風邪の症状を訴えていなかったのに。
8月29日朝、8名が重体、他に20名が風邪にり患、と診断される有様になっていた。
9月1日にマルセイユにたどり着いた「楠」は、乗組員の多くが倒れたために入港すら困難な惨状で、同行していた「樺」から決死隊(これは大袈裟な表現ではない。僚艦とはいえ、死に至る伝染病が蔓延している艦に乗り込んでいこうというのである。)を募り、決死隊の活躍で何とか入港できた。
とはいえ、検疫の関係から「楠」の乗組員の上陸は許されなかった。
そのために。
「栗田健男大尉、重湯をどうぞ」
「旨い、日本の米か」
「ええ。「楠」の主計士官が秘蔵していました」
「末期の水が日本の米の重湯とはありがたい。木村、礼を言うぞ」
「ありがとうございます」
「故郷の水戸の山河が瞼に浮かんでくるようだ。自分は魂魄で故郷に還るとするか」
「楠」の水雷長を務めていた栗田大尉は、そう木村中尉と会話を交わした後、瞼を閉じた。
木村中尉に付き添っていた森下少尉は、その二人の会話を聞いて涙が溢れてならなかった。
栗田大尉以下、10名の「楠」の乗組員がこの時に「楠」艦上で亡くなり、水葬されて遺髪のみが故郷に還るという運命を迎えたのである。
この「楠」の悲劇を皮切りに、遣欧艦隊の多くの艦でスペイン風邪による病死者が続出することになり、第一次世界大戦終結を目前にして、遺骨すら還れない事態が起きたのだ。
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