第16話 1918年当時の戦況と報道
更に森下信衛少尉の後押しをしたのが、さすがに1918年のこの頃には(第一次世界大戦当時に行えるレベルの)対潜作戦が絶頂に達していたということである。
独等の同盟国側の潜水艦が潜水艦の基地から出撃しようとすれば、英仏等の連合国側が張り巡らせた何重もの機雷堰を果敢に突破する必要に迫られる事態に、独等の同盟国側の潜水艦は陥っていた。
この当時の機雷は、爆雷を凌ぐ最大の対潜兵器と言って良かったが、そうは言っても当時の技術的限界からそう潜水艦に効果のある代物ではなかった。
だが、六面体のサイコロ2個を何回も振っていたら、いつかはピンゾロが出るようなもので、何回も機雷堰を突破していれば、どうしても潜水艦に損害は避けられない。
かと言って、機雷堰を避けて、狭い通路から潜水艦が封鎖を突破しようとすれば。
そこを英仏等の潜水艦が待ち構える例が多発するようになっていた。
この当時(いや、第二次世界大戦当時でさえ)、出航直後の潜水艦にとっては、出航直後は暫く潜航を避けて、トリムの調整等を行わねばならないのが当然の話だった。
だが、この時の潜水艦は、ある意味、狙う側からすれば、絶好の的に他ならなかった。
しかし、水上艦が敵潜水艦基地の近くにまで迫れる訳が無い。
従って、潜水艦で敵潜水艦を狙うという事態が起こるのである。
第一次世界大戦当時、誘導魚雷も無い中で、潜水艦が対潜水艦攻撃の役を務められたのか、という疑問を覚える方が多々おられると思うので、補足説明すると。
史実でも戦場で喪失した独潜水艦178隻の1割以上、18隻は潜水艦による戦果である。
これに力を得た英海軍が、第一次世界大戦終結後に(ほぼ計画で終わったが)対潜用のR級潜水艦の建造を計画する程、この当時の潜水艦は対潜用兵器として期待された時期でもあったのだ。
(ちなみに機雷による戦果は34隻である。)
こうした状況から、徐々に独等の潜水艦は戦果を挙げられなくなり、遣欧艦隊の面々が商船護衛の任務を完遂することが増えるようになっていた。
とは言え、相変わらず独潜水艦を遣欧艦隊はほとんど沈められずにいた。
そうしたことから。
「お前ら、悔しいと思うだろう。確かに損害は出なくなったが、こちらは相変わらず、独の潜水艦を沈められずにいるのだ。敵艦撃沈の戦果を挙げて還らないといけないと思うだろうが」
竹下勇参謀長等の意を受けて、田中頼三中尉等はそう叫ばざるを得なかった。
どうのこうの言っても、敵潜水艦を沈めないと新聞等の報道機関にしてみれば、戦果を挙げずにいるというイメージを持ってしまう。
確かに従前と現在と統計をきちんと比較すれば、独等の敵潜水艦の戦果が激減しているのは分かるレベルにはなっている。
しかし、報道する側にしてみれば、そういうことは記事にする話ではないのである。
(商船は、きちんと目的地に着くのが当たり前である以上は、商船の損害が減って、目的地に着くようになりました、というのは当たり前で、記事としてそう書くことではないのである。
郵便が届かないのは新聞沙汰になっても、郵便が届くのは新聞に載らないようなものである。)
これまで散々、商船が失われたことから日本国内の新聞等で、無能、三流艦隊と叩かれてきた遣欧艦隊の面々にしてみれば、きちんと商船の護衛ができるようになった以上、そういったことを新聞等で報道してほしいと思っているのに、新聞等は報道しないのである。
山梨勝之進大佐等は、新聞等の特性上は仕方のない話、自分の職務に精励するだけと割り切ったが、多くの面々は割り切れなかった。
第二次世界大戦時、日本海軍が対潜作戦に傾注するようになったのはこの苦い体験からだった。
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