第13話 薄日が差してきた
こういった紳士的な(?)話し合いにより、鈴木商店のロンドン支店長高畑誠一が音頭を取ることで、地中海を航行する日本船籍の商船については、船団護衛戦術の目途を立てることが遣欧艦隊は出来た。
もっとも、高畑の本音としては乗り気ではなかったし、他にも色々と高畑自身が忙しかったことから、すぐにすぐに商船が船団を組む話が、とんとん拍子に進むはずがなく、1917年中は2歩進んで1歩下がる、といった感じで、船団を組む話は徐々にしか進まなかった。
結果的に、日本の商船がほぼ船団を組んで、地中海で航行するようになったのは、1918年になってからの話になる。
(なお、三井、三菱ではなく、鈴木に音頭を取らせた理由だが、この当時の欧州においては、鈴木が圧倒的な力を持っていたからである。
第一次世界大戦勃発勃発時に、歴史的にも力のあるロンドンのバルチック海運取引所のメンバーになれていた日本人は高畑誠一以外では、三井の向井忠晴のみであった。
そして、第一次世界大戦において、三井を圧倒する勢いで鈴木が飛躍したことから、当時、スエズ運河を通航する船舶の1割以上は鈴木商店の関係である、とロンドンの海運市場で謳われる有様となっていた。
こうしたことから、遣欧艦隊司令部は、高畑に船団護衛の音頭を取らせることにしたのである。)
更に遣欧艦隊には朗報が飛び込んだ。
その時に、偶々、遣欧艦隊首脳部は、今後の対潜作戦について集まり、会議を開いていたのだが。
「陸軍が、士官や下士官を数千人単位で海兵隊に出向させてくれるとのことです。海軍は救われました」
1917年1月に日本本国からの陸軍への海兵隊への士官、下士官の本格的な出向が決まった、という第一報を受け取った通信士官は、その場に嬉し涙を流しながら駆け込んで、そう叫んだという。
(更にそれを聞いた遣欧艦隊首脳部は、余りの喜びの余り、却って暫くの間、沈黙してしまい、通信士官は自分は間違ったことを言ったか、と動転したというオチまでつくが。)
ヴェルダン要塞攻防戦で大量の士官、下士官を失ったことから、日本海兵隊士官、下士官の補充は大問題となっていた。
何しろ、後に第一次世界大戦で地獄を見たと後に日本国内で謳われた海軍兵学校第41期生(田中頼三中尉や木村昌福中尉の同期生)は、航空隊も含めるならば、118名中36名がヴェルダン要塞攻防戦で散ったのである。
この時点で、最初から海兵隊を志願していた海軍兵学校第41期生24名の内、生き残っていたのは大田実中尉(後に大将)だけという凄まじい損耗で、田中中尉や木村中尉まで一時は海兵隊転属の辞令が出る寸前という有様になっていたのだ。
(兵士の損耗も確かに問題となるが、これは徴兵が可能なのである程度は融通が利く。
問題は士官、下士官であり、それなりの教育を行わなければ、士官、下士官として戦場で使うことはできないのである。
更に言うまでもないが、士官、下士官になれる人材となるとそれなりの素質も兵以上のものが、当然のことながら必要になってくる。)
こうしたことから、海軍は、これ以上の損耗には耐えられないとして、陸軍に対して、士官、下士官の海兵隊への出向をかねてから依頼していたのだが、(決して表立って言えない山本権兵衛首相の策謀による今上天皇陛下からのお言葉により)陸軍は、遂に士官、下士官を大量に数千名規模で海兵隊に出向させることを合意したのである。
ともかく陸軍の海兵隊への士官、下士官の大量出向は、遣欧艦隊の人材不足を救うという余波ももたらすことになった。
1917年以降、遣欧艦隊の技量が少しずつ向上したのには、陰で人材の充実という側面もあったのである。
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