防壁
指輪が奪われたという7812区域は、とある会社が所有している、小さな休憩所のような区域だった。清潔感を漂わせる白い壁と天井。備え付けられた窓からは、永遠に変わることのない草原と青空が清涼感を届けてくる。備え付けのスピーカーからは、聞いたことはあるがタイトルは思い出せないクラシック曲が流れていた。
本来こういった場所は、所有会社の社員のみが入れる場合が多いが、ここはオープンとなっている。依頼者は、ここでのんびりとしているときに、指輪を奪われたのだろう。
「依頼者は……やっぱり、ここの社員か」
先ほど依頼者からもらったプロフィールを確認してみると、案の定この区域を所有している会社の従業員だった。
「自社の休憩所で突如暴漢に襲われるとは……運のない人だな」
軽く辺りを見回してみるが、俺以外に人は居ない。誰か居れば聞き込みをしようと考えていたが、時間が悪かったようだ。
「困ったな……」
プライバシーを考慮してか、監視カメラが設置されている様子もなかった。確かに、休憩所にカメラなんてあっては、ゆっくり休むこともできないか。
「カメラがあれば、ハックして映像を確認すればある程度情報が集まるんだが……仕方ない」
区域の壁に手を当て、電脳の中のハックツールを起動させる。
「映像はなくても、足跡ならあるだろ」
俺はこの区域にハックを仕掛け、ログ――どこの誰が、いつここに入り、いつ出て行ったのかという情報――を盗み見る。
目の前にホログラムウィンドウが浮かび上がり、その上を無数の数字とアルファベットが踊り出す。セキュリティーも、そこまで厳重というわけではなかったため、すぐに情報が顔を出した。
「感づかれて警報が鳴る前に、いい情報をサルベージできればいいんだが……」
『ログ情報』
8:24 ランド・スターリー 入室
8:28 ランド・スターリー 退室
8:45 ダグラス・グレー 入室
9:04 ヘレン・F・セネット 入室
こんな具合のログを、ゆっくりとスクロールさせる。
「盗まれた時間から考えると……この男か?」
事件発生の数分前、一人の男がここにやって来ている。『グレン・リルバーン』という名前だ。ログを数日分さかのぼってみても、彼の名前が他に記載されてはいない。ログの中で名前の重複がないのはこのグレン・リルバーンだけだ。明らかに社員ではない部外者だ。
「決まりっぽいな」
俺はここのログから、犯人と思われるグレンの情報をできる限り引き出す。とは言っても、ここは誰でも入れるフリー区域なので、残された情報は少ないだろう。もしここが、厳重なセキュリティーの区域であれば、入った人間の住所や電脳アドレスなんかまで残されていたりもするんだが……。
「――お、名前の他にプライベート区域の場所も残ってるな」
まっとうな会社が保有する区域だったことが幸いし、最低限の情報は深部にて記録されていた。犯人も情報が残されていたとは思わなかっただろう。これで、名前だけを手がかりに聞き込みをしなくて済む。
「とりあえずこいつのプライベート区域に行ってみるか。居なかったら……持久戦になるかもな」
グレンが仮想に居ない場合や、他の区域に行っている場合は待ちの一手となる。俺のコンソールには普通よりも高度な生命維持装置が備わっているが、限界はある。その限界が来る前にご対面したいところだ。
「頼むぜ神様」
まるで信じていない神に祈りを捧げ、俺は事件の起きた区域をあとにした。
ログに残されていた情報を頼りに、グレンのプライベート区域へと歩き出す。案外ここから近い。自分のプライベート区域の近くを狩り場にしている暴漢も少なくないので、グレンもその手合いだろう。
「ええと……ここから入れるな」
交差点を移動し、目的の扉の前に立つ。
「アパート区域か」
活気のある表通りとは対照的に、薄暗い路地裏。灰色のコンクリートの壁に、等間隔で並ぶ無数の扉。そのうちの一つが犯人と思われる男のプライベート区域だ。
飾り気がなく、扉が並ぶ様から、この手の集合住宅にはアパート区域という俗称が付けられている。
「それじゃあ早速」
人目がないことを確認し、ノブに手をかけるが――
「ま、そりゃそうだよな」
――当然、そのまま入れるわけもない。
プライベート区域をオープンにするなど愚の骨頂だ。大抵は自分と家族以外は入れないように『鍵』をかける。俺のプライベート区域も、許可なく入れるのは俺と詩織だけだ。あえて鍵をかけず、区域内にトラップを仕掛ける輩もいるが、リスキー過ぎるためごく稀だ。
事情を説明して入れてもらうというのも現実的ではない。相手は犯罪者。すんなりと入れてくれる可能性は皆無だろう。鍵を壊して無理矢理入るのが手っ取り早い。
『詩織、俺だ。今犯人と思われるやつのプライベート区域まで来ている。ハックして侵入するから、助力を求める』
俺は現実で待機している詩織に通話をかける。どうせ暇してるだろうし、少しは手伝わせよう。
『はーい。任せなさいな』
『頼むぞ』
扉に手を置き、俺は再びハックツールを起動させる。
『――うーん……なかなか厳重な防壁してるね、この区域』
『犯罪者の隠れ家だしな。一般人より警戒心が強いんだろ』
電脳をフル活用し、もはや常習となったハックを加速させる。誰かに見られる前に、扉が開くことを願うしかない。
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防壁――電脳や区域を、不正なアクセスから防ぐためのセキュリティープログラム。一種類のみでは効果が薄く、様々な種類の防壁を組み合わせる必要がある。
アイスと呼ばれる由来は、侵入対抗電子機器(Intrusion Countermeasures Electronics)の頭文字・ICEから。
ハックしてきた者を逆探知し、相手の電脳を焼き切る攻性防壁という種類も存在する。
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