交差点
現実世界では、年々荒廃が進んでいる。
有害化学物質によって、空気・水・土壌は汚染され、野生の動物は姿を見せなくなった。緑豊かな風景など、どこを探してもありはしない。
他国より優位に立とうという目論見から、放射性物質の大量利用――そしてずさんな廃棄により、じわりじわりとこの地は穢れていった。
そんな毒が広がり続け、気がつけば、人が生活できる範囲は限りなく少なくなっていた。その土地を得ようと、さらなる戦争が起こる。完全なる悪循環。引くに引けない蛮勇が、止めどなく血を流し続ける。
この大地に、もはや傷ついていない場所を探す方が難しい。人間で例えるならば間違いなく瀕死の状態だろう。
そんな荒れ果てた現実世界から目を背けるために作られたのが、現実そっくりの世界――仮想空間だ。
電脳化によって、脳神経を電子データに置き換えることに成功した人類は、人の意識をコンピュータ上で再現可能となった。電子の箱庭で人の意識だけを反映させる――ざっくりとだが、それが仮想空間の仕組みだ。
うまい食べ物を現実で食べることが難しくなったから、人々は仮想で食事をする。もちろん、実際に腹が膨れるわけではないが、舌を満足させるには仮想の方が手っ取り早い。
煙草や酒といった嗜好品も、現実ではとんと見かけなくなった。ゲームやギャンブル、さらにはスポーツなどの娯楽も、今や仮想で楽しむのがメインとなっている。
要するに、恥も外聞もなく……人類は逃げたのだ。
持てる科学技術を、環境を浄化するためではなく、甘美な夢へ耽溺するために使ったのだ。
仮想空間は夢の世界。存在しない虚像の世界。それを承知で人々は仮想へと足を運ぶ。依存性の高いドラッグに手を出したジャンキーのように。
もはやそれが当たり前。俺の物心つく前から仮想空間は存在していて、すでに生活の一部となっている。仮想空間に異を唱える人間はほとんど残っていない。
どこまでも、どこまでも人は潜り続ける。深海のように、真っ暗な世界へと。
空の光が届かない、暗い世界へと。
仮想へダイブして、最初に目に入ったのは俺のプライベート区域だった。俺のコンソールからダイブしたのだから、当然ここに出る。
まず真っ先に、周囲を見渡し異常がないかを確かめる。ソファーやテーブルの置かれた、二十畳ほどの部屋。白い壁に、三メートルほどの高さがある天井。端の方には、半ばインテリアと化したビリヤード台がある。他にも、大昔のボードゲームなどが山のようになっており、異彩を放っている。要するに、
「いつも通り。変わりなし」
ということだ。
前にダイブしたときとまるで変わらない部屋の様子に安堵しつつ、俺は床に転がっていたペンを拾い上げる。現実と変わらない質感と見た目が、手中で静かに主張する。
「いつ見ても……不気味なほど本物そっくりだな」
物体のグラフィック、光の当たり方、影の伸び方、音の響き方、どれもこれも現実そっくりだが、全て偽物だ。壁も床も、置いてある家具も偽物。さらに言えば、仮想にある自分の体(一般的に電子体と呼ばれる)も偽物だ。
全てが電子によって構成された、本物そっくりの虚像の世界……それが仮想空間だ。
自分の体を抓れば、軽い痛みも感じるし、痣にもなるだろう。だが当然、現実へ帰れば、そんな痣は存在しない。ヴァーチャルとリアルはイコールではない。
「……いい男だ」
壁に掛けられた鏡を覗き込む。現実とまるで変わらない俺の顔が、こちらに不敵な笑みを見せる。
本物そっくりだが、本物には影響を与えない優しい空間。人類が逃避先へ選んだ仮初めの楽園。それが俺の今居る場所であり、人々の最後の希望だ。
「さ、まずは交差点へ行くか」
仮想空間は電子によって構成された、現実とはかけ離れた世界だ。しかし、翼を生やして空を飛び回るとか、動物に変身して草原を疾走するとか、なんでもできるというわけではない。特に、場所の移動にはそれなりの手間がかかる。
仮想空間は地球のように地続きで広大な世界ではなく、いくつかの部屋(区域)と移動通路(交差点)の集合体だ。イメージとしては蟻の巣が近いだろう。丸い部屋が区域、細い通路が交差点となる。
仮想では、どのコンソールからダイブしたかによって出現ポイントも変わってくる。今回は、俺のコンソールからダイブしたため、俺のプライベート区域に出た。もし現実で、となりにあった詩織のコンソールからダイブすれば、詩織のプライベート区域へと出ただろう。
もし仮に、遠く離れた友人のプライベート区域へ行きたいのなら『自分のプライベート区域』→『交差点』→『友人のプライベート区域』というルートを辿る必要がある。ここからすぐに別の区域に飛ぶことはできないのだ。場合によっては、いくつかの交差点を経由しなければならないだろう。もし仮に、すぐさまその友人のプライベート区域にダイブしたいなら、現実で友人の家に行き、友人のコンソールからダイブするしかない。
今回の依頼を達成するには、まずはここから交差点へ行き、指輪が盗まれた場所まで行く必要があるだろう。
「なんか持っていくか」
俺はプライベート区域に置かれた冷蔵庫の中から、アルコールの入った瓶を取り出す。現実の酒は十万ゴールド以上するが、仮想なら千ゴールドかそこらだ。ほろ酔い気分を味わうだけなら、仮想で十分といえる。それに、肝臓を痛める心配もない。
「いつか現実で、高い酒を浴びるように飲んでみたいもんだ。大昔の海賊たちが羨ましいね」
ぼやきながら、壁に備え付けられた鉄の扉の前まで移動する。これが交差点への入口だ。
ドアノブを捻り、ゆっくりと扉を開く。そこから先は、光しかない真っ白な空間だ。雪原のようなその空間へ、かみ締めるように一歩踏み出す。
「よし、さっさと片付けよう」
電子体が徐々に境目を失い、俺の意識は電子へと変換される。
背後でパタンと、扉の閉まる音がした。
次に目を開いたとき、目の前は自然あふれる広大な公園だった。交差点の自然公園エリアだ。俺のプライベート区域から交差点に出た場合は、必ずここに出る。
背後を振り返ると、自然公園を取り囲むように設置された木製の壁が横に広がっている。その壁に設置された扉が、俺のプライベート区域への入口だ。一つ右隣の扉は詩織のプライベート区域へと繋がっている。
「やっぱり自然はいいねぇ、風情があって。少し奮発して、この区域を買ったかいがある」
新緑、色とりどりの花々、飛び回る小鳥――現実ではこんな景色を見ることなんてすでにできない。精々見られるのは害虫と雑草くらいだ。
「少し遠出した区域に万年桜が咲いているところがあったな……。ま、呑気にお花見をしている場合でもないか」
俺は景色を軽く楽しみつつ、手にした酒を一気に喉へ流し込む。焼けるような熱さが喉を刺激し、チリチリと目の奥で火花があがる。
「よぉーし」
空になった瓶を、俺は地面に放り投げる。地面にぶつかる直前で、瓶は霧のように消えてしまった。瓶も、その中に入っていたアルコールも、元を辿ればヴァーチャルだ。所有者が不要と判断し『ゴミ』となれば、跡形もなく消え去る仕組みとなっている。仮想にゴミ処理業者は必要ない。
「ええと、指輪が奪われたのは……」
胡乱になった頭で、依頼者から渡された住所をホログラムウィンドウとして目の前に表示する。それと同時に、その場所をネットでも検索。
「7812区域……誰でも入れるフリー区域の一つか……まずはそこへ行って、聞き込みでもしてみよう」
自然公園で談笑や食事を楽しんでいる人々を横目に、俺は歩き出す。7000代の区域へ行くのなら、ここから少し北へ行く必要がある。
「ったく、仮想って微妙に不便だよな……ここからスパっと行ければいいんだが……」
今更な不満を、それでもこぼさずにはいられない俺は、ぶつくさ言いながらもどんどん先へ進む。
いつの間にか見慣れた自然公園を抜け、俺は数々の商店が建ち並ぶ商業地区へと足を踏み入れていた。大昔なら駅前などで雑多な人混みもあったらしいが、現実で大勢の人が集まることは稀といえる。治安の問題や、環境悪化による現実人口の低下が原因だ。
「相変わらず、人と扉が多いな……」
幅の広いメインストリートが彼方まで伸び、その両脇を大小様々な店舗が固めている。
いたるところに扉が乱立しているのは、人口の多さをそのまま現している。物の集まるところに人も集まる――というのは、仮想も現実も同じだ。
その気になれば、仮想での買い物全てを通信販売に置き換えることも可能だろう。ボタン一つで好きな物が瞬時に出現、ってな具合に。なんたって、仮想空間は電子によって構築されているのだから。
しかし、そうはならない。仮想はあくまでも『現実の代用品』なのだ。だからこそ、変なところで現実と同じく手間がかかる。
一応、商品をプライベート区域まで送ってもらうサービスもあるが、かなり高額の手数料が要求されるのが現状だ。人々はその手数料を払いたくないので、こうして店に足を運ぶ。
「ま、俺はそっちの方が好きだからいいけどな」
店を歩き回り、ほしい物がないかをブラブラ探すのも一興だろう。詩織にはよく女々しいとか言われるがな。
なんにせよ、今は仮想での買い物はないので、寄り道することなく直進する。
『いらっしゃーい! ウチの肉は現実よりうまいよ!』
『センダイ製の最新セキュリティーAIだ! 防壁の構築が苦手な人には必須アイテムだよ!』
『人気アイドルグループ・デイジーのコンサートチケット、残り僅かですよー!』
客を呼び込もうと、店員は必死に声を張り上げる。食品だけではなく、娯楽品や衣料品も多い。この依頼が終われば、詩織と二人でここに来るのもいいだろう。
「ええと……ここを抜ければいいのか」
人の波をどこまでも泳ぎ、薄暗い路地裏まで移動する。目の前には、大きなビルの側面に設置された扉。扉に手をかけると、この先の区域情報が電脳へと送られてきた。間違いなく、ここから目的地である7812区域に飛べるようだ。
「よし、行くか」
扉を開くと、お馴染みの真っ白な空間。俺はそこへ一歩を踏み出した。