小さな舟の旅
ギー……ギギー……。
木が軋む音が聞こえる。
ここは海の上。小さな舟の上。
そこに、一人の人間がいた。
「いやあ、兄さん。今日も大変になりそうだよ」
帆に風を受け進む一艘の舟。羅針盤が示すのは西北西。
行く手の空に、大きな雲がそびえ立っている。その雲の下は、夜のような暗黒に染まっている。
「そのようだな」
どこからか、声が聞こえてくる。
「まいったねえ。本当にまいった。兄さんは気楽でいいよねえ」
伸びをしながら、のんびりとした口調で言う。
「いや、そうでもないさ。振り落とされないように、いつも必死なんだ。死と隣り合わせさ」
男の足元に、猫が擦り寄ってきた。
「なあ、弟よ。最後に一つ、頭をかいてくれ。自分では上手くかけなくてな」
「ああ、分かったよ、兄さん」
男が、黒猫の頭を少し乱暴に撫でると、猫は、満足そうに目を細め、喉を鳴らす。
「もういいぞ。……それよりも、帆の調子はどうなんだ? あの嵐、越えれるのか?」
「問題ないよ、兄さん。この間変えたばかりさ」
「そうだったか? なら、いいんだ」
男は、木箱の中を漁り、小さな瓶を掴んだ。
「……おお、あったあった。どれ、兄さん。前に寄った町で、逸品だと勧められてね。最後に一杯やろう」
「そりゃあいい。ぜひそうするべきだ」
二人は、顔を見合わすと、笑みをこぼす。
「いったい、何度目の最後だろうね」
「さあな、忘れちまったぜ」
木でできたお椀を引っ張り出し、そこに、瓶の中身の半分を注ぎ入れる。男は、手の瓶を、足元のお椀に軽くぶつけた。
「乾杯、兄さん」
「乾杯、弟よ」
舟は、嵐に向かって進み続ける。その小さな舳先で、暗い困難を睨み据える。
舟の上には、一人の人間と、一匹の猫が、肩を並べて嵐を見ている。
まるで、ここで死ぬかと言わんばかりに。
まるで、ここで終わりと喜ぶように。