太陽がくれた未来の話
答えをくれた未来の話
太陽と背中と小さな傷のお話。
「で、何だよ」
僕は不機嫌に返事をした。
目の前の絵梨香は大学生になってから、その美しさに磨きがかかっていた。
夜の帳は降りて、君の一人暮らししている部屋で僕はソファーに座り込む。
ああ、これは今日も朝帰りかなと思いながら寮の同室の友人に誤魔化しておいてくれとメールをした。
兄がいなくなって、静かになった家から逃げるように推薦で隣の県の強豪校で寮生活を始めた。
同室の友人はもはや恒例だと思っているのか、はいはいとしか返って来なかった。
適当に手を抜いて部活をして、たまに適当な理由をつけてサボっている僕は問題児と言われているが、もう何も感じる事は無かった。
一年前まで、同じ高校で進学クラストップ生徒会長を勤めていた絵梨香も自分と似たような理由で寮生活をしていた。
「緑太ちゃんとサッカーしてないでしょ」
「だったら何だよ」
「私がいた時はまだここまで酷くなかったなと思っただけ」
キッチンに立って、何かガシャガシャと音を鳴らしている彼女を見ずに僕はテレビの電源を付けた。
「やる意味がもう無いんだよ」
そう言った僕の隣にマグカップを二つ抱えた彼女が座る。
テーブルの上に置かれた自分のマグカップを見るだけで僕は動かない。
「そう」
彼女は何も言わない。
「追いかける背中すらない」
「そうね」
彼女はマグカップをテーブルに置いた。
「絵梨香は虚しくないの」
「何が」
「敷かれたレールの上にいた姉を追いかけて」
「ああ、そういうこと」
彼女の腕が首筋に回って来て、僕は目を細めた。
「虚しいよ」
そう言って重なった唇に、僕は思考と停止させた。
重なり合う熱はいつの間にか溶けていって、それでもどこか割り切っている自分がいた。
「新藤!!お前はやる気があるのか!!」
監督の怒鳴り声を浴びるのはもう何度目だろうか。
僕はいつの間にかそれに慣れてしまっていた。
「まあ、一応」
「一応って何だ一応って」
いつも通り、ある程度手を抜いてしていたプレーが監督の目に止まりお説教中だった。
「お前は毎回毎回、そこまで酷いなら次の選手権のスタメンから外すぞ!!」
その言葉に周りがざわつく。
とうの本人の僕はもう何も思わなかった。
「何があの新藤蒼也の弟だ」
そう聞こえた言葉に、僕は顔を上げた。
「監督」
「なんだ」
「俺何のためにサッカーやってるのか分からないんです」
そう言って僕はピッチを後にした。
監督の声とメンバーの声が聞こえても、振り返る気にすらなれなかった。
それでも、たった一人だけ追いかけてきた人間がいた。
「緑太!!!」
遠くから聞こえたその大声に僕は怠そうに振り向く。
そこには額に汗を浮かべた桜子が立っていた。
「何だよ」
「何だよって、あ、そうだ」
不意に君が自販機に向かう。小銭を入れて一本のジュースを取り出し、僕に投げた。
「何かあったの?」
夕暮れ時、君の顔が赤く染まっている。
その言葉に僕は何故か縋りつきたくなった。
兄が死んでから、誰かに何かあったのかなんて聞かれる事は一度もなかった。
僕は悲しみを隠して不真面目な人間を演じていたから。
絵梨香は同じように悲しみを背負っていたから。
誰かに心配されたのはあの葬式から初めてだった。
「お前、自分の分は?」
「あ、えっと、はは」
君は財布をひっくり返す。
そこからは何も落ちてこなかった。
「馬鹿じゃん」
「な、失礼な!私の150円の全財産だったのに!優しさを返せ!」
そう言って掴んでくる君に僕は思わず笑ってしまった。
すると君は突然固まるから、僕は驚いてしまった。
「な、なんだよ」
「…笑った」
「は?」
「緑太今初めて笑ったよ」
僕は思わず口元を手で覆う。
中学の時から今まで、心から笑う事なんてなかった。
だけど今、自然に零れた笑みに僕は驚きを隠せずにいた。
目の前の君は真剣な表情で僕の目を見る。その瞳には一つの曇りもなかった。
「…緑太に何があったかなんて私には分からない。分かりたいけれど話したくなかったら話さなくても構わないよ。だけどちゃんとサッカー好きなのは分かってるよ。何だかんだ文句言いながら部活に出てやる気なさそうにしてるしチームで試合する時は適当だけどさ、自分では無意識なのかもしれないけど一人でボール触ってる時は凄い楽しそうなんだよ」
「は…」
「それで、誰かからパス貰った時に泣きそうな顔するの、知らなかったでしょ」
君は笑う。寂しそうに笑う。
「分からないよ。全然、緑太の事なんて分からない。でも何か抱えてる事だけは私にも分かるから、それを少しでも背負う事は出来ないかな」
そう言って僕の頭に手を伸ばす君に、僕は思わず抱き着いてしまった。
ペットボトルが地面に落ちる音がする。
「え、りょ、緑太さん?どうし…」
僕の目からあふれる涙が君の肩を濡らしていく。
ああ、僕はずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。
君は何も言わずに、ただ僕の背中を何度も叩いてくれた。
「兄がいたんだ。四歳上の兄」
街灯が夜の闇を照らしている。
公園の隅、少し古びたベンチに君の手を握ったまま腰掛け話を続ける。
目元は赤く腫れている。
「憧れだった。幼い頃は明るい性格で人気者でしっかりしててサッカーが上手くていつも誰かに囲まれてた」
「自慢のお兄さんだね」
「うん。でも、中学生の時に怪我してサッカー辞めたんだ。それからは変わってしまったけど、それでも優しい兄のままだった。俺にとって永遠に憧れのサッカー選手で憧れの兄だった。高校生二年生の時、サッカーを辞めてからあまり笑わなくなった兄がよく笑うようになったんだ。一人の女の人のおかげで。その人は凄い美人でさ、頭も良くて優しくて凄い人だった。その人と付き合ってから、兄は笑うようになって二人で歩いてる姿なんて凄いお似合いで、俺まで何だか誇らしくなったんだ。…でも、兄の誕生日の翌日、二人は亡くなったんだ」
「え…」
「無彩病だったんだよ。二人とも。俺ずっと知らなかったんだ、だってそんな予兆すらなかったから。彼女さんは兄貴に幸せな一年を過ごして欲しくて、余計な心配を負わせたくなくて自分は無彩病ってずっと隠してたんだって、絵梨香から聞いた」
「絵梨香先輩から?」
「そう、まあ驚く事に俺は絵梨香を中学から知ってるけど、まさかお互いの兄弟が付き合ってるなんて思わなかったよな」
「え、絵梨香先輩ってさ無彩病の研究者の娘さんで凄い優秀なお姉さんがいたんじゃなかったっけ…じゃあその彼女さんって」
「そう、絵梨香の姉で無彩病の研究をしてたのが兄貴の彼女だったんだ。その人は研究を続けてきたけど治療薬を作り出す事は出来なかったんだって。それで無彩病のリストに兄貴の名前を見つけて兄貴をもう一度笑わせるために兄貴の彼女になったらしい。凄い人だよな」
「…だから絵梨香先輩と仲良かったんだね」
僕は真実を伝えようとして黙る。
本当はお互いに失くした思い出を埋めるように依存しているなんて言えなかった。
「まあ、そこからサッカーを続けてたんだけど追い越す背中すら見えなくなったんだ。いつか並んでプレイしたかった背中は、永遠に届かなくなった。それから何でサッカーしてるのか分からなくなった。俺は別に勝ちたいわけでも強くなりたいわけでもなかったんだ、ただ兄貴と一緒にサッカーしたかっただけだったんだよ」
くだらないよなと言った直後、僕の手から君の手が離れた。
突然立ち上がった君は泣いていた。
「くだらなくなんかない!!!!」
泣き叫びながら君が僕を見る。
「情けなくなんかない!!くだらなくなんかない!!緑太の願いをくだらないというやつがいるなら私が殴る!!」
「おい、ちょ、ちょっと落ち着こうって桜子」
泣きじゃくる君に慌てている僕の図ははたから見れば彼女を泣かせた彼氏だったからだ。
僕の懸命な慰めにより、ようやく少しは冷静になったと思ったら今度は僕に向かって怒鳴って来た。
「緑太はさ、お兄さんの気持ち考えた事あるの!?」
「はあ!?いきなり何だよ!」
「考えて見なよ!お兄さんはサッカーを辞めて変わってしまったって言ってたけど、そしたら緑太がサッカーしてるの見るのすら嫌に決まってるじゃん!なのにお兄さんは緑太には変わらず優しくてサッカーを応援してくれてたんだよ!」
「それが、何だって言うんだよ」
「気づけよ馬鹿!!」
「ああ!?」
最早近所迷惑になりかねない喧嘩だった。
君はまた涙を流しながら僕にこう言った。
「好きだったんだよ。緑太がサッカーしている所を見るの」
「自分はもう出来なくても、緑太が代わりにやってくれるから、緑太がサッカーしてる所見るの好きだったんだよ」
泣き止まない君を見て、僕は昔の事を思い出した。
兄がサッカーを辞めた頃言われた、ずっと忘れていたはずの言葉を。
『緑太はサッカー続けろよ』
『何で、兄ちゃんがやらないなら俺もやりたくない』
『そう言うなって。お前上手いし緑太がやってる所見るの辛いけど好きなんだよ』
僕の目から、再び雫が流れた。
ずっと忘れていたんだ。君が思い出させてくれた。
泣き始める僕を君は優しく包み込んでくれた。
何かが、変わる音がした。
「別れよう」
「うん、で、理由は?」
次の日。僕は絵梨香の家に来ていた。
別れ話を出した僕に、何の動揺もなく返事を返す彼女に思わず苦笑してしまった。
「依存するのは、もう終わりにしよう」
君と目が合う。驚いた顔で僕を見ている。
「これは恋でも愛でも無いんだよ絵梨香。ただ、お互いの傷を舐め合ってるだけだったんだ」
「なにそれ…」
「頭の良いお前はもう気付いてただろ。でも、もう終わりにしよう。俺、兄貴の背中は永遠に届かないと思ってる。手を伸ばしてもどれだけ頑張っても届かない。けど、それで良いんだって気が付いたんだ、永遠に届かないままで、永遠に憧れのままで。俺は俺のために昔の兄貴と同じ道を選ぶよ」
「なあ」
僕は君に言った。
「もうここまでだよ、絵梨香」
「緑太!部活行くよ!!って、え、もう着替え済み…」
「おう、遅かったな」
授業終わり、バッグを持ってトイレに行った僕が教室に帰ってくれば驚いた顔をした君がいた。
「え、え、どうしたの」
「桜子、俺決めたんだよ」
「え…」
君が気付かせてくれたんだ。
「俺は自分の為にサッカーするよ。それが兄ちゃんが望んだ事だし、何より俺がそうしたいんだ」
僕は君に向かって笑う。君は驚いて目を見開いた後、そっかと嬉しそうに笑った。
「じゃあ部活行こうか」
「おう、あ、桜子」
「んー?」
「好きだ」
「え」
君が驚いて固まる。
真っ赤に染まった顔が面白くて僕はまた笑った。
「返事は気長に待つわ」
「え、え、嘘」
「本当」
そう言って走り出した僕の後ろを真っ赤になりながらついてくる君に、感謝しかしていないのは今も変わらない事で。
「先輩緊張してます?」
「当たり前だろ!!こっちはこれが初めての日の丸背負ってるんだぞ、お前はもう緊張してないかもしれないけどな!」
「いえ、緊張してます」
「ええ、新藤緊張してるの珍しいな」
チームメイトが僕に野次を飛ばす。僕は笑いながら隣の先輩の肩に腕を回した。
「今日嫁さんと子供が会場に来てるんで」
「うわー出たよ嫌味かよ。そういう所蒼也そっくりだよな」
「はは、翔さんも早く作ったらどうですか家庭」
「お前なー」
「里香ちゃん意外と待ってるかもしれませんよ」
「え、矢田の彼女の話?」
チームメイトにからかわれ始めた先輩を笑いながら見つめる。
不意に携帯が震えた。
そこには君と子供の写真が写っていた。
『頑張れ』
その言葉を胸に、僕は走り出した。
偉大だった兄がいた。
幼い頃は人気者。明るい性格に人懐っこい笑顔。サッカーが上手でいつも皆の中心にいた。
反対に、自分はいつでも引っ込み思案。幼い頃は兄の服の裾を掴んで、いつだって彼の後ろを歩いた。
兄は笑いながら許してくれるから、いつだって彼のそばにいた。
大好きだった兄が死んだ。
その背中は永遠に届かないものになったけど、どうか僕がそちらに行ったら一緒にサッカーをしてほしい。隣にいる、兄の親友と一緒に。
依存していた彼女がいた。
出会い方が違えば僕らは一緒にいられたのかもしれない。
未だに思い出すのは、きっとあの時の僕がちゃんと彼女の事を好きだった証。
太陽のような君がいた。
君のおかげで僕はここにいる。
ありがとうありがとうありがとう。
愛してる。今までも、これからも。
胸元のネックレスに通された結婚指輪にキスをしてピッチに出ようとする。
『頑張れよ』
不意に、兄の声が聞こえた気がして振り向く。
「どうかしたか」
「いや、何でもないっす」
僕は再び前を向く。
「行ってくるよ、兄ちゃん」
届くはずもない背中を、僕は永遠に追い続ける。