兄という偉大だった存在の話
一人の少年と依存していたお話
兄貴という存在は、当たり前にそこにいるのだと思っていた。
幼い頃は人気者。明るい性格に人懐っこい笑顔。サッカーが上手でいつも皆の中心にいた。
反対に、自分はいつでも引っ込み思案。幼い頃は兄の服の裾を掴んで、いつだって彼の後ろを歩いた。
兄は笑いながら許してくれるから、いつだって彼のそばにいた。
それは幼馴染みが出来てからも変わりなく。
小学校低学年まで後ろを着いて歩いたけれど、彼が中学生になるに辺りそれは無くなってしまった。
不安が無いと言えば嘘になるけど追いかけるように始めたサッカーで沢山の友人が出来た。
まるで兄のようだ。
そう思った。彼とよく似た髪、よく似た顔、まるで兄の人生を追体験してるようで気味が悪くなった僕は、いつしか真似事をやめていた。
きっとそれは、兄がサッカーを辞めた日から。
怪我をした理由も見ていた夢の欠片も、僕はよく知っていた。
だから、何も言わなかった。
だって一番悔しいのは兄だから。兄の時間はもう止まってしまったのだ、そしてその時間はもう二度と動かないと知っていたから僕は兄の後ろ姿を追うのをやめたんだ。
中学生になった時、兄の時間は再び動きはじめた。僕は驚いた。だって彼はサッカーをしている時よりもずっと輝いていたのだから。
今思えば、あれは死の前の最後の輝きだったのかもしれない。
けれど、1人の女の子に恋をした兄はまるで別人のように輝いていた。
嬉しそうに笑って、泣いて、喜んで、怒って。表情を変える兄を見て僕は嬉しかった。
誰かは知らないけど、ありがとうと伝えたかった。兄を笑わせてくれてありがとう、僕の自慢の兄です、と。
そしてその夏の始めに、兄を変えた人に会った。
帰り道にたまたま兄を見かけて、声をかけようとしたら二人で歩いている。
『兄ちゃん!』
その言葉に兄が振り向く。そして数秒遅れて、その人が振り向いた。
綺麗な人だった。驚くくらいに。
靡く黒髪に白い肌、長い睫毛に薄茶の瞳。僕は言葉を失った。
固まる僕を余所に、その人は声をかけてくる。
『初めまして、お兄さんとお付き合いさせて頂いている立波緋奈です』
『あ、初めまして新藤緑太です。うちの兄貴がいつもお世話になっています』
『おい緑太何言ってんだよ』
軽い言い合いをする僕らを見て、立波さんは笑った。
『仲良いのね』
そう言えば兄は照れたように表情を変える。
ああ、この人だ。
兄を変えたのはこの人だ。
僕は彼女の服を引っぱる。
そしてこう言ったのだ。
『知っての通り不器用な兄ですが良い奴なのでよろしくお願いします』
頭を下げる僕を見て、彼女も頭を下げてきた。
『任されました』
そう言って笑った彼女の顔が、目の前の高飛車な先輩と重なる。
彼女と会った数週間後の出来事だった。僕は三年の先輩に呼び出されたのだ。
その人の名前は立波絵梨香。可愛く頭も良いが男遊びの激しい先輩だと有名だった。
やっかいな人に呼び出されたなと思った。
今までこういう事が無かったわけでは無いのだけど、目の前で笑うこの人の事はどうも好きになれなかった。
当たり前に愛情を貰ってきた人。わがままも何もかもを聞いてもらい甘やかされた人。
「先輩、楽しいですか?」
言い寄ってきた先輩を僕は振り払った。
「迷惑なんでやめてもらえますか?」
「迷惑なんて酷いよ…私は緑太くんと仲良くなりたくて…」
詭弁だ。酷い女だと思った。
「先輩って…最悪な女ですよね」
「は?」
「そうやって色んな男に気がある素振りを見せて落としてすぐ振る。俺らの学年でも有名ですよビッチって」
「…何なの」
「俺は品位の欠片もないような人は嫌いです。兄ちゃんの彼女に似てるけど、あの人の方がよっぽど素敵な人だった、少なくともあんたよりは」
あの人と顔を重ねた自分が恥ずかしかった。申し訳ないと思ってしまう。
「後そっちの低い声、冷たい感じの方がよっぽどましだと思いますけどね。でも俺は貴方は好きになれないです」
その人が自分の中で大切だったなんて気付きもしなかった。
兄の葬式の日に、先輩に会った。
思いもよらぬ所で再会を果たして、なぜか僕らは笑い合った。
確かに似ていると思ったんだ。系統は違うけれど、一瞬に見せる寂しそうな表情が、孤高な美しさが。嬉しそうに笑った顔が。
「先輩緋奈さんの妹だったんですね」
「緑太くんこそ。蒼也さんの弟だったんだね」
「兄貴に会った事あるんですか?」
「無いよ。ただ、お姉ちゃんが嬉しそうに話してたの。少ししか聞けなかったけど」
そう言って遺影を見る彼女の横顔は綺麗だった。
涙は出なかった。信じられなくて、信じたくなくて。
何より嬉しそうに、眠るように死んでいたから悪態すらつけなかった。
「お姉ちゃんが嫌いだった」
何を思い出したのか。彼女が小さな声で呟いた。
「綺麗で何でも出来て周りに流されなくていつでも高嶺の花。でも、表情は無くて感情もあらわにしない。何度かわざとちょっかいを出したりしたこともあったけれど、それすらも見ない。ロボットみたいだったのに蒼也さんに会って別人のように変わったの。大嫌いだったお姉ちゃんが、ようやくこっちを見た気がして嬉しかったの。だけど素直になれなかった、言えなかった、あの時はごめんなさいって本当はいつだって憧れてたのって」
「俺も憧れてましたよ兄貴に。いつだって背中を追いかけていた」
彼女の頬を流れた涙に気づいて僕は手を取り式場を後にする。
建物の陰に隠れて、僕の腕の中で泣く彼女に無理矢理キスをした。
不格好で涙でぐしゃぐしゃで、思考もろくに回っていなくて。
ただ嗚咽を誤魔化すように二人唇を重ねた。
早く大人になりたくて、もがくように生きた14歳の事だった。
「こらー!緑太!また寝てたでしょ!」
その声に僕は目を開ける。
暖かな風が窓から入ってくる。16歳の春。僕は目の前で怒っている女の子を見つめた。
「うるさい桜子、俺は寝る」
「ああー駄目だって!もう部活始まっちゃうから起きてってば」
髪を片側に三つ編みでまとめた少女にはベージュ色のカーディガンが良く似合っている。
高校二年生になった春、同じクラスになったサッカー部のマネージャーの春川桜子は何かと世話焼きな人間だった。
絵梨香とは違う。明るくはつらつとしていてしっかり者。
絵梨香と付き合ってから、もう三年が経つ。この事実を知る人間は誰もいない、僕らはただの先輩と後輩だった。
絵梨香はこの春から医大生でとうにこの街を旅立っていた。
たまに来るメールはただの誘いメールで、僕は彼女の家に泊まり朝帰りする事も少なくはなかった。
あれほど熱を入れていたサッカーはいつしか冷め始めていて休む事が多くなった。けれどもレギュラーを獲得している辺りは相変わらずだなと思う。
だってもう追いかける背中がいないのだ。あの日のまま、最後に会った17歳の今の自分と同い年のまま止まっているのだ。ずっとずっと遠くに行って掴む事すら出来なくなった。
「やっぱり絵梨香先輩は美人だったよねえー生徒会長も務めてて、優しくて憧れるな」
「やめとけあんなん」
「何それー」
隣を歩く君は彼女を褒め称えているがあいつはろくな奴じゃない。
「緑太、先輩と仲良かったのに」
「仲良くねえよ」
未だに。僕らの関係が付き合っていると言っていいのかが分からなかった。
ただ空いた穴を埋めるだけの存在のようで。
僕はボールを蹴った。
「あ、あれ先輩じゃない?」
「久しぶり桜子」
「お久ぶりです!」
部活終わり、夕暮れ時。遠くに絵梨香が立っている。
桜子は嬉しそうに駆けて行ったけど、一体あいつのどこにそんな尊敬要素があるのか分からない。
「お久しぶりデス先輩」
僕はそのまま彼女の隣をすり抜けようとする。しかし、その手は捕まってしまった。
「ちょうどいい所に来たわね、行くわよ」
「は?ちょ、おい、まじ、待てって!」
引っ張られて連行される僕を、切なそうに見つめる桜子が映ったのはなぜだろう。