愛していない
同じ病室の患者さんに馴れた挨拶をする彼の胸の内側には、わたしを責める傷口などはない。術後、彼が最初にくれたその言葉を何度も思い出しては、着替えをまとめる手も滞りがちになってしまう。泣き出しそうになるのを堪えながらの支度はつらい。彼の退院は新たな病気との出会いにもなるのだから。
十二指腸潰瘍が深くなり、それが原因で急性腹膜炎を引き起こし、彼がこの病院へ運び込まれたことを知らされたのは、彼の職場からの電話だった。その際、同僚は彼の仕事ぶりから、病気とのつながりを見出そうとしたが、他人に言われるまでもなく、わたしだって、彼が普段はおちゃらけてみえるが、その実内面の脆いことは理解していたつもりではいた。でも、それほど必死に何かに耐えていたとは思いもよらなかったのは確かだ。それで、わたしはつい病室で自分を責めるようなことを口にしてしまった。内心彼からの慰めを期待していたことも、よけいに自分を卑しめることになり、その際彼が、
「切った分だけ食費がうくからラッキー」
と笑ってくれたことは、素直にうれしかった。今、似たようなやりとりで、看護師さんを和ませようとする彼がどうしようもなく愛おしい。
病院の受付で、顔見知りになった何人かの患者さんを見つけ別れを告げ、去り際に彼が、
「またすぐ来ますから」
それが気を許した人への冗談だと分かってはいるのだけれど、どこかでわたしに関連されたものに受け取ってしまい、露骨に不機嫌さを顔に見せ、それを察した彼が、ほんのわずかに嫌そうな表情をつくったのを、わたしは見逃さなかった。
「この間は足で今度は胃。体の半分が機械になる日も遠くないな」
確かに彼の言うように、ここ数年で、彼はいろいろな怪我や病気にかかった。今回、胃の二割近くを切除することになったのは、やっぱりわたしとの付き合いから生じた精神疲労に由来するものだという思いは捨てられない。
「今日夕飯何?」
「食べるの……」
だから退院できたんだよ。そういって彼はまた自虐的なことでわたしから笑いを引き出そうとし始める。擦り傷から高熱を出し、十日も休むはめになってしまった、こどもの頃の話はもう何度も聞いていた。彼にもその自覚はあった。人を傷つけずに自分に興味を惹かせるには、自らの弱みを教えることだと彼は言う。わたしのことを本当のところでは彼は理解できていないと感じてしまう。わたしも彼同様、自分を弱くすることでしか相手を惹きつけられない心理を持った、ずるい人なのだから。
病院の敷地を出て近いバス停の時刻表で、十五分程持て余すことになると分かり、彼は年末の特番の話題を持ち出してきた。お笑いが好きな彼のお気に入りの芸人は、わたしにとってのそれにはならなかった。というよりも好みの違いははっきりしていた。わたしの好きな芸人を彼は鼻で笑うことで軽蔑した。わたしを否定するつもりはないと前置きをしてから。一度、わたしがむきになって反発したら、真面目ぶった顔で謝ってきたことがあった。まるで自分とわたしとの距離をはかりかねているような彼の態度が、わたしの癇癪を誘うことも、いい加減彼も気づいているはずだろうに、またお笑い批評でわたしをやり込めようとするから、
「笑うと傷口に障るから、しばらく観ないほうがいいよ」
「今日面白そうなのがやるんだよ」
コートの袖から覗く、腕時計をまいた彼の手首の細さが視線の先に入り、わたしは用意していた言葉をおさめる。歯痒さが胸のつかえる心地になって残った。
先程から鼻をすする回数の多くなっていたことを、肌の白さと比較し際立たせるような言い方で、わたしの赤くなった鼻を指摘すると、彼が鼻をかむしぐさをしてみせた。
「あ、持ってるから」
瞬間的に彼のティッシュを使いたくないと思った。上着のポケットから引き抜いた、彼の手の甲の不健康な白さがよけいにそう思わせた。
「こんなに冷え込みがきつくなってたんだ」
「先週初雪だったでしょ」
「窓の外は見飽きてたしな」
彼は久しぶりの外の世界を、今更ながら感慨深そうに眺め、さりげなくわたしの手を握ろうとしてきた。
「ちょっとやめてよ、冷たい」
そういう反応は彼の最も嫌うことだと知っていた。だからこそ、感情のままいじめてやりたい衝動を抑えることを、今はしたくなかった。口をすぼめ、珍しく今日は“二度目”をしてきた。それもふり払ってやった。
「またか……」
彼がため息をつく。そのしぐささえ、わたしにはわざとらしいものに映ってしまう。嫌なら別れるって言えばいいじゃない、という備え付けた文句は、脳内ではすでに使い古されたものになっていて、きっとその言葉を聞かされた時の彼ほど心は痛くならないだろう。
でもそれを口にするつもりはまだなかった。
わたしのような女にしがみついてくれるのは彼くらいだろうとも分かっていたから。付き合いの長さが、年々そう思わせてくれるようにもなっていた。
彼が薬を飲んだのかと訊いてきた。めんどうなので、家を出る前に飲んだと答える。おそらくばれているだろうけれど、なんだか考えること自体が窮屈になってきたので、ばれてもかまわないという気がしてきた。いつものように視界の塞がる感覚が、わたしの思考を遮り始めた。
わたしの背中をさすり彼が声をかけてくれているのが、なんとか体感できているから、まだそんなにはひどくなっていないと判断し、家に着くまでは持ちこたえられそうだと彼に伝える。大丈夫だから、ゆっくりでいいから、と彼の声がする。みっともないなあ、と精神の、まだ侵食されていない部分で自分を憐れみ、周りに人気の少ないことが幸いだったと休まらない心を慰める。“わたし”を持て余しているような感覚は良くない兆候であることを思い出しても、もう自分ではどうしようもできず、彼に引率されるまま、また病院の待合室へ向かい歩かされても、反抗する気は起こらなかった。
室外との温度差に、すぐには心身が適応できなく、疲弊した神経は寒さも伴い、わたしを覆うように全身を締めつけてきた。
自分を自分として感じられなくなる時は決まって“取って代られる”感覚が、ありもしない焦燥感を生み、わたしの不安をさらに煽り、たまらずわたしの意識は隅へと追いやられてしまう。
誰かが、どうしたの、と声をかけてきた。彼と同室だった患者さんの声と分かったので、挨拶しようとしたら、先にわたしの顔色を窺おうとしているのがうっとうしくて、息も臭いし最低なやつだ、どっかいけと叫んでしまい、彼もその男も不自然な小声で囁き合いだした。わたしに聴こえないところでやればいいのに、なんてイヤミったらしいのだろう。
思えば、彼の女々しいところがすごく嫌いだ。もっとはっきりいってほしい。言葉の裏をこちらに探らせるような、手間をとらせる話し方がわたしの神経を高ぶらせた。わざとに違いない。そうしてわたしが精神的にまいってしまい、わたしの口から別れをきりだすのを待っているんだ。非情なやり方……。でもそうはさせない。わたしは自分の武器を熟知している。その効果も。
めいっぱい情を誘うしぐさで彼にしがみつく。ほら、抱き方がやわらかくなった。目から心裏を読まれるおそれがあるから、うつむいたまま、彼の腕を掴む手の力加減で感情を表現しよう。苦しそうにしていれば、彼はわたしに対し従順になる。それは彼の精神をやつれさせるための、わたしの常套手段。今、二人の時間を支配しているのはわたしの方なのだ。あなたはわたしのいいなりになって尽くしなさい。わがままは愛情の変化したもの。だから表現の仕方を選んだだけ。否定するまで苦しめ続けてやるから。人前だからって格好つけさせてあげない。慌てふためく、本当のあなたを愛しているの。心も体も痛めつけてやりたくなるほどの愛情を感じていることを、どうしてもあなたに伝えたいのよ……。
「すこし、落ち着いてきたみたい」
そう、でもしばらくはここに居よう、と彼が飲み物はお茶でいいかと訊くから、つられたみたいにのどが渇きを覚えてきた。緑茶は刺激があるから水がいいと答えると、彼が理解できないというように首をかしげたので、そうか、微妙な感覚がこの人にはないんだな。鈍感さも彼のとりえだから許してあげないと、妥協できる範囲で彼にも逃げ道を与えておかなければ――。
次第に人気の増していく待合室は、わたしの周りを避けるようにして人々が居る。また迷惑をかけたんだろうな。
変人扱いされることに関しては、もう逆らわないことにしていた。記憶の有無に関係なく、周りの反応で事実だということはなんとなく分かっていたから。けれども慣れるということはなかった。
今も感じている胸の内の罪悪感は、どこか別の人へ向けられたもののようにも思える。室内を見回すついでに、ふいに重なる他人の視線にも遠慮はなく、相手の方でわたしの視線を避けていくように感じられるから、どうやらここでもわたしは変人扱いされたようだ。けだるさが身に感じられるようになり、眠気もしたがい、わたしの感情は平静へと向かっていく。彼はまだ様子をみようと言ってくれたけど、わたしは待合室の不躾な視線に耐えかねていたので、無理に体を起こし、彼に支えられる格好で歩き病院から離れていく。
彼の提案でタクシーをひろうことで、意見は一致した。そうだろう、こんな状態でバスに乗ったらいい見世物になるのは分かりきっている。手だってこんなにふるえ、小刻みに歯軋りまで起こす人を、誰が振り返らずに、ほうっておけるだろう。彼はわたしのためではなく、きっと羞恥の目に晒される彼自身のためにそういってくれたのだろう。どこまでいっても、他人を心の底では信用できないわたしは、満たされるという概念を持たずして育った、かわいそうな人なんだから、自分の一番身近な人を傷つけることでしか、代わりを求められないのは理解している。肝心なことは、感情がいつも先まわりして、わたしに正しい考えをさせないように仕向けてくることだ。わたしはわたしの思惑に逆らえず、自分を持て余す思いに、精神を擦り減らされる生活を強いられているようだ。その、システム化された日常から抜け出すために果たさなければならないことを承知のうえでも、わたしはそれを捨てる決断を下せずに彼と暮らしているじゃないか。わたしは彼に執着しているのではなく、唯、わたしの傍にわたし以外の“におい”が嗅げなくなることに怯えているだけなんだと思う。その点では、彼は無価値ではない、ということができるだろう。では、彼がわたしを手放さない理由はなんなのだろう。
「寒くないか?」
わたしの肩を揺らし、耳障りにならないように小声で訊いてくれる、彼のささやかな配慮は、確かに愛情と呼べなくもない。わたし達の奇妙な関係を知らないなら、きっと、素敵なだんなさま、というのだろう。そのことを考えるとやはり、わたしは第三者からはワルモノでしかなかった。ほんのわずかな誤謬は、つねにわたしを不利に仕立てる材料になって、彼を献身的な夫へと昇華させる。ミラー越しに話しかける運転手も、このからくりを見抜けはしないはずだから、この構図は保たれたままにちがいない。
世の全ての事象がわたしに辛く当たってくるような錯覚に悩まされ、誰も真意を語ってはくれないので、人生のことわりは、わたしには秘め事みたいにひた隠しにされたものに感じられ、それを知ろうとする好奇心ごと叩き割られた、破損品のごとき精神でよく生きてこられたな、とそれまでの人生を顧みても、そのどこにも、幸せになる分岐点を見つけられない。わたしの病気は生まれつきのものであるらしい。
自宅から少し離れた薬局の前で降り、彼が運賃を支払う姿に苛立ち、おぼつかぬ足取りで歩き出す。あわてて追ってくる彼を期待してのことだったけれど、思惑に反し後ろに気配がない。さすがに嫌気がさしたのかと、寂しさが無性に肌恋しさを蘇らせるから、もう強がらずに振り返り、戸惑う彼にかまわず抱きついた。
「すぐそこなんだから、我慢できないのか?わかったから」
彼に絡みついたわたしの両腕を、強引に剥がす腕の力に拒絶を感じ、振り解こうとする彼の腕に爪をたて、思いつく限りの罵声を上げた。今、彼の腕の中で暴れるわたしは、さながら、捕獲された何かの動物じみて見えるだろう。獣みたいに声を張り上げると、頭のてっぺんから不安が抜けていくような感覚があった。その後に表れる脱力感が最低の気分を引き連れてくると、わたしはこの世のすべてに責任を取りたくなる。その辺の車にでも飛び込んでやろうか……。奇怪なものを見る目で、通行人がわたしを視線で咎めようとしてくる。なんでこんな人達に負い目を感じなければならないのか、見知らぬ他人すら敵に思えてしまう。彼の腕が、わたしに息苦しさを与えるつもりなのか、もっと強くまとわりついてくる。
ぐったりと、彼の体を添え木に、わたしはなんとか立っている。彼の存在はどうしてもわたしに必要であるらしかった。不愉快さを感じながらも、頼りにしなければならない存在。それはいつまでも落ち着けない関係をわたし自身に強要することに他ならない。同じように、もう不愉快さを隠しもせず、乱暴にわたしを押さえつけている彼もまた、わたしに依存関係を求めている同類にすぎないのだ。彼の優しさは自分自身へのもので、優しさにみえたそれは、恐ろしいまでに肥大した自尊心の変化したものだった。彼のまやかしのやさしさに隠された“ずるさ”を見抜けることができる人は、わたしの周りにはいない。互いに抜け出せない関係を断ち切る他人の存在が、わたし達には不可欠だというのに。
ようやくおとなしくなったわたしを、両腕の拘束から解放し、やつれた表情で、彼は無言のまま歩き出す。途端にこどもの頃の、親とはぐれた時の、底なしの不安感が襲ってきた。この人とはぐれたらいけない。わたしは必死に彼の背中を追う。夢の中を進むようなもどかしい足取りで、泣き出しそうな気持ちを抑え、しだいに遠ざかる彼を、見失ってはならない、わたしにとって重要な存在であるかのように、彼にすがりつきたいと思った。
先を行く彼は交差点を渡りきり、わたしは取り残された心地から焦りだす。交差点の信号待ちはひどく長く感じられ、消え行く姿の彼を思うと、緊張が極限に達し、たまらずその場にうずくまった。
信号機の根元で、吐き気を堪えきれず、今朝食べたものの一切を吐き出した。吐き出したものは、ジャムまじりの食パンにひたされた安物の紅茶――。液状になったプリンが黒ずんでひどく色味がわるい。吐き出したものはむかしの記憶。こどもの頃の寂しかった思い出。申し訳ないほどに優しく接する両親。両親に罵倒されるわたし。抗いやがて諦めるわたし。たくさんの感情が一度に展開され、閉じ込めておくことができない。さまざまな思い出はさらに吐き出せといっているようだ。わたしは吐き出さずにはいられない。