龍の花嫁
その村は、龍によって支配されていました。
1年に一度、少女を生贄に差し出さなければ、その村を湖に沈めてしまうというのです。
その季節はやってきました。
季節は初夏。
田植えの季節がきたころ、龍に生贄を捧げなければならない娘を決める会議がはじまりました。
その会議は、村の長をはじめ、村を「表向き」にささえている男たちが集まります。
けれど、その会議は名ばかり。
最初から、貧しい家の娘を生贄にささげると決まっているのですから。
会議はすぐにおわりました。
おおよそ、一時間。
その一時間のうちに、白百合の蜜でつくられた酒を4瓶もあけてしまっていました。
酔った男たちは、ようようと家にかえり、ごろりと体を横たえます。
「あなた、今年も生贄の時期がきてしまったわ。私たちの娘も、もう年頃。大丈夫よね? あなた……」
「なあに。今年の生贄の娘はもう決めてあった。今年は、朔の娘だ。あそこの家は貧しく、村にまったく税金をおさめていない。だから、決めたのさ。朔の娘にすると。満場一致で決まったのさ」
「でも、あなた。あそこの娘は、清く、とても働き者の少女。病気がちなお母さんをひとりで支えている、とてもやさしい娘よ」
「だからなんだ。村に、俺たちに金をおさめないものは、村にいる価値もない、ただのタダ飯食らいだよ」
「……でも……」
酔っている男は、横になったまま女房のことばに耳もかしませんでした。
けれど、酔っていたからでしょうか。
その違和感を感じなかったのは。
その日、男の女房は向かいの奥方と隣町に行っていました。
だからここにいるはずがなかったのです――。
夜のうちにその報を受けた朔の家では、ぼろぼろの畳の上に、じかに横たわっている女がいました。体には申し訳程度のあちこちはげている布団がかかっています。
「これで私の病気も治って、こんどこそ――」
ぞっとするような笑みをうかべて、女――朔は天井を見上げていました。
そのそばには、蘇芳色のみすぼらしい黒髪のうつくしい少女がすわっています。
少女はおのれの母に笑いかけ、「はい、おかあさま」と呟きました。
「私が龍の生贄になれば、おかあさまのご病気も、長様がお医者様をやとって治してくださいましょう。そして、おかあさまもよい暮らしができます……」
それが、この村のしきたりでした。
生贄を出した家は、よい暮らしを約束する――と。
うつくしい翡翠色の瞳をそっとゆるめて、病床にいる自らの母にそっと手をつきました。
「おとうさまがお亡くなりになって、早10年。私に力がないばかりに、辛い生活を送らせてしまい、本当に申し訳ありませんでした……。でも、これからは長様がこの先を約束してくださいます。どうぞ、お幸せに。おかあさま」
「本当だよ。おまえがいなかったら、男の一人、つかまえてやったというのに。おまえがいるから、男一人よってこない」
「……」
少女はそっと瞳をふせて、そして家を出て行きました。
みすぼらしいかっこうのまま。
朔の家の前には、ふたりの大男がいました。龍がいる神泉とよばれる湖まで連行するための見張りの男です。
「ははは。今まで見てきたなかで、一番みすぼらしい女だ」
「……。参りましょう」
凜と少女はあごを上げて、なだらかな髪をひとつに結い直しました。
湖までは、1時間はかかります。森の中にある、ちいさな洞窟のさきにあるのが神泉ですが、そこに行くまでは険しい山道を登らなければなりません。
「お前は、死ぬのが怖くないのか?」
暴言をはいた男ではないもう一人の男が、少女に問いました。
山道を歩きはじめた少女は、息を荒げることもなく、ふふ、とほほえみます。
なにがおかしいのか――。男は目を見開き、その少女を見下ろしました。
「なにも、怖いことなどありません。私は、この世に生をうけました。うけたあとは、滅びるのみ。それが今日、ということだけの話なのですから」
「……」
刀を腰に差した男は、ぐっとくちびるを噛みしめました。
なぜ、こんな清らかな少女が、龍の生贄にならねばならないのか――。おそらく、村に税金をおさめていないからだろう、と分かっていながらも、男はそう思わざるをえません。
空は、星が出てきたところでした。
男が少女をそっと見下ろすと、彼女はなだらかなほほえみを浮かべています。
まるで、月のように。
「それでも、すこし、不安はあります」
「何でも言え。俺にできることなら、なんでもしよう」
「こんなにみすぼらしい格好で、龍は私を受け入れてくれるのでしょうか……」
ああ――と、男は思いました。
服装など、どうでもよい。
清いこころさえあれば、神なる龍は受け入れるだろ――と。
けれど、そんなことばは許されませんでした。
きっとそのことばは、少女を不安にさせる。
それに、このあたりには店などどこにもないのです。
「名も知らぬ方。もうひとつ、不安なことがあるのです」
「なんだ?」
「おかあさまのことです。どうか、よい暮らしをさせてあげてください。おかあさまは、私がいたから女の幸せを得ることが出来ませんでした。だから、どうか、どうか。お願いです」
「ああ。それは村の掟だ。だれも、それに異を唱えるものはおらんよ……」
「よかった……」
少女は、こころからそう思っているようでした。
自分の身よりも肉親とは言え、ちがう人間のことを案じるなど――。
男は、悔しく思いました。
こんな少女が、なぜ選ばれたのだろう。
今までの少女は、最後までおのれの身を呪っていたというのに。
月がでてきたころ、とうとう洞窟の前につきました。
注連縄があり、幣がさがっている場所は、生贄の少女しか入ることはまかりならない場所です。
一人の男はどうでもよさそうに、もう一人は哀しそうに少女を見下ろしました。
「着いてきてくださって、ありがとうございます。どうか、母のことをよろしくお願い申し上げます」
「ああ。約束する」
「はい。では、私はこれで神泉の龍の元へむかいます」
男は、目を見張りました。
ぼろぼろの袖から伸びる、病的に白い手が、かすかにふるえている所を見たからでした。
いくな、ということばは許されません。
月のひかりのなか、洞窟に入ってゆく姿を男は、生涯忘れないとかたく誓いました。
もう一人の男は、興味がなさそうにもう、山を下りていきました。
「……」
洞窟をぬけた先には、神泉が広がっていました。
(――ここに、神なる龍がいらっしゃる。)
少女は唯一もってきた数珠を手にかけ、ひたすらに祈りました。
湖には月が揺れるように浮かび、つつじの葉の緑色が濃く見えました。
その葉がかすかに揺れ、はっと少女は顔をあげます。
そこには大きな白い龍が少女をじっと見下ろしていました。
「おまえが、今年の生贄か」
「はい。そうです。神なる龍どの」
黒い眼孔が少女を値踏みするように見下ろし、白い鱗に覆われた足を一歩、少女へ踏み出しました。
「今まで見たなかで、いちばんみすぼらしい格好だな」
「私では、だめでしょうか」
きょとんとした少女は、自らがまとっている蘇芳で染めた着物をつまみました。
「ですが、これが一番ましな格好なのです」
「そうか。まあ、それならそれでいい」
「……?」
くだけた口調の白龍は、長い首を月にむけて、ため息にも似た息を吐きます。
「嫦娥も今日は機嫌がいいようだ。どれ、娘。私とすこし話をしないか」
「え? 私を食べないのですか?」
「私は、この村にきておよそ1000年になる。おまえたち人間にとっては途方もない年月だろう」
少女の問いには答えず、龍は昔話をするよように目を伏せます。
その瞳に、少女は胸の痛みをおぼえました。
この白龍が永遠の孤独を哀しんでいると思ったからです。
「私はまず、村に湖をつくった。それがおまえたちが神泉と呼んでいる、ここだ。そして次に、田を作るための水を作った。私がつくったのはこれだけだ。そして、私は一切おまえたちが住む村にあまり干渉していない」
「……それは、ほんとうのことなのですか? 私は、生贄を出さなければ湖に沈めてしまうと教えられました」
「嘘などつくものか。私は、ずっとここにいた。そして、人間たちを見てきた。ただ――1年に1回、人間に化けて干渉したよ」
「え……?」
「生贄という馬鹿げた習慣をすこしずつ、止めさせようとした。だが、駄目だった。人間は勝手に私に恐怖した。昨日も、村のお偉いさんの女になって、説得をしようとしたが、酔っていたせいで聞き入れなかったよ」
「そんなことが……」
少女はそばにあった岩に座り込み、そしてあることに気づきました。
「では……今までの生贄の少女たちはどうしたのですか? 生贄の風習を馬鹿げたと仰るなら、一体……」
「ああ、簡単なことだ。遠い場所に出したよ。近くの村だと生きているはずのない人間がいると大騒ぎになるだろう?」
なんて、やさしい龍なのだろう――。
少女は岩にすわったまま、ぼうっと龍を見上げました。
そんな龍を、村の人間たちは勝手に恐怖している。
「やさしい方」
「やさしいだと? 人間にそんなことを言われるとはなあ」
「私たち人間が、かってにあなたを恐怖しているなんて、おかしいです」
「龍は、恐れられる存在でちょうどいいさ。さあ、おまえはどこに行きたい? 家族にはもう会わせられんが」
「いいえ。私はここにいます。そして、かわいそうな生贄の少女たちを出さないために、説得しなければ……」
龍は鋭い瞳を見開いて、信じられないことを聞いたように、呆然としています。
「そんなことをすれば、殺されるぞ」
「それも私の運命ならば、致し方ありません」
「私の目の前でだれかが死ぬのは許されん。だから、おまえもどこかへ行ってしまえ。心優しき娘。だからこそ、私の前から消え去ってくれ」
神の龍がちっぽけな人間に懇願するように、首を伏せました。
けれど、凜とした少女はいいえ、とかぶりを振ります。
村に戻ったら、きっともう一度ここに連れてこられ、そして男たちの手で殺されるはずです。
そうしたら、この龍には二度とあえない。
そう思うと、すこしだけ哀しい思いにかられました。
「いやです。白龍さま。私はあなたのおそばにいます。目の前で殺されることが許されないのなら、殺されるときだけ、あなた様のおそばから離れましょう……」
「なぜだ? 娘。私のそばにいたとて、なにもないぞ。ここには人間は来ない。来るはずもない。さみしかろう」
「さみしくなどありません。私はずっとひとりだった。おかあさまはいたけれど、私を愛してはくださらなかった……。あなただけです。私に優しいことばをかけてくださったのは」
「……」
龍は、いったん目を閉じて、三日月がたの瞳孔を月にむけました。
まるで、月にすむ嫦娥さまに伺いをたてるように。
きらきらと月の光に輝く角と黄金色にも見える毛。
少女はそれに見とれました。
こんなうつくしいものを見たことがない――というように。
「分かった、分かったよ。とりあえず、その格好をどうにかしなければな」
「嫦娥さまはお許しになりましたか?」
少女はそっとほほえみました。
この神泉にきて、はじめてのほほえみでした。
龍はそれをまぶしそうに見つめて、大きな口をすこしだけ開きました。
「ああ」
と、ひとこと。
まるで照れているような口調に、少女は再び笑みました。
清らかなほほえみ。
月のように、やさしい光をともすような笑みを少女はしました。
「明日人間に化けて、着物を買ってくる。おまえの好きな色を言え。私が買ってきてやろう」
「そんな。白龍さまにそんなことをさせられません!」
「私が気にするのだ。もし人間がここにきたら、これでは余計目立つ」
そう言われてしまえばなにも言えませんでした。
少女はその夜、龍がどこからか持ってきた麻で編んだ掛け布団をかけて眠りました。
ごわごわとしていたけれど、家にいたころ包まっていた布団より、かなり上等な肌触りで、すぐに眠りに落ちました。
その次の日の昼、約束通り龍は人に化けて、きれいなうすい翡翠色の着物と、金糸で刺繍されたうつくしい帯を買ってきてくれました。
こんな上等な着物を羽織ったことはありません。少女は慎重に袖をとおし、帯を締めました。
木陰でかくれて着付けをした少女は、人の姿のままの龍の前にそっと出ます。
「彼」は、とてもうつくしい青年でした。
すこしだけ長い灰色の髪。
黒い瞳。
鼻筋のすっと通った、きれいな顔。
黒い、まるで喪服のような着流しに、献上帯を締めた男性の前に立って、少女はただ呆然としました。
「あなたは、ほんとうに白龍さまなのですか?」
「そうだ。だが、この姿はあまり好きではない」
そう言うと、あっという間に白龍の姿に変わりました。
「おまえは、人間の姿のままのほうがよかったのか?」
「いいえ」
許可をもらって神泉で洗い流した髪は、つやめいていて、太陽にきらきらと健康的に輝いています。
その髪がそっとゆれて、白龍にほほえみかけました。
彼はその姿を見つめ、安堵しました。
それから、一月がたちました。
夏だというのに、神泉はあまり暑くありません。
「白龍さま。夏だというのに、暑くありませんね?」
「ああ、ここはそう言う場所だ。あまり気にするな」
それでも暑いだろうと、再び村へでて、浴衣を買ってきてくれました。
「白龍さま。ありがとうございます。とても、きれいな浴衣ですね」
「おまえが体調を崩すと困るからな」
白龍は、にっと少女に笑いかけ、湖のそばに寝転がります。そして、その背中に少女は背中をあずけて、たわいもない話をしました。
とても楽しい時間がずっとずっと続きました。
白龍も少女も、たがいに心をあずけていました。
やさしい龍は、少女に寄り添い、昔の話や、毒草と薬草のちがいを教え込みました。
学がなかった少女には、それはどの話も新鮮で、頭の中にしっかりと刻みます。
そして季節はめぐり、冬になったころ、白龍のこころに変化がおとずれました。
――この娘と、ずっとずっと一緒にいたい。
龍は長寿です。あと1000年は生きることができるでしょう。
それでも人間の生として見てしまえば、たった一瞬のことなのです。
それがとても辛く、哀しい。
この感情は、まるでむずかしい迷路のように出口の見えないようなものでした。
「白龍さま、どうされたのですか? 今日は口数が少ないのですね?」
「おまえは知らないだろう。私のこの胸のうちを」
「え?」
「私は、おまえの名も、おまえの好きなものも知らない。それなのに、おまえは出会ったころのまま、変わらない」
「私の名など、よいのです。私は、白龍さまのおそばにいられるだけで十分なのですから……」
そっと、白龍の輝く鱗に触れました。冬だというのにとてもあたたかく感じました。
ああ、この娘とずっと、ずっと一緒に暮らせたなら――。
白龍のこころの変化に気づかないほど、清らかな少女。
その少女に、白龍は告げました。
「おまえを死なせたくない」
「でも、私は人間です。いずれ、死にます」
「だから、おまえに私の血を飲んでほしい」
「血……!?」
少女はくちびるに手をあてて、翡翠色の瞳を見開きます。けれど、白龍は真剣な表情でつづけました。
「龍の血を飲むと、その龍と生死を分かちあえる」
「白龍さま……それは、一体……」
「おまえと婚約したいということだ」
「え!?」
少女の答えを聞かずに、白龍は鱗でおおわれた足を岩にこすりつけました。
すると、そこからわずかな血が流れます。
「白龍さま!」
そこに走りより、その血を着物の袖でぬぐおうとしましたが、彼に制されました。
「やさしい娘。私は、おまえと苦楽を共にしたい。おまえのことをもっと知りたい。おまえがもし、すこしでも私のことを思っていたら、その血を飲んでくれ。これは、私のわがままだ。だから、強要はしない」
「白龍さま……。私は、だれにも愛されませんでした……。おかあさまでさえ。隣人さえ。けれど、あなたさまは……こんな私を愛してくれるのですか?」
「まずは、おまえの名を教えてくれ。ずっと気になっていた。おまえの名のことを」
「……私の名は、水月と申します」
「水月……よい、名だ。水月」
まるで、大切なものの名を呼ぶように、彼は水月、と愛おしげに囁きました。
そして、少女――水月はやっと分かったのです。
愛という名の存在を。
互いに愛す喜びを。
「水月。祝言をあげよう。ふたりだけで」
「……ほんとうに……私でよいのですか? こんな……こんな私で」
「おまえは、うつくしい娘だ。清い娘だ。今までの少女とはまったく違う。違うことを恐れてはいけない。水月。だからこそ、私はおまえを見初めたのだから……」
ほと、と、水月は涙をこぼしました。手のなかにある、少量のやさしい龍の血液。
赤い、きれいな血。
水月は、手のひらのなかの血を、ゆっくりと口のなかに入れました。
心にも体にも違和感はなにもありませんでした。ただ、これでこのやさしい龍と生死をともにできる。
その喜びは、果てのないものでした。
愛されなかった少女。
必要とされなかった少女が、愛されたと実感した瞬間でした。
「な、なぜなく水月。どこか痛むか?」
「いいえ、いいえ。白龍さま。うれしいのです。とても、うれしいのです」
白龍は、おろおろと慌てたあと、ふっと人のかたちをとりました。
そして、泣いている水月を抱き寄せました。
黒いつややかな髪の毛が、白龍の白い頬にふれます。
水月は、感じたことのないやさしい暖かさに目を開きました。
冬だというのに、なぜこんなにもあたたかいいのだろう――。
「水月。私のことを白龍さまと呼ぶのはやめてくれないか。私の真名をおしえよう。だれにも教えたことのない、私のほんとうの名だ」
白龍は、水月にそっと、その真名を告げました。
――「天晧」と。
「尊い名です。天晧さま」
「だから、さまはやめてくれ。天晧でよい」
水月は、宝物をふれるような声で、「天晧」と囁きました。
その一週間後――寒い、けれど月がきれいな夜に、ふたりだけで祝言をあげました。
神泉のなかで。
水月はうまれて初めて紅をつけました。けれど、おしろいは叩きません。なぜなら、そのままでもうつくしい肌をしていたからです。
綿帽子と白無垢を身につけ、ヒトのかたちの天晧は、そっと、いとおしげに水月を抱きしめました。
ただ、それだけでした。
それ以外、なにもいらなかったのです。
きれいな着物も、身につけるきれいな石も、何もいりませんでした。
「ありがとうございます。天晧。私は、これ以上ないくらいに幸せです」
水月がきて一年たったころ、天晧は人間の村に再びおりました。
そして、こう言ったのです。
「神なる龍は、ヒトの命をもう所望でない」と。
もちろん、村人や長は信じませんでした。
けれどその言葉の意味を、村人たちは信じざるを得なかったできごとがありました。
生贄に出したはずの娘が帰ってきたのです。
その娘たちは口々に、こういいました。
「洞窟の中には男の人と女の人がいて、あなたは生きていていいのよ、と言ってくれた」と。
やがて、生贄という馬鹿げた風習は徐々になくなってゆきました。
なぜ、今までそうしなかったのでしょうか。
それは、天晧が寂しかったからです。
ずっとひとりきりだった、孤独な龍。
一年に一回、人間と話すことができる唯一の時間がほしかったのです。
「天晧? どうしたのですか」
「ああ、水月。昔のことを思い出していた。おまえがここに来る前のことだ」
「?」
「私は寂しかった。孤独だった。だから、生贄の少女と話すことで、孤独を紛らわしていたんだ。だから、この悪習を止めることができなかった……」
「だれでも、ひとりはいやなものです。だから、あなたのことを決して責められません。それに、あなたは少女たちを傷つけなかったじゃないですか」
月のようにほほえんだ少女。
龍の花嫁。
やさしい龍と、だれにも愛されず、生きることを諦めていた少女。
彼らは、本当の人間のように幸せに暮らしました。
やがて――その命がつきるまで。
そのときは、ゆっくりとやってきました。
大きなビルが建ち、道路が作られ、林や山が切り落とされたとき、洞窟も取り壊されることになりました。
ふたりはもうヒトのすみかに住めることはできません。
「天晧……。私たちのすみかはもう、なくなってしまうのですね」
「あれから、何百年たっただろう。もう、私たちのような存在は、忘れられているのだろう」
寄り添いながら生きてきたふたり。
人の世から忘れられた龍と、龍の花嫁。
すみかを奪われてしまえば、もうどこにも行く場所がないのです。
「水月」
「はい。天晧」
「もう、この世に未練はない。多くの時間を生きてきたな。たくさんの季節を見てきた。私は、おまえに出会えてよかった。それだけで、幸福だったんだ」
「私もです。多くの花々、多くの生き物のいのちを見送ってきました。一生分以上の幸福をあなたからもらいました。――もう、十分です。天晧」
ふたりは手を繋ぎ、初めて出会ったときのような満月の夜に、神泉に入りました。
数百年前、ふたりだけで祝言をあげたときのように。
やがてふたりは、湖にとけるように消えてゆきました。
ひとりの命はふたりの命。
どちらかが死ねば、どちらかも死ぬ。
あのときからわかりきっていたこと。
だからこそ、幸福でした。出会ってから、最後まで。
孤独な龍と少女は、月の光に誘われるように羽ばたく蝶になり、やがて――月へと消えていきました。