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「しかし全く、昨日はびっくりしたわよ」
翌日の朝。足場に気をつけながら崖を下っているミレナが、後ろを振り向かずに口を開いた。
「ああ、死んでるかと思って本気で心配しちまったぜ」
フォドがうんうんと頷く。
「ごめんごめん、でも僕はエリシアのアレが一番驚いたよ。まさか、あんな凄い術が使えるなんて」
僕の言葉に、彼女はくすぐったそうに笑った。
「いえいえ、そこまで凄いというわけではありませんよ」
治癒魔法を使ってもらった後、夕食の席で僕は彼女に先ほどの力について訊ねた。彼女から聞くところによれば、治癒魔法とは神を信仰する僧侶のみが扱える特別な術なのだそうだ。どうやったら使えるようになるのかと訊ねると、門外不出の術なのだという答えが返ってきた。しかも、強い信仰心が無ければ扱うのは不可能なのだそうだ。他にも色々と聞きたい事が沢山あったのだが、疲労による眠気が襲ってきた為に、僕は食事を取った後すぐ眠ってしまったのだった。
「でも、本当に不思議だなあ。神様を信じるだけで誰かを癒せるようになるなんて」
足を滑らせて崖を転がり落ちないように細心の注意を払いながら、僕は呟く。すると、意外な答えが返ってきた。
「それは天使様のおかげなんですよ」
「え? 天使?」
「はい、天使様です」
治癒魔法と天使がどう結びついているのか全く理解出来ないでいると、僕の意を汲み取ったらしい彼女は解説を始めた。
「私達が人々を癒す力は、全て天使様から授かっているんですよ」
「それじゃあエリシアは天使に出会った事があるの?」
「いえ、会った事はありません。でも、気配を感じた事はあります」
いつの間にか、僕達は崖を下り終えていた。未だに岩だらけの道が続いているが、それでも平地なだけありがたい。前を行く二人の後を追いながら、僕達は会話を続ける。
「気配って事はやっぱり何か分かるの?」
「はっきりとは言えませんが、神様にお祈りを捧げている時とか、神父様と教会の行事を執り行っている時などに感じます」
いまいちピンとこない話ではあるが、エリシアの様子から考えて僕をからかっているようには思えない。となると、やっぱり本当の事なのだろう。
「僕も会ってみたいなあ、その天使とかに」
「僧侶になります? 修行とかありますけど」
首を傾げて可愛らしく訊ねてくるエリシアに、僕は肩を竦めながら答えた。
「うーん、考えてみるよ」
「あ、でも信仰心がないと無理ですからね。上辺だけの言葉じゃなくって、心からの。治癒魔法を使ってみたいからっていう理由は駄目ですよ」
「う……」
どうやら、今の僕は僧侶にはなれないらしい。
流石に昨日は無茶をし過ぎたという自負もあったのだが、みんなが僕に気をつかって適度な休憩を取り入れてくれるようになった事もあって、今日の旅は以前よりかなり楽なものとなっていた。
「しっかし、代わり映えしない風景だなぁ」
つまらなそうにフォドが呟く。彼の言う通り、周囲は岩に岩に岩だらけで、目の保養になるものといえば時折生えている植物くらいなものだ。視界が開けているので魔物の襲撃を察知しやすいのは有利だが、岩陰から奇襲を受ける事も多々あった。
「まあ、変な植物がうようよいる森よりは遙かにマシでしょ」
興味がない様子でミレナが淡々と応答する。
「そりゃあそうだけどさ、おんなじような所を歩き続けてると何か疲れないか?」
「何それ、別に変わんないと思うけど」
「いや、こう、気分転換にならないだろ?」
「歩くのに気分転換?」
訳が分からない、とでも言うようにミレナは肩までかかった橙色の髪を弄り始める。そんな彼女をフォドはジト目で見つめながら、
「お前って、本当に可愛げってもんがないんだな」
と小声で呟いた。
「ん、何か言った?」
「いーや、何も」
怪訝な顔をするミレナに嘘をつきながら、と彼は気だるげに欠伸をする。
「あー、なんか落ちてねえかなー」
「落ちてるけど」
「……え?」
僕の言葉に、ミレナとフォドは同時に声を上げながら振り向く。側にいるエリシアの視線も感じながら、僕は道を逸れた方向を指さした。
「ほら、あそこ」
僕が示した方向の遙か遠くには、岩だらけの地面に何か真っ黒の物体が倒れていた。
「あの」
恐る恐る、といった様子でエリシアが口を開く。
「もしかして人じゃないですか?」
「行ってみようぜ」
僕達四人はすぐに黒い物体の元へ向かう。エリシアの言う通り、倒れているのは紛れもない人間だった。全身を黒のフードですっぽり覆っていて、その為に遠目からだと分かりにくかったのである。
「おいおい、死んじゃいねえだろうな」
狼狽した様子で呟くフォド。ミレナは素早く倒れている人間の体に手をやり、仰向けにした。紫色のぼさぼさ長髪が露わになり、僕はそこでようやくこの人が女性という事に気がついた。とてもあどけない顔つきをしていて、背は低いものの恐らく僕達とそんなに年は離れていないだろう。顔中が汚れだらけで、随分とこの場所をさまよっていたのだろう事は想像に難くない。
「あの、大丈夫ですか?」
エリシアの問いかけに、ようやく気がついたらしい女性はうっすらと目を開いた。そして、僕らが耳を澄ませてようやく聞き取れるような掠れ声で、ゆっくりとこう言ったのだ。
「お腹、減った……」




