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何も考えず、ただ闇雲に走り続け、気づくと僕達は活気溢れる広場までやってきていた。先頭の少年がようやく足を止め、僕とエリシアから手を離す。そして、
「ここまで来れば、そうそう追いかけては来ないだろ」
と、疲れを微塵も感じさせないくらい平然とした口調で呟くように言った。僕の方はというと、今まで知覚していなかった疲労が一気に襲ってきて心臓が痛いくらいに呼吸を弾ませてへばっていた。エリシアも顔を真っ赤にしてぜいぜいと息を切らしていたが、
「あ、あの」
と、掠れるような声色で口を開いた。
「どなたかは知りませんが、助けて下さってありがとうございます」
「ん? いやいやいや。当然の事をしたまでですよ」
彼女のお礼の言葉に、少年は何だかかしこまったような口調で即座に返答する。そして笑顔で彼女に一歩近づき、
「ところで、君って僧侶さんだよね?」
と、気さくに尋ねる。
「あ、はい」
「この町の?」
「いえ、旅の途中です」
「そうなんだ。良かったらちょっとお茶でもどう?」
「え、ええ?」
矢継ぎ早の質問の後に繰り出された何の脈絡も無い誘いに、エリシアは随分と戸惑った表情を浮かべた。そして、それは僕も同様であった。というか、少年は完全に僕の事なんて眼中に無い様子で彼女と喋っているので、ちょっと気に入らない。
「この辺に美味しいパンを焼く店があるんだけど、今から行かない?」
「パ、パンですか?」
パンって何だよ。パンって。僕は心の中で突っ込みを入れた。
それからも少年の誘いはしばらく続いた。どうやら会話の内容から想像するに、彼はエリシアをナンパしたくて僕らを助けただけのようである。彼女の方は断ろうとしている様子だったが、少年の押しは強かった。
「良いじゃん良いじゃん。ちょっとくらい」
「いえ、でも、その」
横目で僕を見る彼女の瞳には、助けを求める言葉にならない声が浮かんでいた。それを見てようやく決心がついた僕は、おずおずと横から少年に話しかける。
「ねえ、ちょっと」
「ん?」
少年はあっさりと僕に振り向く。どうやら意図的に無視していたわけでは無いらしい。そして僕の顔を見つめ、眉を潜めて首を傾げた。
「あれ? お前どっかで……」
やはり記憶の片隅には残っているらしい。僕は前にダンジョンで出会ったという事を伝えようと思い、口を開こうとする。
その時。
「あー!」
と、辺り一杯に響きわたる叫びが耳に入ってきて、僕はすぐに声のした方向へ振り向いた。そこには目を驚愕一杯に見開いたミレナがいた。手に大きな紙袋を抱き、僕の隣にいる少年を凝視している。彼もまた彼女に視線を移し、そしてようやく思い出したらしい。僕とミレナを交互に見やり、しまったとでも言うような表情を浮かべ、
「やべっ!」
と、彼女とは真逆の方向へと駆け出そうとして一旦立ち止まる。そしてエリシアの方を振り返ると、
「それじゃあ僧侶さん、また今度ご縁がありましたら」
との台詞を残して再び走り出し、あっという間に群衆の中へと彼の姿は消えていった。そして、それを黙って見逃せる彼女では無い。
「待ちなさいよ! このドロボー!」
あろう事か道端に紙袋を放り出し、ミレナは猛ダッシュで僕達の側を通り過ぎ、少年を追いかけて自らもまた人々の中に消えていった。それらはほんの数十秒の間に起きた出来事で、僕もエリシアもポカンと彼らの様子を眺めている事しか出来なかった。
やがて彼女より少しだけ早く我に返った僕は、ミレナが放置していった紙袋を拾い上げに行く。数個のリンゴが道に転がってしまっていたが、それらも回収した。少し汚い気もするが、捨てる気は全く起こらない。旅中の食事を振り返ると、ちょっと砂が付着しているくらいなら問題ないくらいだと思った。適当な場所で水洗いすれば良いのだから。安いものである。
「あ、あの」
ようやく自分を取り戻した様子のエリシアがおずおずと声を掛けてくる。
「さっきの人、お知り合いですか?」
「えっと……うん、そんな感じ」
「何だか、ミレナさんがすごく怒ってるように見えましたけど」
「まあ、ちょっと色々あって」
詳しく話した方が良いかとも思ったが、道端で説明するのも何だかと思えたので今は適当に濁しておく事にした。
「そうなんですか……でも、どうしましょう?」
「何の事?」
「あれです」
ミレナが不安げに指し示した方向の先に視線を移すと、広場の向こう側で濛々とした煙が立ち上っている。先ほどまでは気づかなかったが、爆発音も頻繁に起こっていた。もしかして。いや、もしかしなくても原因が恐らくあの二人であろう事は想像に難くない。僕は自然と硬直してしまった。
「すっごい騒ぎになってますけど」
「そ、そうだね」
「止めた方が良いんでしょうか」
沢山の騒音が聞こえてきて、その中から『逃げるな!』や『その物騒な物をしまえよ!』といった、聞き馴染みのある大声が耳に入ってくる。僕はしばらく悩んだ後、肩を竦めて深い息を吐きながら彼女に告げた。
「無理だと思うよ、多分」




