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あの後、少女に窮地を救われた僕は、彼女がキャンプをしていた場所まで連れてこられた。そこは僕が転んだ所のすぐ近くの森の中で、彼女は夕飯の支度をしている途中、聞こえてきたゴブリンの叫びに反応してやってきたのだという。
「食べる?」
焚き火がパチパチと音を立てる中、彼女に明るい声色で問われ、何と答えようか迷っている途中で腹の虫がグゥと音を立てる。思わず僕は赤面してしまった。少女は吹き出していた。
「食べるね?」
「う、うん。ありがとう」
返事をする前に、彼女は僕の両手に野菜の煮込みと思しきスープが入ったお椀とスプーンを押しつけてきた。耐え難い空腹感に押され、僕は彼女に軽く頭を下げて、汁を口元へと運んだ。塩気の効いたスープやジャガイモの欠片が疲労困憊の体に染み渡る。そういえば、あのダンジョンで目覚めてから、これが初めての食事だった。ずっと自分が飢えていたという事を実感する。僕は無我夢中でスプーンを動かした。
「……なんか、すっごく腹が減ってたみたいね」
煮込まれている鍋から自らの分を椀に装っている彼女が、目を丸くして口にする。
「うん、ずっと食べてなかったから」
「名前は? どこの出身?」
浴びせられた質問に対し、僕は言葉に詰まる。どう答えようか悩んだが、正直に答える事にした。
「分かんない」
「分かんない?」
呆気に取られたような表情で、少女は僕を凝視した。
「何それ、記憶喪失って奴?」
「多分、そんな感じだと思う」
僕は今までの経緯を彼女に話した。説明が終わると、彼女は眉をしかめて視線を宙に漂わせる。
「えっと……つまり、アンタは目が覚めた変なダンジョンにいて、そこを脱出したと思ったら変な場所に連れていかれて、それで気がついたらここの草原にいたって事?」
頷くと、彼女は疑いと困惑の入り交じった眼差しを僕に向ける。
「……もしかして、アタシを騙そうとかしてない?」
「そ、そんな事無いよ」
「でもさ、ちょっと突拍子が無さすぎて信じられないんだけど」
まぁ確かに、と少女は肩を竦めて言葉を続ける。
「そんなボロボロの身なりじゃ、普通の人間じゃないって事は分かるけど」
僕は返答に困った。確かにそうだ。行き倒れの人間の言う事を、そうそう簡単に信じれるわけが無い。もしかすると、彼女の中では、僕の事を乞食か何かだと勘違いしているのかもしれない。
「でも、本当の事なんだ」
僕は沈んだ気持ちでそう口にした。彼女はしばらく僕の顔をじっと見つめていたが、やがて、
「ま、嘘言っているような顔にも見えないし、信じても良いかな」
と、屈託なく笑った。僕はその表情に安堵する。
「でも、もしアンタの言う事が本当だとして、これからどうするの?」
「え?」
「だって、記憶が無いんだったら、行く宛も無いんじゃない?」
その通りだ。この少女に信じてもらえても、結局何かが変わったわけじゃない。
考えた末、僕は口を開いた。
「ここの事を教えてもらえないかな」
「ここって、この場所がどこかって事?」
「そういう事とか、この世界の事とか。本当に全然、何も分からないから」
「教えるのは構わないけど」
彼女は首を捻って考え込む。
「どこから話せば良いんだろ……とにかく、ここはメリスティア王国の領地内よ」
聞き慣れない片仮名の単語に僕は戸惑う。
「王国?」
「そ、大陸の南側に位置してる王国。その中でも最南端の外れって感じだけど。ほら、ずっと草原とかばっかで町とか村とか見当たらないでしょ?」
「確かに……でもそれなら、君はどうしてこんな辺鄙な場所にいたの?」
「修行の為よ」
「修行?」
「アタシは一流の剣士を目指してるから」
と、彼女は得意げな笑みを浮かべて胸を張った。
「人々が近寄らなさそうな場所を探索して金目の物を売ったりとか、村を困らせている魔物を倒したりとか、そうやって生計立てながらあちこち旅してまわっているってわけ」
人々が近寄らなさそうな場所、というフレーズが妙に頭に入ってきた。
「今までに土と岩で出来ている迷宮とか見かけた?」
「そりゃ見かけてきたけど、そういうのって沢山あるから、アンタが倒れてたっていう場所は分からないよ」
どうやら、あの場所を調べる手がかりにはならないようだ。落胆しつつも、僕は別の質問をする。
「じゃあ、その魔物って奴だけど、それってさっきのゴブリンみたいな感じの奴?」
「そりゃあね。さっきのはかなり弱い奴だけど」
――その『かなり弱い奴』に僕は倒されまくってたんですが。
彼女があっさりと口にした言葉が、僕の心に重くのし掛かる。
「他に聞きたい事とかある?」
彼女に訊ねられたが、急に色々な事を知って頭がパンクしかけていた僕は首を横に振った。
「それじゃ、アタシから質問なんだけど。アンタ、これからどうするわけ?」
「え?」
「だって、ゴブリンにも勝てないんでしょ? アタシと別れて大丈夫なの?」
「……う」
正直、生き残る自信が全く無かった。
僕の反応が予想できていたのか、彼女は小さく息を吐いて目を瞑り、腕組みをして考え込む。しばらくして、彼女は口を開いた。
「じゃ、取りあえずアタシと来る?」
いきなりの提案に、僕は戸惑った。
「……いいの?」
彼女は目を開き、困ったような表情で頬を掻いた。
「だって、ここにアンタを置き去りにするわけにもいかないでしょ?」
ただし、と彼女は僕に人差し指を突きつける。
「タダでご飯はあげられないから、しっかりと旅の手伝いはしてもらうけど、それでもいい?」
断る理由なんて無い。僕は感謝の気持ちを込めて頷いた。
「勿論だよ、ありがとう」
「それじゃ、決まりね。アタシの名前はミレナ」
「僕は……あっ」
名乗ろうとした所で、僕は自分の名前が分からない事を思い出した。彼女が瞬きをして、あっ、と納得したような声を洩らす。
「そういえば、記憶無いんだっけ」
「う、うん」
彼女はしばらく視線を宙にさまよわせ、やがて右手を差し出した。
「……それじゃ、まあ、取りあえず握手!」
僕は一瞬の躊躇いの後、自らの手を出す。彼女の手を握りしめた途端、普段剣を扱っているとは思えない程に柔らかい肌の感触がした。
「それじゃ、これからよろしく!」
満面の笑みを浮かべた彼女に、僕もまた微笑みを返した。
「うん……よろしく!」