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荒れた足場に苦戦しながら、僕は林を進んでいく魔物を追跡した。体の殆どが緑色をしている巨大蟷螂は当然ながら木々の中に紛れやすく、僕は何度も敵の後ろ姿をすぐに見失ってしまいそうになった。
――ここを通るということは……。
標的から注意を切らさないようにしつつ、頭の片隅で思案を巡らす。この林道の先に存在するのは、一つの建物だけ。少し前に僕とエリシアが訪れた、『アイレーヌの輝石』の保存されてある神殿だ。もし敵が何らかの意図に基づいて歩いているのだとしたら、目的地は十中八九、その神殿ということになる。
――でも、何の為に?
林を抜けると、連なる石の柱が再び僕を出迎えた。そして、魔物は一度も立ち止まることなく、そびえる建造物を目指して歩みを進めていく。
遠目から見ても、建物の中が無人であるとハッキリ分かった。聖堂と同様に避難は完了しているらしい。
――どうしよう。
救援を呼ぶべきか。僕はひどく悩まされる。ブレイドマンティスと交戦状態に入ったり、急を要する事態に陥った場合、合図として頭上に魔法を打ち上げろとは聞かされていた。今が、その時なのだろうか。魔物は、明らかに神殿の内部へ侵入しようとしている。もし、『アイレーヌの輝石』が運び出されていなかったら、貴重な過去の遺産が破壊されてしまうかもしれない。
――もしかして、それが狙い?
そこまで思案を巡らせた、その時だった。
カツンという甲高い音と共に、思わず蹴り飛ばしてしまった小石が、転々と地面の上を走っていく。
――あっ。
しまった、と思った時には既に遅かった。
小さな物音を聞き逃してはくれなかった敵が、ゆっくりとこちらを振り向く。
毒々しいほどに赤く染まった二つの瞳が、僕を視界に捉えた。
――落ち着け、落ち着け。
動揺している自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。庭園に侵入してから現在に至るまで、相手は『進路の邪魔だった』者や『明確に敵対の意を示した』者にしか攻撃を仕掛けてはいない。不用意な物音で尾行を気づかれてしまったとはいえ、今の僕はこの二つの条件をどちらとも満たしていない筈だ。
――このまま変な動きを見せなければ、大丈夫。
そう信じて、背中を向けて逃げ出したくなる衝動を懸命に堪える。
だが、相手の反応は予想外のものだった。
――あれ?
思わず、目を瞬かせる。ブレイドマンティスは僕を視界に捉えたまま、微動だにせず沈黙を保ち続けているのだ。
興味を失って身を翻すこともなければ、刃を振り上げて襲いかかってくることもない。
まるで糸が切れたかのように、じっとその場に立ち尽くしている。
――どうしたんだろう?
意を決して、ほんの少しだけ近寄ってみた。やはり、相手は動かない。死んでしまったのかとも思ったが、先ほどあんなに見事な跳躍をしてみせていたのに、そういった事態は考えづらい。
何が起きたのかと困惑していると、毒々しい紅の視線が、僕を見据える。
明らかな敵意をこめた眼差しが、そこにはあった。
途端、背筋にゾクリと寒気が走る。
――えっ……?
妙な反応に当惑していると、急に状況が動いた。
「……うわっ!」
思わず叫び声を上げて、横に身をかわした。突然、ブレイドマンティスが刃を掲げながら僕の方へと突進してきたのだ。
何とか間一髪で攻撃を回避したものの、後一歩でも反応が遅れていたなら、僕の命は既に無かっただろう。
理由は分からないが、僕が敵の『標的』となってしまったのは間違いなかった。
――マズい!
このまま、何もせずやられるわけにはいかない。かといって、単独で戦って生き残れるほど弱い相手ではないことは、前の戦いで分かっていた。僕は急いで魔法を唱え、自分の頭上に向かって『ロック』を放つ。幾つもの岩石が、青い空高くに打ち上げられた。もし、あの僧が別の仲間に合図について知らせているなら、確実に助けは来る。そうでなくても、誰か一人でも異変に気づいてくれれば、様子を見に来てくれるかもしれない。
――とにかく、助けが来るまでは生き延びないと……!
大剣を構え、僕は体勢を整えようとする。が、敵の攻撃は素早かった。
「くっ!」
二回目の突撃が、殆ど時間を置かずに迫ってくる。慌てて剣で体を庇った。銀色に光る刃と刃が、耳をつんざくような反響音を立てて激突する。しかし、鍔迫り合いはすぐに終わった。巨大蟷螂は突っ込んできた勢いを殺さないまま、僕の横を通り過ぎていったからだ。
敵の体を取り巻く黒ずんだ紫のオーラが、頬を掠める。
その瞬間、ぞわりと身の毛のよだつ嫌な感覚が、僕の全身を走った。
――何だ……?
動揺しつつも、僕は急いで振り向く。相手もまた、同じように体を反転させていた。元々の種の性質か、それとも纏っているオーラの影響か、やはり動きが素早い。一筋縄ではいかない相手だ。
――それにしても……さっきの感じって……。
余計な事を考えていられる状況ではないと分かっていても、先ほどの嫌な感覚が頭にこびりついていた。
――邪悪。
まさにその二文字がふさわしい、人の心に恐怖を植え付けるような、少し触れただけで気を狂わせられるような、そんな感覚だった。
たとえ根拠が無くても、今ならハッキリと分かる。
――このオーラが魔物を操っているんだ。
そう心中で呟いた途端、首筋を冷たい汗が伝った。




