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突然の事に、僕は戸惑った。やっとダンジョンの地下一階を突破したかと思えば、光輝く異様な雰囲気の場所に送られ、そして現在の僕が立っているのは。
「ここが、地上……?」
呟きと共に、僕は周囲を見渡す。名も知れない草花が生い茂っている草原。頭上には爽やかな青空の中にふわふわとした白雲が浮かんでいて、眩しい輝きを放つ太陽の下、小鳥達が可愛らしい鳴き声を上げながら飛び回っている。遠くには緑溢れる山々が映り、穏やかな微風が肌に心地よい。ふと足元を見ると、アリ達がせっせと何かを巣の中に運んでいるのが目に入った。しかし、僕が上ってきた筈の階段は影も形も見当たらない。何度か踏みならしてみたけれど、地面は完全に硬い土で出来ていた。更に、あの掲示板の言葉通り、輝く石に木の棒、そして力の草といった、衣服以外の持ち物は全て無くなっていた。
どうやら、今度こそ本当に地上に出たようだとは確信したが、ようやくあの迷宮を脱出出来たという安堵の気持ちとは別に、新たな疑問の種も芽生えてくる。一体、あのダンジョンはどんな場所だったのか。掲示板に文章を書き残していたのはどんな人物だったのか。そして、僕自身はどんな過去を秘めているのか。様々な謎が僕の頭を駆け回っては離れない。
「うーん、どうせ考えても分かんない事だし、ひとまず置いておこう」
それより、と僕は辺りを見回す。
「これから、どうしよう……?」
周りは自然だらけで、人の姿も見えなければ、町と思しき場所も見当たらない。ここがどこかも分からない。ついでに立て札も無い。
つまり、自分が何をすれば良いのか、全くもって検討がつかないのだ。
僕はしばらく、その場で腕組みして考え込んでいたが、
「とにかく、歩いてみようかな」
と、草の中に一歩を踏み出した。
土と岩が大半を占めていた息苦しいダンジョンの中とは違い、草原は色とりどりな風景で満たされていた。草木の緑や茶、空の青や白、時折姿を見せては逃げ去っていく小動物やカラフルに咲き誇っている花など、今までとは違う新鮮な雰囲気が僕の心を和やかにさせる。
しばらくは、辺りの散策を楽しむ余裕があった。
しかし、だんだんと空が朱みがかり、陽が沈み始めた頃。
僕はふらついた足取りで腹を抱えながら苦しんでいた。
「お腹空いた……」
よくよく考えると、あのダンジョンの地下二階以降、一度もやられていない。今までは神経が高ぶっていたので気にならなかったのかもしれないあ、心がリラックスしてくると途端に空腹が押し寄せてきた。
何か食べ物はないかとキョロキョロ視線を動かしたが、実が生っているような植物は残念ながら見当たらない。今の身体ではすばしっこそうな小動物を捕まえるのは至難の技だろうし、昆虫の類は絶対に口にしたくない。まさに食糧難である。
「あの木の棒があれば、少しは歩くのも楽になるのになあ……」
倒れてしまえば、立ちつくしていた場所からやり直せるだろうか、とふと思う。けれども、ここはあの迷宮の中とは違う。死んだら少し戻って再スタート出来るなんて便利な事がある筈ない。万に一つの可能性はなくはないけれど、確証無しに試すのは危険だ。
栄養が行き渡っていない頭を必死で回転させながら歩いていると、聞き慣れた声がした。
「ゴブ」
「……げっ」
声の方向を振り向くと、そこには散々ダンジョンの中で手こずらされたアイツがいた。
そう、ゴブリンである。
「ゴブー!」
そして、前と同じくお馴染みの棍棒を振り回しながら、僕に向かって走り出してきた。
捕まれば、どうなるかは身に染みて分かっている。僕は疲労が溜まった身体を無理に動かして、ダッシュした。
――ち、地上でもこんな目に遭うの!?
息を切らせながら、心の中で叫ぶ。実際に口にする余裕すら無かった。
しかし、どんなに死に物狂いで走っても、ゴブリンを振り切る事が出来ない。ここはダンジョン内のように通路があるわけでもなく平野だし、命綱だった木の棒すら無くなっている。
僕に出来るのは、とにかく走り続ける事だけだった。けれど、元々の体力が少ない上に空腹状態だから、僕の足は徐々に、けれども確実に回転のペースが落ちていく。
そしてとうとう、地面に落ちていた小石に躓いて、僕は盛大に地面に転んだ。
「うわっ!」
体をひどく打ってしまい、起き上がろうとするが、ゴブリンの姿がすぐそこまで迫ってきていた。
――もう、駄目だ。
せっかくダンジョンを脱出したのに、こんなに早く死んでしまうなんて。悔しい気持ちが胸にこみ上げてくる中、僕は両目を瞑った。死ぬときはせめて一思いにやってほしいと願った。
「ゴブー!」
勝ち誇ったようなゴブリンの大声が耳に届いてくる。
しかし、次の瞬間、僕は別の叫び声を聞いた。
「てやあっ!」
「ゴ、ゴブッ!?」
ゴブリンの戸惑ったような悲鳴に続き、鋭い刃物が柔らかい肉を切ったような音がする。
恐る恐る、目を開く。僕を襲ってきていたゴブリンは、体を真っ二つに引き裂かれ、血だらけで地面に転がっていた。どうやら、既に死に絶えているようだ。
その脇には、両手で血塗れの剣を構えている少女の姿があった。肩の辺りまで伸ばされた髪は明るい橙色で、着ているのは可愛らしくも頑丈そうな軽装の鎧。背丈は男にしては小柄な僕と同じくらいだろう。活発そうな顔立ちをしているが、ゴブリンの死体を凝視している両目はパッチリとしていて愛嬌がある。血だらけの剣は銀色をしていて、小振りで細身の扱いやすそうな形状をしていた。
僕は呆気に取られて、ゴブリンを倒してくれた少女を見つめていた。しばらくして、少女は僕に視線を移す。そして、彼女は僕の体を頭のてっぺんから足の爪先まで眺めまわした後、困惑の表情を浮かべてこう口を開いたのだ。
「……アンタ、色々と大丈夫?」