19
「……え?」
「どうしたんですか?」
急に周りをキョロキョロしだした僕を、エリシアが目を瞬かせて見つめてくる。
「ん、いや……」
辺りに人影が全く見当たらないのを確認した後、僕は先ほどの声に何ともいえない不気味さを感じながら、彼女に問いかけた。
「今、人の声がしなかった?」
「人の声……?」
僕の質問に対し、エリシアは困惑の表情を浮かべて、
「いいえ、私は何も……レンさんの耳には何か聞こえたんですか?」
「……ううん。多分、空耳だったんだ。気にしなくていいよ」
僕は彼女に余計な心配をかけないよう、朗らかな調子を装って首を振った。エリシアの手前、あのように告げたものの、余りにも生々しい響きだった。正直、とても幻聴とは思えない。
エリシアは怪訝そうな顔をしたものの、深く問いつめてはこなかった。少女はすぐに別のことについて話し始め、僕も彼女の話題に乗る。表面上、森の中は穏和な雰囲気をすぐに取り戻した。
しかし、僕の心中には釈然としない気持ちが、未だ暗雲として立ちこめ続ける。
――さっきのは一体何だったんだろう……誰が呟いていたんだろう。
自然と、大剣を握る手に力がこもっていた。
林道を抜け、そびえる聖堂の表側にまわったとき、僕はホッと胸を撫でおろした。ようやく、あの薄気味悪い場所から抜けられたという実感が湧いてきたからだ。
聖堂を去った後、僕達は再び各所を巡る為、広大な花畑に囲まれた道に再び足を踏み入れた。それから暫くはハプニングも起こることなく、庭園にふさわしい温かで穏和なムードの中で観光を楽しむことが出来、先ほど聞いた奇妙な幻聴のことはいつの間にか、僕の脳内から綺麗さっぱり消え失せてしまっていた。
しかし、僕達が立ち寄った土産物屋でミレナ達へのおみやげを物色している頃、第二の異変が起きた。気づいたのはエリシアだった。
「レンさん、何だか様子が変です」
「え?」
花の蜜で作ったというクッキーの箱を手に取って眺めていた僕は、彼女の声で店の外へ視線を移した。確かに、何か様子がおかしかった。この一帯は花畑の中でも特に景色が綺麗で、そのせいか辺りを歩き回る観光客の姿も多かったのだが、その彼らが血相を変えて、一目散に同じ方向へと走っていたのだ。まるで、恐ろしい何かから逃げているかのように。
僕達と同じく異常を察知したらしい女性の僧が、慌てて土産物屋から飛び出して呼びかける。
「皆さん、落ち着いて下さい! 何があったんですか!?」
しかし、耳を貸す者は誰一人としていなかった。皆、我先に我先にと、人でごった返す道を進もうとする。中には周りを押し退けてでも前に進もうとする若者すらいて、道の端にいた体の弱そうな老人が花畑の方へ突き飛ばされたりしていた。見かねた僧侶達が駆け寄っていったが、こうしている間にも道の渋滞は悪化の一途を辿っている。このままいけば、一人が倒れた連鎖反応で全員がバランスを崩し、最悪死者が出る可能性もあるだろう。
「今、あっちに行くのは止めといた方が良さそうだね」
罵声すら飛び交っている道の方を眺めながら、僕は言った。係の僧侶達が倒れている者を助け起こしたり、事情を大声で問いかけていたりしていたが、パニック状態になっているらしい人々は耳も貸さず、ひたすら先を急ぎ続ける。僕らの見ている前で、僧侶の女性が一人、とうとう巻き添えを食らって道に倒れてしまった。
「大丈夫でしょうか」
心配そうに、エリシアが呟く。
「無事かどうか分からないけど、僕達が助けに行っても、事態を悪化させてしまうだけだと思う」
「でも」
「仕方ないよ、あの人のことは同僚の人達に任せておこう」
「……そうですね、足手まといになっちゃうかもしれませんし」
ちょうど、男性の僧が彼女を助け起こそうと駆け寄るところだった。
「私達も、この場を離れた方がいいんでしょうか」
「でも、道はあんな風になってるしなぁ」
この店に通じている道は一本しかなく、後は花畑に囲まれていた。つまり、現在の僕達はこの場所に閉じこめられているも同然の状況に陥っている。
――取りあえず、この騒ぎが収まるまで待つ?
そう、僕がエリシアに提案しようとした、まさにその瞬間。
「キャアアアア!」
僕らの方へ人々がなだれ込んでくる方角から、甲高い女性の叫び声が辺り一面に響きわたった。周囲の迷惑もお構いなしに進もうとしていた客達も、必死で彼らを制止しようとしていた僧達も、ギョッとした表情で一斉に後ろを振り向く。
罵詈雑言の飛び交う喧噪に包まれていた花畑が、刹那の間だけ静寂を取り戻した。
その直後。
「すぐそこまで来てるぞ!」
「何人かやられた!」
「逃げろー!」
「早く進めよ!」
「もうイヤアアア!」
矢継ぎ早に悲鳴が飛び交い始め、辛うじて保たれていた秩序は呆気なく崩壊した。咳を切ったように長い行列はまとまりを失い、人々は我先にと四方八方に逃げていく。
「あっ……」
「御花畑が……」
僕とエリシアは眼前の光景に絶句してしまった。この世の美しかった花壇は理性を失った者達にによって踏み荒らされていき、見るも無惨な姿に変えられていく。植物達は踏みつぶされ、葉や花弁を散らされ、庭園を彩っていた美しい色合いもまた、跳ね上がった土によって汚されていった。
そして、遂に騒動の発端となった『元凶』が、僕達の前に姿を現す。




