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いきなりの騒ぎを聞いて、僕の思考はすっかりイルラミレの摩訶不思議な言葉どころじゃなくなっていた。
「んー、また始まったわね」
喧噪の訳を理解した様子で小さく首を縦に振る彼女に、僕は素朴な質問をぶつける。
「何かあったんですか?」
「そんなに心配する事でもないわよ。簡単に言えば、お金のない人達が店の物を盗んでいってるの」
彼女の話によれば、王都トルヴァーラでこのような騒動は珍しい事でも何でもないらしい。ひもじい生活を送っている人間が裕福な商店の品物や売上金を盗んで逃走を計るのは日常茶飯事なのだそうだ。ただ、大抵の場合は店主や町民、それに通報を受け駆けつけた兵士達に捕縛されてしまうのだという。
「ま、ここら辺の店はほとんど経営が順調みたいだし、ちょっとやそっと小銭を盗まれたくらいじゃ傾かないでしょうけど……最近はなかなかに手強い盗人さんが現れたみたいでね。みんな苦労してるみたいなのよ」
――もしかして、さっきの話に出てきた『貧民街の魔術師崩れ』って人の事なのかな。
頭の中でそんな推測を立てたと同時に、新たな疑問が首をもたげる。
「あの『貧民街』ってどこですか?」
「うーん、解説するのは気が進まないけど」
気乗りしない様子で彼女が語るところによれば、王都にはかつて商業や行事の中心となっていた『旧市街』と呼ばれる場所が存在するのだそうだ。しかし、段々と他の地域が開発されていくにつれ、立地があまりに不便だったそこは時代が経つにつれて寂れていき、いつしか貧しく行き場のない人々で溢れかえるような所となった。そして、心無い人々から侮蔑の意味も含め『貧民街』という不名誉な呼称をされるようになったのだという。
「……まあ、人が集まる場所なら自ずと出来るような地域なのよ。しょうがないと言えばしょうがないわ」
話を聞いて少なからずショックを受けた僕を慰めるかのように、イルラミレは最後をそう締めくくった。気を取り直した僕は再び訊ねる。
「じゃあ、『魔術師崩れ』って?」
「そっちはそのままの意味で……あら」
何かに気づいたように、彼女は僕から目線を外し、通りの方を見やる。
「ほら、ずばり本人がやってきたわよ」
「え?」
つられ、僕も彼女の視線を辿る。両側に様々な店が並ぶ道を、怪しげな格好をした人物が走ってきていた。茶色く薄汚れたフードを羽織り、頭を含めた身体の大部分を覆っている。体格は細目だが、顔がよく見えないので男か女か判断がつかない。けれど身長から考えて、何となく僕らと同じくらいの子供なのだろうとは思った。足には擦り切れたブーツを履いていた。両手一杯に何かの入った紙袋を抱えていて、恐らくはあれが盗んだ物品なのだろう。後ろからは手に木の棒を振り上げた中年男性ら幾人かが足音荒く謎の人物を追っていて、誰もが罵声を口にしながら血眼で盗人を睨みつけている。恐らくは被害にあった店の人達や騒ぎを聞きつけた知り合い達だろう。
――あの人が、『魔術師崩れ』なのかな。
イルラミレの口振りからして、恐らくはそうなのだろう。謎の人物は僕達の方に近づいてきているのだが、不思議な事に盗人の進路を阻もうとするものは皆無だった。誰もが猛獣を避けるかのように道の端っこに退いている。面倒に巻き込まれるのはゴメンだ、という考えなのだろうか。とにかく、盗人は誰にも邪魔される事なく逃走を続けていた。
――でも、かなり疲れてるような気がする。
確かに表情は伺えないのだが、荒々しい呼吸である事は遠目でも何となく察せられた。懸命に動かされている足も心なしかよろめいているように見える。このままでは、体力に勝る大人達に追いつかれるのは必至だ。
「危ないから私達も下がるわよ」
「は、はい」
立ち上がったイルラミレの言葉を受け、僕は少し道から離れる。店自体が通りの脇に設置されていたので、あまり移動は出来なかったけれど。
そしてとうとう、問題の人物が僕達の目と鼻の先に近づいてくる。その時、僕は奇妙な違和感に襲われた。
――あれ、何だかずっと見つめられているような……。
勿論、フードを被っている顔は影に隠れていて伺い知る事は出来ない。けれど、その中で確かに光りを放っている二つの瞳が、僕に向けられているような気がしたのだ。
そして、盗人が僕達の側を通り過ぎようとした、まさにその瞬間。
僕は、勢いよく伸ばされた謎の人物の左手によって引き寄せられた。
「わっ!」
小さく悲鳴を上げるも、時既に遅し。盗人は右手で紙袋を抱え込み、左手を曲げて僕の首を締め付ける。
そして、その男とも女とも分からない誰かがボソボソと何やら呟いた直後。
――え?
いきなりの事態に戸惑う僕の顔には、鋭く尖った氷柱が当てられていた。
――これ、一体どこから……。
不思議に思ったのも束の間、どこかで同じような物体を目にした事を僕は思い出す。そう、あれはミレナと旅を始めたばかりの、奇妙な建物の内部で遭遇したモンスター。アイスベアーと戦った時だ。
そして僕はようやく『魔術師崩れ』の言葉の意味を悟る。
――もしかして、魔法?
「……動かないでね」
謎の人物が耳元で囁いた低く押し殺したような声だけは、ハッキリと僕の脳内に反響していた。




