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「綺麗な部屋が、こんなに嬉しいなんて……」
地下四階に到着した途端、僕は肩の荷がすっと降りるのを感じる。しかし次の瞬間、僕は地下五階の時と同じように目を丸くした。
「今度は、水……?」
そう、今までは土と岩で構成された茶色の目立つダンジョンだったが、この階層は今までと少し異なった作りになっている。まず、階段を上がった所が小部屋になっている事は変わりないのだが、いつもなら通路が続いているべき場所には壁が一切無く、代わりに辺り一面水が張ってある。遠目からだとよく分からないが、僕の持つ石の光に照らされている印象では、かなりの深さのような気がする。そして、ぎりぎり僕が通れそうな横幅の岩道が一つだけ、まるで水面に浮いているかのように伸びている。まるで水の上に迷路が出来ているような光景だ。
「こういう時は掲示板だ」
僕は立て札に近寄って手を触れる。
「忘れずにタッチ、っと」
『ちょー重要な掲示板! その9』
『ついに峠を越えた愛しの君へ。
地下四階、到達おめでとう!
下の階は倒されずに突破出来たかい?
もしそうであるなら、自信を持って良いよ。そうでないなら、今度こそは一度で攻略しようと頑張ってね。
この階は見ての通り、今までとは打って変わってダンジョン内には水路が張り巡らされている。水中には魚がいるんだけど、ここまで来た君なら、その生物が普通じゃない事くらいは分かるよね。そう、ここの水路に住んでいる魚達はみんな凶暴だ。更に、跳躍力もある。君が道を進もうとすれば、水中に引きずり込もうと躍起になって襲いかかってくるだろう。彼らの庭に落ちたら最後、今の君が助かる術は皆無だろう。
狭い道の上を、敵の攻撃を避けながら進んでいくのが今回の試練だよ。ヒントとしては、とにかく慎重で冷静な対応を心がける事だね。
さあ、地下三階目指してファイトだ!
追記
持ち物を水の中に落としてしまったら、戻ってこないからね。
落とし物には十分御注意を。』
「……今度は、魚かぁ」
僕は道の方を振り向く。生き物の姿は見られず、水面は静かに波を打っているだけだ。
水際に近寄って、しゃがみ込む。光る石で水中を照らしてみても、泥か何かで濁りきっていて肉眼では底が知れない。
「どれくらい、深いんだろう……」
ひょっとしたら、目の前の水面は深海のような場所まで続いているのかもしれない。
――水の中に落ちてしまって、意識を保ったまま深い所まで沈んでしまったら。もしそこで自らの体の一回りも二回りも大きい生物に遭遇してしまったら。
そう思うと、なんだか急に怖くなってきた。
「底が見えないって、なんか恐ろしいな……あれ?」
急に目の前の水面が小さく揺れ始める。
次の瞬間、バシャという水音と共に、凶暴な面構えをした魚が僕の顔面めがけて飛び出してきた。僕の太ももの二倍か三倍くらいはあるといったサイズだ。
僕は大きく仰け反って、紙一重でそれを避ける。
「うわっ!」
尻餅をついたが、何とか顔は無事だった。魚の方はジャンプした後に床を尾で叩き、その勢いで水の中へと戻っていった。再度バシャという音が辺りに響いた後、水面は元の静けさを取り戻した。
「あ、危なかった……」
血の気が引いているのを実感する。少し気づくのが遅かったら、僕はどうなっていたのだろうか。水中にあんなのがうようよしているのなら、考えるだけでも末恐ろしい。先ほどのよりももっと大きいのがいたら。そんな事は想像したくもない。
「でも、地下五階は倒されずに済んだんだ。ここだって」
よくよく考えると、一度もやられずに階段を上ってこれたのは、先ほどが初かもしれない。少しは成長してきたんだと、ささやかな実感が胸の内に湧いてくる。僕は両目を瞑り、しばらく気持ちを落ち着けてから再び開いた。
「よし、頑張るぞ」
かけ声と共に、僕は水上の狭い道の上へと足を伸ばした。
「なんだか、前回とは違った意味で不気味だな……」
一歩でも左右に進めば水の中といった狭い岩の上を歩いていく。当然の事ながら、周囲の大部分を水路に囲まれている状況だ。濁った水面から、いつ敵が姿を現すか気が気でない。時折に上ってくる泡にさえ、危機感を覚えてしまうくらいである。
――もし、水の中に石を落としてしまったら。
そんな想像が脳裏をよぎり、自然とそれを握っている右手にいっそう力が入る。真っ暗闇の中でこんな場所を通るなんて真っ平御免だ。
しかしよくよく考えると、それでは一回落ちただけでゲームオーバーみたいなものだ。水中で襲われている間でも、ずっと手に力を込められている自信は無い。
「……っと、悪い方に考えるのはよそう」
首を振って、嫌な想像を頭から追い出す。
同時に、左側の水面が激しく泡立ち、一匹の魚が僕をめがけて飛びかかってきた。
「わわっ!」
狭い足場では、進むか下がるかしか道は無い。僕は前に走って突進を避けたが、濡れた岩に滑り、勢い余って道を踏み外しそうになる。木の棒を投げだし地面に手をついて、僕は九死に一生を得た。
「危なかった……」
いくら裸足といっても、水浸しの地面は滑りやすいものだ。足下にも十分注意しなければならないと痛感する。
水にプカプカ浮いている木の棒の先は未だ道の上だったので、迷った末に拾っておく事にした。今は役立たずだけれども、ここで手放すのは良くないと思ったからだ。この階を突破しても、まだまだ先は長い。淡い光の先に見える、水路に長く続く細い道を眺めて、僕は背筋を引き締めた。
サメのような巨大なモンスターが体当たりしてきたらどうしようかと危惧していたのだが、どうやらその心配は不要だったらしい。この水路に生息しているのは、先の階層と同じく一種類の魚だけらしかった。だいたいは単発で襲いかかってきたが、中には時間差をつけて数匹で攻撃を仕掛けてくるものもいた。僕は必死の思いで慣れない足場にしがみつき、道から転落させようとしてくる彼らの猛攻を耐えしのいだ。
ゴールに辿り着いた時には、たいして走ってもいないのに僕の両足はひどく疲労していた。
ともかく、僕は地下四階もなんとか無事に突破する事が出来たのである。