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階段を上り終えた途端、僕は凍り付いた。物理的にではなく、精神的にだ。
「なに……これ……?」
部屋の中、そして垣間見える通路の方まで、所々に白い糸が張り巡らされている。糸とはっきり分かるものもあれば、絡まり合い過ぎて繭状と化しているものもあった。
「蜘蛛の巣……」
僕は連想した言葉を自然と口に出していた。巣の主が近くにいやしないかと心配になって見回したが、どうやらここにはいないようだ。
掲示板も糸にくるまれていて、僕は嫌々ながらも木の棒を使ってそれらを払った。勿論、立て札に手を触れておく事も忘れない。
『ちょー重要な掲示板! その8』
『順調にダンジョンを攻略しつつある愛しの君へ。
地下五階、到達おめでとう!
もしかすると、地下六階は難なく切り抜けているかもしれないね。
これで君はこのダンジョン中、約半分の階層をクリアした事になる。
そろそろ、冒険のやり方も身に染みてきたんじゃないかな。
さて、この階からは今までとは違って、スライムもゴブリンも出てこない。次のステップに進むよ。
これからは『死んで覚える』じゃなくて、『死なないように進む』事を心がけてほしい。一回の挑戦で上の階層までたどり着くつもりで望んでね。
さて、それでは新たなモンスター……というよりはこの階層の説明を始めるよ。
君も既に気づいているだろうと思うけど、地下五階には至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされている。巣だけじゃない、勿論の事だけど主もいるよ。うじゃうじゃとね。
さて、この階では彼らに倒されないように階段までたどり着くんだ。巣に足を引っかけてしまえば、勿論彼らを刺激する事になる。また、自分の真上にも注意しないといけないよ。前後左右上下に気を配りながら慎重に進むんだ。
さあ、後半戦も頑張っていこう!
追記
倒れてもペナルティは無いけど、これまでの試練を潜り抜けてきた君ならやれる筈だよ。
まあ、無理だったら大人しく怖い目に遭ってね。』
「……ていうか、まだ半分しかクリアして無かったんだ」
改めて地上までの道のりの長さを再認識させられ、気分が沈みこむ。結構な試練を潜り抜けてきたと思っていたのだが、まだまだ先は長そうだ。
「うーん、駄目駄目。あんまり先の事は考えないでおこう」
頭をふるふると振って、掲示板に目を通す。
「この階からは『死なないように進む』事を心がけろ……これって、裏を返せば今までは倒されても問題なしって思われてたって事だよね」
なんだかなあ、と微妙な心境になる。それならば、もっと段階を踏んで鍛えてほしかった。
「でも、そうなってたら地下十階よりもずっと下からスタートだったかもしれないし。まあ、しょうがないか」
それより、と僕は先の文章を読み進める。
「今回は今までに比べて、かなり参考になるアドバイスが載ってる」
親切なのは、今度の試練が「やられない事」を重視しているからかもしれない。
「敵はクモで、前後左右上下に注意。巣には足を引っかけないように、か」
しかし、どんな攻撃を仕掛けてくるは書かれていない。僕は朧気な知識を呼び起こす。
「クモって、そんなに怖い事をやってくる生き物じゃない筈。確か、臆病なんじゃないっけ?」
噛みつくとか、せいぜいそんな行動しか取らないような気がする。
「あ、そういえば毒を持っている奴もいるんだ」
となると、とにかく接近はされないように心がけなければならない。追記に書かれているような目には、絶対に遭いたくないと心から思った。
「慎重第一で……頑張ろう!」
僕は勇気を奮い起こして、部屋を後にする。
「う、うわあ……」
通路に出た瞬間、背筋がゾクゾクとして、僕は身を震わせた。
「何コレ、デカい……」
なんと、ここのクモ達は地下六階のウサギ達よりもサイズが一回りデカい。僕は記憶喪失だけれど、これほどまでに大きなクモと遭遇した事は恐らく無いだろう。何故ならば、知識として覚えてすらいないからだ。色は真っ黒で、通路のあちこちに点在している。身動きを取らないのが、更に異質さを際だたせていた。
彼らの姿が見えない通路を選んで歩いていく。足下の糸に引っかからないように気をつけながら、一歩一歩、天井の安全も確認しながら進む。
――不気味すぎる。
僕は心の中で呟いた。彼らは抜け目が無いらしく、曲がり角の天井だったりとか、繭糸で巧妙にカモフラージュした床だったりとか、そういった場所で獲物を待ち続けている様子だった。狡猾、という言葉はまさに彼らの為にあるのかもしれない。事前注意が無ければ、僕はあっという間に彼らの餌食となっていた事だろう。そうならなかったのは、掲示板のアドバイスが役に立った事も勿論あるが、僕の緊張が限界まで張り詰めていた事もまた一因であっただろうと思う。きっと、この階の探索では、僕は今までにないほどに集中しまくっていた筈だ。
上へと向かう階段に辿り着いた時、既に僕は満身創痍の状態と化していた。
「落とし穴の所が一番堪えたと思ったのに、それ以上の地獄があるなんて思ってもみなかったよ……」
階段を上っている最中も、周囲が気になって仕方がなかった。地下四階に辿り着いた時、僕は心底から深い安堵の溜息を吐いたのだった。




