彼女が西の魔王に至る前
白い空間に足音が響く。
反響を重ね幾重にも重なった足音が、ふいに途切れる。
「いやいや、本当にいい加減勘弁してくれない?」
代わりに零れたのは場違いなほど明るい声だった。あははっ。と続いた笑い声はしかしすぐに乾いて消えた。
窓から僅かに差し込んだ光が影を作る。堪えきれずに立ち止まった彼女はとうとうその場に座り込んでしまった。
いつも通りの朝だった。
職場に向かい、タイムカードを切り、出会った人間に挨拶をしてみて、着替えて、いつも通りの朝だった。
“だった”それが現在進行形で続いている。
いつもの朝が終わりを告げ、今も変わることなく続いている。
異変はシンプルでわかり易いものだった。
人が居ないのだ。居なかったのだ。誰も居なかっただけなのだ。
静寂だけが返る職場のなんと不気味なことか。新手のドッキリだろうか。だとすれば悪趣味にも程がある。
最初に感じた違和感。後に確信した予想。まるで出来の悪い怪談話か何かではないか。
病院で自分以外の人間がすべて消えてしまうだなんて。
よくある映画の設定じゃあるまいし。そうは思えど現実は変わらない。いつもの朝は過去形に変わり、そして異変は現在進行形で広がり続けている。
設定通りに人は居らず、設定通りに外へも出れず、後は設定通りに怪異でも始まれば舞台はずべて整うことだろう。
幽霊かゾンビかその究極の二択を思えば怪異など遠慮したいところ。しかし今日で三日だ。何も起きずに時間だけが過ぎた。
一日目、すべての部屋をくまなく探した。しかし誰も居なかった。
二日目、いい加減何か食べようと食堂に侵入した。電気もガスも水道もすべて通っていることを再確認した。
三日目、もう一度全ての部屋を見て回っている最中だ。しかし変わりはない。誰もいないし、何も起らない。
ゾンビでも幽霊でもさっさと出て来い。その心境に至るのも至極当然と言えた。そのままの勢いで霊安室にも突撃した。が、染み付いた線香の匂いが漂う部屋はやっぱりもぬけの殻だった。
「何これ、飛び降りしかないのか? いやでも、それって気がついたら飛び降りる前か、あの世ってことでしょ? えっ」
廊下に座り込んだ彼女は、生気の篭っていない目で空虚を見つめた。
残された選択肢は一つしかない。すなわち屋上からの飛び降り。それだけだ。
一階のドアや窓は勿論壊れなかった。防犯用の警防を力任せに振るっても皹一つ入れることは出来なかった。
唯一、外に出ることが出来るのは屋上だけだ。しかし、外に出られることを確認して以降彼女はそこへは一度も足を運ぼうとはしなかった。
景色を見るのが恐かった。実に単純な理由だった。
いつも通りに国道を車が走り抜けている風景が広がるのだろうか。それとも車の一台もいないただの道が広がっているのだろうか。もしかしたら、見たこともない世界が広がっているかもしれない。
窓から見た景色を思い出す。そしてすぐに忘却する。窓という切り取られた世界が描く景色は見た場所によって変わるのだから。一片から見たものだけでは全てを把握することは難しい。なんて、もっともらしい理由を付け加えるのも忘れない。
結論から言おう。たしかに、これはこれでよくある設定である。と。
窓の外に広がるのは森だった。いつも見えるはずの国道などそこにはない。あるのは青々どころか鬱々としたほどに暗い森だった。
森の奥の奥、僅かにしか光の届かない最深部であろうこの場所に聳え立つ病院。雰囲気満点どころか、過剰すぎるだろう! ツッコミを入れるのを彼女は必死に自重した。何故なら彼女は外の世界を見ていないのだから。見ないように努力しているのだから。私は何も見てないったら見ていない。現実逃避に自己暗示を重ねがけているのだから。
病院と一緒に異世界移動。そんな何処かに転がっていそうな設定が何故我が身に起る。
現実から可能な限りの逃避を続けていた彼女だったが、いい加減現実逃避のネタも尽きてきたことも事実。仕方なく考えてみた現実は、それはどこの小説ネタ? と腹を抱えて笑いたくなるようなものだった。
だいたいにして事務員でしかない彼女が病院と一緒に異世界に来たところで何になるというのだろうか。一人で来月分のレセプトの入力でもしていろとでも言うのだろうか。医者や看護婦だったのだならばその知識を元に色々とめくるめく展開が広がったのかもしれない。しかし彼女は事務員でしかないのだから披露出来る知識など勿論何もない。
「どうしよう、これ、どうしたら?」
ぐるりと一回りした考えに彼女は眉をきつく寄せた。八方塞だった。諸行無常だった。四面楚歌だった。どんどんとズレる思考回路に生憎と訂正を行える人物は誰も居なかった。
いっそのこと今日は罰当たりかもしれないが霊安室で寝るのもひとつの手かもしれない。オペ室では何も起らなかったが、もしかしたら今度こそ幽霊が、着実に精神をすり減らしつつある彼女が道を踏み外すのはそう遠くない未来の出来事なのかもしれない。元来ホラーには滅法強い人種である彼女は、もしも幽霊が出たら胸倉を掴んでぶん殴ってくれよう。と、間違った決意も固める。その瞬間だった。
「えっ?」
音が響き渡った。
力なく響くその音には聞き覚えがあった。本来なら二階にいる彼女になんて届くはずもないのに、静まり返った今のこの空間にその音ははっきりと木霊した。
“ご用の方はこちらのベルを鳴らしてください”ちーんと、何度も響き渡ったその音は速さを増し、今ではリズムでも刻むかのように何度も鳴らされている様子だった。
状況を把握した彼女はすぐに立ち上がり、そしてそろりと廊下を進む。幽霊でもゾンビでもなんでも来い。ほんの数秒前まで抱いていた思いをすぐに処分する。足を進め階段を下りる。念のために受付から一番近い階段を選ぶ。何かあったらすぐに二階に駆け上り何処かの病室で篭城しよう。一階に広がる待合室は椅子などの障害物は多いのだが、隠れるのにはとんと向かない。凍りついた思考でそれでも思案を巡らせた彼女は息を殺しながらも着実に受付を目指していた。
幽霊だろうか。幽霊はまず音で人を驚かせる。しかしこれは国内産のものには珍しい傾向でもある。国内産の幽霊ならば、まずは影、そして気配、次に気温、最後に音、今までに見てきた映画の数々を思い出し勝手に推論を広げる。その推論で行くのならば、まずはデカイ音で存在感を示すのは外国産の幽霊という結論になるのだろうが、無論この病院で亡くなった人間の中に外人など彼女が知りうる限りいないのだが。
ゾンビだろうか。ゾンビはしかし思考を有さない。叩けば鳴るあれが面白くて続けているのだとすれば、それはそれで中々オチャメなゾンビだといえる。ゾンビならばしかしまだ手はあるだろう。女の細腕で脳に相応のダメージを与えたり、脊椎に支障を来たす様なことなど、一般人である彼女に出来る道理は勿論ないのだが、古きよき昔の設定を守ってさえくれればゾンビは動きが遅いのだからどうとでもなるだろう。勿論のこと最近のゾンビはものすごくアクティブに全力疾走したりするので、そうなった場合はどうにもならないのだが。
一階にたどり着いた彼女はそっと受付の方を覗く。巡る馬鹿みたいな考えと、その考えを飲み込むほどの鼓動の音を無視するように。
一応あちらからこちらを見るのは出来なくはないが難しいだろう。逆にこちらからあちらを見るのは簡単だ。職員以外立ち入り禁止。その張り紙の影から向こうを見る。
はたしてそれは見間違いではなかった。
そこには無表情で、それでいて一心不乱にベルを鳴らし続ける男が居た。背丈は二メートルを越えているだろうか。とにかくでかい。窺う限り幽霊には見えず、ゾンビにも見えず、ならばあのデカブツは何だろうか。
全身を黒で固めたその男は、よく見れば耳が長いように見える。そして腰にぶら下がるのは間違いなく剣ではなかろうか。この期に及んでまさかコスプレ趣味を持つ不審者、そんなわけは勿論ないのだろう。
「どうしよう、どうすれば、むしろどうしろと」
何が楽しいのだろうか、男はベルを鳴らし続ける。それはやはり何かのメロディーを奏でているようにも聞こえる。この世界の流行の音楽か何かだろうか。もはや異世界に職場ごと移動してしまったことを認めないと先に進めなくなった彼女は投げやりに考えた。
長い耳を思えばあの男はエルフだったりするのだろうか、そうか昨今のエルフは筋骨逞しく二メートルの長身というかデカさを誇るのか。夢を返せコンチクショウ。しかし、あの男はエルフとは違う気がする。例えるのなら魔族なんかが似合うような、そこまで考えて彼女は首を横に振るう。激しい頭痛を感じるのは気のせいなのだろうか。いや、気のせいではない。
じっとあの男を眺めていたら見えてしまったのだ。
何がって、巷ではステータスとか呼ばれているものが。
それによれば男は名前をノーウェット・スターカスと言うらしい。この時点で少なくとも男が純正の日本人ではないことが確定した。
それによれば男の種族は魔族とか言うらしい。この時点で少なくとも男が人間でも人類でもないことが確定した。
それによれば男の職業はダンジョン作成者らしい。この時点で少なくともこの世界にはダンジョンが存在し、それを作るものが存在することが確定した。
それによれば男が今まで作成したダンジョンの個数は三桁を越えているらしく、しかもそれは撃破された数に等しいらしい。この時点で少なくともこの世界ではダンジョンの存在は珍しいものではないことが確定した。
それによれば男は、次の欄を見ようと目を凝らした時。
「うっ」
鋭い金色が視界に突き刺さった。それが男の瞳なのだと彼女が理解したのは、二階に駆け上がり三階にたどり着き、そして一番端の病室に駆け込んだ後だった。急いで扉を閉め、そしてベッドの下へと蹲る。
静まり返った病室に自身の鼓動だけが響き渡る錯覚を覚え、彼女は浅く荒い息を零し続ける自らの口を両手で覆った。耳を澄ませば、ベルの音はもう聞こえなかった。
冷静になろうと思考を巡らせ、しかしそれは形を成さずに消える。どうしよう。その言葉だけが渦巻く脳内を覗き込むと、込上げてくるのは笑いと涙だけだった。
あの男は何をしにきたのだろうか。もしやこの病院をダンジョンだとでも思ったというのだろか。たしかに現在地やら何やらを思えば雰囲気だけは過剰に満点合格なのだろうけれど、それにしたってあの見えてしまったステータスを思えばあの男は攻略する側ではなく作る側であるはずだ。ならばダンジョンだと思い込んでしまったとして、それで何をしようというのか。もしや自分のダンジョンの近くに何新しいの建設してくれちゃってんの? 半径百メートル以内にダンジョンは建てるなって決まってるだろ。なんて、そんな裏事情とかがあったりするのかもしれない。
三日前までは明らかに何もなかった場所に急に現れた建造物。とりあえずその状況を知っているのだとすれば面倒くさいことになる。理由を理解していないのはむしろこっちだ馬鹿野郎。盛大に罵ってやりたいのは彼女のほうだった。
このまま此処に居ても何も進展はしない。しかし、魔族とか言う物騒な種族に話しかける勇気もない。そもそもこちらの武器が警防かメスで、向こうが剣だなんて勝負以前の問題だろう。男女の差だってある。考えれば考えるほど何故出てこない幽霊ゾンビ。と、まったくの新しいモンスタージャンルを確立させた彼女は愚痴る。その間にも、いつもよりも敏感になっている五感が、男が何処に居るのかを自分に伝えてくることに彼女は首を傾げた。
「二階に、いる?」
少し集中すれば手に取るようにわかるのだ。男は今二階にいる。そしてたぶんナースステーションの当たりをうろついている。次は近くの病室だろうか、手当たり次第に部屋を覗いている。実際に耳に届くドアの開閉音を聞きながら、しかし彼女は男を見ていた。まるで映画でも見るかのように、男を移しながら進む視界。218号室の扉を開け、そして部屋を見渡し、次の場所へ進む、はっきりと鮮明に広がるその光景。
異様だった。異質だった。異常だった。
もしや求めて止まなかった怪異は自分自身だったとでも言うのだろうか。病院と一体化したかのような錯覚に彼女は今度こそ頭を抱え蹲る。
「決めた」
意識すれば見える男は二階にある部屋と言う部屋を制覇し階段を目指しているようだった。いち早くそれに気がつき行動を起こした彼女は音を立てないように注意してから二階に下っていった。
二箇所ある階段のうち一つを彼女が下り、もう一つを男が上る。三階に辿り着いた男を彼女は一階から傍観し、そのまま病院内の薬局へと足を運んだ。病院内に薬局があるのは昨今では珍しい光景になってきた様子だったが、この病院は今でも病院内に薬局があり、そして薬を管理する以上そのセキュリティは他の部屋よりかは少しだけマシになっている。逃げるにしても二箇所に出入り口があることから袋小路の病室より優れているし、何よりもまず薬がある。何はともかく薬がある。酷い頭痛にうんざりしてきた彼女は頭痛薬のためだけにあっさりと次の潜伏場所を決めてしまった。精神的なその頭痛は薬を飲んだくらいでは勿論治ることなどないのだろうが、プラシーボ効果、病は気から、フラフラと目的地を目指す彼女は呪文のようにその言葉を繰り返した。
オーバーフローだった。彼女という器に収まりきらなかった内容物は何だったのか。
鈍い痛みと鋭い痛みを訴える頭に、頭痛薬を飲むべきか、鎮痛剤を飲むべきか、偏頭痛の薬を飲むべきか、いっそ全部飲んでしまえと薬局で薬を漁る彼女は適当にそう決めた。すべての薬を二錠ずつ取り、このままでは絶対に胃が荒れると胃薬を三錠ばかり掴み、そして一気に煽る。
「何をしている?」
たっぷりの水と一緒に飲み下そうとしていたそれらは、しかし床の上に水浸しの状態で転がった。
急に声をかけられたせいで驚いた彼女は蒸せ、そのまま飲み込むことなく口に含んだすべてのものを吐き出してしまった。おそらくは入ってはいけない所に水が流れ込んだのだろう、止まることのない咳についには生理的な涙が零れ始める。
そんな彼女へと頭上から、大丈夫かと平坦な声が降り注ぐ。誰のせいだと。そう思って睨みつけてやればそこに居たのはあの男、ノーなんたらとか言う魔族の男。三階に行ったんじゃなかったのか。と、頭痛のせいか薬局で薬を漁る最中に盛大な音を立てていたことなど知らぬ彼女は男を睨み続ける。
黒い髪に、鋭い金の瞳、尖った耳に、大き過ぎるその身体つき、何処の隊の何団長ですか? 心に巡った考えに彼女は首を緩く振るう。おそらくその考えは冗談では済まされない可能性が高そうだから考えてはいけない、と。
「何故、お前がこのダンジョンのマスターなんだ」
「はっ?」
「そのうえ、おまえは」
「えっ?!」
自分の考えに沸いた絶望を抱え込んだまま蹲り、今度は床に無残に転がった薬を睨みつけては上から降り注ぐ視線を交わし続ける彼女に、容赦なく落とされた言葉。上から落ちてくる単語を聞いて、そしてその意味を理解して、彼女の思考回路は今度こそ停止してしまう。
あぁ、よかった言葉が通じて。そんな想いはどこにもない。むしろ通じないほうが良かった。今なんて言いやがったこの男?! 一思いに床から顔を上げれば、そこには困惑した男の顔がドアップで広がっていた。いつのまにこんな近くに。そう考えるよりも先に唸ったのは彼女の拳だった。綺麗に炸裂した彼女の拳は的確に男の頬を捉え、そして吹っ飛ばした。二メートルを越えるだろう長身を思うに、あの体つきを思うに、体重が百を越える可能性のある男を、彼女は気がつけば心の思うが侭にぶっ飛ばしていた。
壁に鈍い音を立てぶつかった男は器用にもそのままの体制を保っていた。男は目を回していた。ついでに少しばかり凹んだ壁は勿論見なかったことにして、自身の右手を見、次いで気絶してしまった男を見、彼女は改めて頭痛薬と鎮静剤と偏頭痛の薬と胃薬を景気良く煽った。
この日、世界には新しいダンジョンが誕生した。
作成者:ニシノマオ(西野 真央)
テーマ:異世界の建物
DLV:1
薬を煽ったマオは、大きなため息を一つ吐いてからこう言った。
「事務員から経営者だなんて凄い昇格というか、むしろ何があったし」