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ハネムーン@樹海

作者: ナガタコウ
掲載日:2026/07/03


結婚式は、幸福の公開処刑だった。


笑ってください!


もう一枚!


ご両親の方を見てください!


次はお二人だけで!


はい、幸せそうに!


実際、新郎新婦はその日、何度も幸せそうにした。


ケーキを切る時も。


友人代表が泣いた時も。


親戚の子どもが退屈そうに床へ寝転んだ時も。


父親が急に昔の話をし始めた時も。


母親がハンカチを目に当てた時も。


二人は幸せそうにした。


結婚式場は明るかった。


花があった。


白い布があった。


ガラスの器があった。


よく分からない高さのキャンドルがあった。


すべてが、二人を祝福するために配置されていた。


妻は、披露宴の終盤で一度だけ夫に言った。


「明るすぎない?」


夫はシャンパンの泡を見ていた。


「照明?」


「全部」


「全部か」


「うん」


夫は少し考えた。


「でも結婚式だから」


「それが怖い」


妻はそう言って、また笑顔に戻った。


ちょうどカメラマンが近づいてきたからである。


式が終わる頃には、二人の顔は笑顔の形に固まっていた。


誰かが「おめでとう」と言うたびに、


頬の筋肉が小さく悲鳴を上げた。


誰かが「幸せになってね」と言うたびに、


幸せは二人の内側から少しずつ出ていき、


会場の備品になっていった。








翌朝、


夫は新婚旅行の行き先を検索していた。


候補はいくつもあった。


沖縄。


北海道。


熱海。


京都。


ディズニー。


海外。


南の島。


海辺のホテル。


部屋に花びらが撒かれているプラン。


夕日を見ながら乾杯するプラン。


貸切露天風呂で、誰に提出するのか分からない写真が撮れるプラン。


どれも正しかった。


妻はベッドに座り、脱ぎ捨てられたストッキングを見ていた。


「新婚旅行って」


「うん」


「まだ幸せそうにしないといけないの?」


夫はスマホから顔を上げた。


「しなくていいんじゃない?」


「ほんとに?」


「たぶん」


夫は再びスマホを見た。


条件を入れた。


人が少ない。


安い。


涼しい。


緑がある。


写真が撮れる。


日帰り可能。


数分後、夫は言った。


「樹海は?」


妻は顔を上げた。


「新婚旅行で?」


「熱海より二万安い」


「お金の話?」


「あと、涼しい」


「他には」


「予約がいらない」


「ホテルじゃないからね」


「キャンセル料もない」


「森だからね」


「それに、混まない」


「理由が全部、式の反省会みたいね」


夫は画面を見たまま頷いた。


「かなり反省してる」


妻はしばらく黙っていた。


そして、少しだけ笑った。


式の時の笑顔ではなかった。


「いいよ」


「いいの?」


「うん」


「親に言う?」


「言わない」


「言ったら止められるかな」


「たぶん、まず心配される」


「心配って便利だよね」


「だいたい会話を奪うからね」




そうして、


二人の新婚旅行は樹海になった。


お揃いのノースフェイスを買った。


夫が選んだ。


雨に強い。


風に強い。


軽い。


セールだった。


妻は店で袖を通しながら言った。


「これ、夫婦っぽい?」


「かなり」


「服の方が?」


「うん。俺たちより先に夫婦になってる」


妻は鏡の中の自分を見た。


黒いマウンテンパーカー。


昨日の白いドレスより、ずっと現実的だった。


「似合う?」


「強そう」


「新妻に言う言葉じゃない」


「でも似合ってる」


「じゃあいい」




二人はバスで樹海の入口まで行った。


車窓の外には、


観光地らしい看板と、観光地らしくない森が交互に現れた。


土産物屋。


駐車場。


富士山の写真。


ソフトクリーム。


観光案内。


その向こうに、木々が広がっていた。


バスを降りると、空気が少し冷たかった。


駐車場には何組か観光客がいた。


家族連れ。


登山靴の老人。


外国人らしい二人組。


売店の前でソフトクリームを食べている子ども。


妻はそれを見て言った。


「思ったより普通だね」


「観光地だからね」


「無料でここまで静かなんて、すごいね」


「昨日は沈黙にも司会がついてたからね」


夫は案内板を見た。


遊歩道の地図。


注意書き。


所要時間。


自然を大切にしましょう。


クマに注意。


妻は別の看板を見ていた。


「道を外れないでください、だって」


「外れないよ」


「式ではだいぶ外れてた気がするけど」


「何から?」


「自分たちから、とか?」


夫は答えなかった。


答えようとしたが、ノースフェイスの袖がシャカシャカ鳴った。


その音の方が、会話より少し正直な気がした。




二人は遊歩道へ入った。


森は暗かった。


光は木々に遮られて、細くなって落ちていた。


明るいのに、騒がしくない。


暗いのに、責めてこない。


音が少なかった。


光が弱かった。


誰も「おめでとう」と言わない。


誰も写真を撮れと言わない。


誰も「幸せそう」と確認してこない。


木は拍手しない。


地面は祝辞を読まない。


苔は親族紹介を求めない。


木々は黙っていた。


親戚よりかなり礼儀正しかった。


妻は深く息を吸った。


「いいね」


「何が?」


「誰も期待してこない」


「木だからな」


「木って偉いね」


「働いてるしな。光合成とか」


「少なくとも余興は頼んでこない」


お揃いのノースフェイスが、歩くたびにシャカシャカ鳴った。


まるで二人より先に、服だけが元気に新婚旅行をしているようだった。


「ここ、新婚旅行で来る場所じゃないよね」


妻が言った。


「でも来たな」


「来たね」


「帰る?」


「まだいい」


「新婚旅行として?」


「休憩所として」


夫は少し考えた。


「結婚って、休憩いるんだな」


「うん、式の翌日には特にね」


遊歩道の脇に、片方だけの靴が落ちていた。


古いスニーカーだった。


色はもうよく分からなくなっていた。


湿っていて、少し土に埋もれている。


夫は立ち止まった。


「不法投棄かな」


妻は靴を見た。


「片方だけ?」


「片方だけ捨てたい日もあるんじゃない?」


「どんな日?」


「右足と喧嘩した日」


「右足は悪くないと思うよ」


妻は少ししゃがみ込んだ。


靴のサイズを見るように、横から眺める。


「男物かな」


「詳しいね」


「靴屋でバイトしてたことある」


「初耳」


「結婚式で言うタイミングなかった」


「友人代表スピーチに入れればよかったのに」


二人はまた歩き出した。


少し進むと、色褪せたビニール傘が木の根元に引っかかっていた。


透明だったはずの部分が、白く濁っている。


骨が一本だけ折れていた。


夫は言った。


「傘もある」


「あるね」


「観光地の管理問題だな」


「最後に買ったものがビニール傘って、嫌じゃない?」


「最後って決まってないぞ」


「じゃあ、途中の傘」


「途中ならいいね」


「うん。途中ならまだ言い訳ができるね」


夫は妻を見た。


妻は傘を見ていた。


ものを、ものとして見ている顔だった。


夫は、妻のその目が少し怖かった。


同時に、少し羨ましかった。


自分なら、費用か距離か効率でものを見る。


でも、妻はただ見る。


ただ見る、というのは、時々かなり怖い。


「あのさ、昨日の式さ」


夫が言った。


「うん」


「楽しかった?」


妻は少し考えた。


「楽しい部分もあった」


「どこ?」


「料理」


「そこ?」


「あと、伯母さんがドレスの裾を踏んで転びかけたところ」


「性格悪いな」


「うん」


「俺は、ケーキおいしかった」


「よかったね」


「あと、君のお父さんが泣いてた」


「泣いてたね」


「泣くと思わなかった」


「私も」


「感動した?」


妻は少し歩く速度を落とした。


「分からない」


「分からないか」


「泣かれると、こっちが何かしたみたいになる」


「結婚したからね」


「しただけなのに」


「だけではないんじゃない?」


「そう?」


「たぶん」


妻は足元の木の根を避けた。


夫はしばらく黙っていた。


遠くで鳥が鳴いた。


鳥は祝っていなかった。


ただ鳴いて、用が済むと黙った。


「俺も疲れた」


夫が言った。


「何に?」


「いい夫っぽい顔」


妻は夫を見た。


「似合ってなかった」


「言うね」


「でも、嫌いじゃなかった」


夫は褒められたのか、傷つけられたのか、判断がつかなかった。


これからは、そういう言葉を何度も処理していかないといけない気がした。




遊歩道は少し曲がっていた。


案内板には、ここから先は足元注意と書かれていた。


夫はスマホを取り出した。


電波は弱かった。


地図アプリは、自分たちの位置を少しずれた場所に表示している。


「地図、怪しい」


「森に正確さ求めるんだ」


「求めるでしょ」


「結婚式には求めなかったのに」


「求めてたよ」


「そう?」


「少なくとも席次表には」


「そこ?」


道の脇に、古い軍手が落ちていた。


片方だけだった。


夫はもう何も言わなかった。


妻も何も言わなかった。


二人は少しだけ、それを見てから通り過ぎた。


森は思っていたより明るかった。


ただ、その明るさには、人間を歓迎する感じがなかった。


木々はそこに立っているだけだった。


式場では、すべてが二人のために用意されていた。


ここでは、何ひとつ二人のためではなかった。


妻が言った。


「結婚したら、安心すると思ってた」


「しなかった?」


「安心するための仕事が増えた」


「仕事か」


「うん。幸せの管理職」


「役職ついたんだ、おめでとう」


「辞令もらってないのに」


「給料は?」


「ない」


「ブラックだね」


「かなり」


森の中では、二人の笑い声はすぐに吸い込まれた。


拍手もされず、反響もせず、ただ消えた。


「俺たち、結婚向いてるのかな」


夫が言った。


妻は少し考えた。


「向いてる人っているの?」


「いるんじゃない?」


「誰?」


「式場のパンフレットの人たちとか」


「あれは素材写真」


「じゃあ、いないか」


「たぶん、みんな下手なんじゃない」


「結婚が?」


「うん」


妻は前を向いたまま言った。


「上手そうに見せるのが上手い人はいるけど」


夫は黙った。


それは、かなり納得できる言葉だった。




遊歩道の先が少し開けた。


木々の隙間から、薄い光が入っている。


そこにベンチがあった。


古い木のベンチだった。


二人は座った。


ノースフェイスが同時にシャカ、と鳴った。


夫はリュックから水を出した。


妻に渡す。


妻は飲んだ。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「なんか夫婦っぽい」


「水渡しただけで?」


「ケーキ入刀より夫婦っぽい」


夫も水を飲んだ。


ぬるかった。


木の葉が一枚、ベンチの下に落ちた。


「……別に、死にたいわけじゃないんだよね」


妻が急に言った。


夫は水のキャップを閉める手を止めた。


「うん」


「生きたいって大きく言えるほど、元気でもないけど」


「うん」


「昨日、みんなが生きろ生きろって顔してた」


「結婚式だからね」


「だから疲れた」


夫は何か言おうとした。


でも、何も言わなかった。


森は黙っていた。


やはり、親戚よりかなり礼儀正しかった。


しばらくして、夫が言った。


「お腹空いた」


妻は横目で見た。


「え、今?」


「うん」


「ここで?」


「場所は関係ない」


「空腹が倫理を超えた感じ?」


「そうかもな」


妻は少し笑った。


「ほうとう食べたい」


夫が言った。


「急に山梨に従順になった」


「新婚旅行だから」


「樹海につれて来といて、ほうとうで帳尻合わせるの?」


「帳尻は大事だよ」


妻は立ち上がった。


「じゃあ、戻ろうよ」


「いいの?」


「うん」


「まだ全然、観光してないけど」


「したよ」


「何を?」


妻は少し考えた。


「んー、光が弱い場所を歩いた」


「それ観光?」


「たぶん」


二人はベンチを離れた。


来た道を戻る。


片方だけの靴。


ビニール傘。


軍手。


それらは、帰り道でも同じ場所にあった。


当然だった。


妻は途中で一度、写真を撮った。


木漏れ日でも、苔でも、案内板でもなかった。


足元の根っこだった。


「それ映える?」


夫が聞いた。


「映えない」


「じゃあ、なんで」


「残しておきたいだけ」


夫は「なるほど」と言った。


本当はよく分かっていなかった。




遊歩道を出ると、駐車場はまだ明るかった。


観光客がソフトクリームを食べていた。


子どもが走っていた。


土産物屋の前で、富士山のキーホルダーが揺れていた。


世界は急に、商品名のある場所へ戻った。


夫は売店の方を見た。


「あ、ソフトクリームがある」


「ほうとうは?」


「両方いける」


「やるね」


「空腹は倫理を超えるんだ」


「それ私のやつ」


「便利な言葉は使う」


二人はソフトクリームを一つずつ買った。


バニラだった。


新婚旅行らしいことを一つした。


ただし、少し寒かった。


売店のベンチに並んで座り、無言でソフトクリームを食べた。


妻の口元に、少しだけ白いクリームがついた。


夫はそれを指摘しようとして、やめた。


これからの生活では、そのあたりの判定が難しそうだった。


「ついてるよ」


結局、夫は言った。


「知ってる」


妻は紙ナプキンで口元を拭いた。


「知ってたんだ」


「試した」


「どうだった?」


「保留」


「厳しい」


妻は少し笑った。


夫も笑った。


そのくらいが、今の二人にはちょうどよかった。


お揃いのノースフェイスが、夕方の風で小さく鳴った。



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