ハネムーン@樹海
結婚式は、幸福の公開処刑だった。
笑ってください!
もう一枚!
ご両親の方を見てください!
次はお二人だけで!
はい、幸せそうに!
実際、新郎新婦はその日、何度も幸せそうにした。
ケーキを切る時も。
友人代表が泣いた時も。
親戚の子どもが退屈そうに床へ寝転んだ時も。
父親が急に昔の話をし始めた時も。
母親がハンカチを目に当てた時も。
二人は幸せそうにした。
結婚式場は明るかった。
花があった。
白い布があった。
ガラスの器があった。
よく分からない高さのキャンドルがあった。
すべてが、二人を祝福するために配置されていた。
妻は、披露宴の終盤で一度だけ夫に言った。
「明るすぎない?」
夫はシャンパンの泡を見ていた。
「照明?」
「全部」
「全部か」
「うん」
夫は少し考えた。
「でも結婚式だから」
「それが怖い」
妻はそう言って、また笑顔に戻った。
ちょうどカメラマンが近づいてきたからである。
式が終わる頃には、二人の顔は笑顔の形に固まっていた。
誰かが「おめでとう」と言うたびに、
頬の筋肉が小さく悲鳴を上げた。
誰かが「幸せになってね」と言うたびに、
幸せは二人の内側から少しずつ出ていき、
会場の備品になっていった。
翌朝、
夫は新婚旅行の行き先を検索していた。
候補はいくつもあった。
沖縄。
北海道。
熱海。
京都。
ディズニー。
海外。
南の島。
海辺のホテル。
部屋に花びらが撒かれているプラン。
夕日を見ながら乾杯するプラン。
貸切露天風呂で、誰に提出するのか分からない写真が撮れるプラン。
どれも正しかった。
妻はベッドに座り、脱ぎ捨てられたストッキングを見ていた。
「新婚旅行って」
「うん」
「まだ幸せそうにしないといけないの?」
夫はスマホから顔を上げた。
「しなくていいんじゃない?」
「ほんとに?」
「たぶん」
夫は再びスマホを見た。
条件を入れた。
人が少ない。
安い。
涼しい。
緑がある。
写真が撮れる。
日帰り可能。
数分後、夫は言った。
「樹海は?」
妻は顔を上げた。
「新婚旅行で?」
「熱海より二万安い」
「お金の話?」
「あと、涼しい」
「他には」
「予約がいらない」
「ホテルじゃないからね」
「キャンセル料もない」
「森だからね」
「それに、混まない」
「理由が全部、式の反省会みたいね」
夫は画面を見たまま頷いた。
「かなり反省してる」
妻はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
式の時の笑顔ではなかった。
「いいよ」
「いいの?」
「うん」
「親に言う?」
「言わない」
「言ったら止められるかな」
「たぶん、まず心配される」
「心配って便利だよね」
「だいたい会話を奪うからね」
そうして、
二人の新婚旅行は樹海になった。
お揃いのノースフェイスを買った。
夫が選んだ。
雨に強い。
風に強い。
軽い。
セールだった。
妻は店で袖を通しながら言った。
「これ、夫婦っぽい?」
「かなり」
「服の方が?」
「うん。俺たちより先に夫婦になってる」
妻は鏡の中の自分を見た。
黒いマウンテンパーカー。
昨日の白いドレスより、ずっと現実的だった。
「似合う?」
「強そう」
「新妻に言う言葉じゃない」
「でも似合ってる」
「じゃあいい」
二人はバスで樹海の入口まで行った。
車窓の外には、
観光地らしい看板と、観光地らしくない森が交互に現れた。
土産物屋。
駐車場。
富士山の写真。
ソフトクリーム。
観光案内。
その向こうに、木々が広がっていた。
バスを降りると、空気が少し冷たかった。
駐車場には何組か観光客がいた。
家族連れ。
登山靴の老人。
外国人らしい二人組。
売店の前でソフトクリームを食べている子ども。
妻はそれを見て言った。
「思ったより普通だね」
「観光地だからね」
「無料でここまで静かなんて、すごいね」
「昨日は沈黙にも司会がついてたからね」
夫は案内板を見た。
遊歩道の地図。
注意書き。
所要時間。
自然を大切にしましょう。
クマに注意。
妻は別の看板を見ていた。
「道を外れないでください、だって」
「外れないよ」
「式ではだいぶ外れてた気がするけど」
「何から?」
「自分たちから、とか?」
夫は答えなかった。
答えようとしたが、ノースフェイスの袖がシャカシャカ鳴った。
その音の方が、会話より少し正直な気がした。
二人は遊歩道へ入った。
森は暗かった。
光は木々に遮られて、細くなって落ちていた。
明るいのに、騒がしくない。
暗いのに、責めてこない。
音が少なかった。
光が弱かった。
誰も「おめでとう」と言わない。
誰も写真を撮れと言わない。
誰も「幸せそう」と確認してこない。
木は拍手しない。
地面は祝辞を読まない。
苔は親族紹介を求めない。
木々は黙っていた。
親戚よりかなり礼儀正しかった。
妻は深く息を吸った。
「いいね」
「何が?」
「誰も期待してこない」
「木だからな」
「木って偉いね」
「働いてるしな。光合成とか」
「少なくとも余興は頼んでこない」
お揃いのノースフェイスが、歩くたびにシャカシャカ鳴った。
まるで二人より先に、服だけが元気に新婚旅行をしているようだった。
「ここ、新婚旅行で来る場所じゃないよね」
妻が言った。
「でも来たな」
「来たね」
「帰る?」
「まだいい」
「新婚旅行として?」
「休憩所として」
夫は少し考えた。
「結婚って、休憩いるんだな」
「うん、式の翌日には特にね」
遊歩道の脇に、片方だけの靴が落ちていた。
古いスニーカーだった。
色はもうよく分からなくなっていた。
湿っていて、少し土に埋もれている。
夫は立ち止まった。
「不法投棄かな」
妻は靴を見た。
「片方だけ?」
「片方だけ捨てたい日もあるんじゃない?」
「どんな日?」
「右足と喧嘩した日」
「右足は悪くないと思うよ」
妻は少ししゃがみ込んだ。
靴のサイズを見るように、横から眺める。
「男物かな」
「詳しいね」
「靴屋でバイトしてたことある」
「初耳」
「結婚式で言うタイミングなかった」
「友人代表スピーチに入れればよかったのに」
二人はまた歩き出した。
少し進むと、色褪せたビニール傘が木の根元に引っかかっていた。
透明だったはずの部分が、白く濁っている。
骨が一本だけ折れていた。
夫は言った。
「傘もある」
「あるね」
「観光地の管理問題だな」
「最後に買ったものがビニール傘って、嫌じゃない?」
「最後って決まってないぞ」
「じゃあ、途中の傘」
「途中ならいいね」
「うん。途中ならまだ言い訳ができるね」
夫は妻を見た。
妻は傘を見ていた。
ものを、ものとして見ている顔だった。
夫は、妻のその目が少し怖かった。
同時に、少し羨ましかった。
自分なら、費用か距離か効率でものを見る。
でも、妻はただ見る。
ただ見る、というのは、時々かなり怖い。
「あのさ、昨日の式さ」
夫が言った。
「うん」
「楽しかった?」
妻は少し考えた。
「楽しい部分もあった」
「どこ?」
「料理」
「そこ?」
「あと、伯母さんがドレスの裾を踏んで転びかけたところ」
「性格悪いな」
「うん」
「俺は、ケーキおいしかった」
「よかったね」
「あと、君のお父さんが泣いてた」
「泣いてたね」
「泣くと思わなかった」
「私も」
「感動した?」
妻は少し歩く速度を落とした。
「分からない」
「分からないか」
「泣かれると、こっちが何かしたみたいになる」
「結婚したからね」
「しただけなのに」
「だけではないんじゃない?」
「そう?」
「たぶん」
妻は足元の木の根を避けた。
夫はしばらく黙っていた。
遠くで鳥が鳴いた。
鳥は祝っていなかった。
ただ鳴いて、用が済むと黙った。
「俺も疲れた」
夫が言った。
「何に?」
「いい夫っぽい顔」
妻は夫を見た。
「似合ってなかった」
「言うね」
「でも、嫌いじゃなかった」
夫は褒められたのか、傷つけられたのか、判断がつかなかった。
これからは、そういう言葉を何度も処理していかないといけない気がした。
遊歩道は少し曲がっていた。
案内板には、ここから先は足元注意と書かれていた。
夫はスマホを取り出した。
電波は弱かった。
地図アプリは、自分たちの位置を少しずれた場所に表示している。
「地図、怪しい」
「森に正確さ求めるんだ」
「求めるでしょ」
「結婚式には求めなかったのに」
「求めてたよ」
「そう?」
「少なくとも席次表には」
「そこ?」
道の脇に、古い軍手が落ちていた。
片方だけだった。
夫はもう何も言わなかった。
妻も何も言わなかった。
二人は少しだけ、それを見てから通り過ぎた。
森は思っていたより明るかった。
ただ、その明るさには、人間を歓迎する感じがなかった。
木々はそこに立っているだけだった。
式場では、すべてが二人のために用意されていた。
ここでは、何ひとつ二人のためではなかった。
妻が言った。
「結婚したら、安心すると思ってた」
「しなかった?」
「安心するための仕事が増えた」
「仕事か」
「うん。幸せの管理職」
「役職ついたんだ、おめでとう」
「辞令もらってないのに」
「給料は?」
「ない」
「ブラックだね」
「かなり」
森の中では、二人の笑い声はすぐに吸い込まれた。
拍手もされず、反響もせず、ただ消えた。
「俺たち、結婚向いてるのかな」
夫が言った。
妻は少し考えた。
「向いてる人っているの?」
「いるんじゃない?」
「誰?」
「式場のパンフレットの人たちとか」
「あれは素材写真」
「じゃあ、いないか」
「たぶん、みんな下手なんじゃない」
「結婚が?」
「うん」
妻は前を向いたまま言った。
「上手そうに見せるのが上手い人はいるけど」
夫は黙った。
それは、かなり納得できる言葉だった。
遊歩道の先が少し開けた。
木々の隙間から、薄い光が入っている。
そこにベンチがあった。
古い木のベンチだった。
二人は座った。
ノースフェイスが同時にシャカ、と鳴った。
夫はリュックから水を出した。
妻に渡す。
妻は飲んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「なんか夫婦っぽい」
「水渡しただけで?」
「ケーキ入刀より夫婦っぽい」
夫も水を飲んだ。
ぬるかった。
木の葉が一枚、ベンチの下に落ちた。
「……別に、死にたいわけじゃないんだよね」
妻が急に言った。
夫は水のキャップを閉める手を止めた。
「うん」
「生きたいって大きく言えるほど、元気でもないけど」
「うん」
「昨日、みんなが生きろ生きろって顔してた」
「結婚式だからね」
「だから疲れた」
夫は何か言おうとした。
でも、何も言わなかった。
森は黙っていた。
やはり、親戚よりかなり礼儀正しかった。
しばらくして、夫が言った。
「お腹空いた」
妻は横目で見た。
「え、今?」
「うん」
「ここで?」
「場所は関係ない」
「空腹が倫理を超えた感じ?」
「そうかもな」
妻は少し笑った。
「ほうとう食べたい」
夫が言った。
「急に山梨に従順になった」
「新婚旅行だから」
「樹海につれて来といて、ほうとうで帳尻合わせるの?」
「帳尻は大事だよ」
妻は立ち上がった。
「じゃあ、戻ろうよ」
「いいの?」
「うん」
「まだ全然、観光してないけど」
「したよ」
「何を?」
妻は少し考えた。
「んー、光が弱い場所を歩いた」
「それ観光?」
「たぶん」
二人はベンチを離れた。
来た道を戻る。
片方だけの靴。
ビニール傘。
軍手。
それらは、帰り道でも同じ場所にあった。
当然だった。
妻は途中で一度、写真を撮った。
木漏れ日でも、苔でも、案内板でもなかった。
足元の根っこだった。
「それ映える?」
夫が聞いた。
「映えない」
「じゃあ、なんで」
「残しておきたいだけ」
夫は「なるほど」と言った。
本当はよく分かっていなかった。
遊歩道を出ると、駐車場はまだ明るかった。
観光客がソフトクリームを食べていた。
子どもが走っていた。
土産物屋の前で、富士山のキーホルダーが揺れていた。
世界は急に、商品名のある場所へ戻った。
夫は売店の方を見た。
「あ、ソフトクリームがある」
「ほうとうは?」
「両方いける」
「やるね」
「空腹は倫理を超えるんだ」
「それ私のやつ」
「便利な言葉は使う」
二人はソフトクリームを一つずつ買った。
バニラだった。
新婚旅行らしいことを一つした。
ただし、少し寒かった。
売店のベンチに並んで座り、無言でソフトクリームを食べた。
妻の口元に、少しだけ白いクリームがついた。
夫はそれを指摘しようとして、やめた。
これからの生活では、そのあたりの判定が難しそうだった。
「ついてるよ」
結局、夫は言った。
「知ってる」
妻は紙ナプキンで口元を拭いた。
「知ってたんだ」
「試した」
「どうだった?」
「保留」
「厳しい」
妻は少し笑った。
夫も笑った。
そのくらいが、今の二人にはちょうどよかった。
お揃いのノースフェイスが、夕方の風で小さく鳴った。




