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三十年間誰にも必要とされなかった灯台守の俺が、嵐の夜に助けた令嬢に『あなたがいないと生きていけません』と毎日押しかけられている件

作者: uta
掲載日:2026/05/05

第一章 不要の烙印


「あなたって、本当に退屈な人」


都内のイタリアンレストラン。柔らかな照明の下、向かいに座る美咲の唇が、残酷な言葉を紡いでいく。


「五年も付き合って、私、気づいちゃった。あなたといても何も起こらない。ドキドキしない。将来に希望が持てない」


俺——霧島燈吾は、フォークを握ったまま動けなかった。


今日は婚約五周年の記念日だ。奮発して予約した店。ポケットには、三ヶ月分の給料を貯めて買った指輪が入っている。


それなのに。


「ねえ、聞いてる?」


美咲が苛立たしげに髪をかき上げる。艶やかな黒髪、完璧なメイク、ブランド物のワンピース。五年間、彼女のためにできることは何でもしてきた。残業続きでも記念日は必ず祝った。欲しいと言ったものは自分の趣味を削って買った。


(俺なりに、精一杯やってきたつもりだったんだけどな)


「……何が、不満だったんだ」


絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。


「全部よ」


美咲はワイングラスを傾けながら、まるで天気の話でもするように言った。


「あなたって何の取り柄もないじゃない。会社でも窓際、出世の見込みなし。趣味は古臭い機械いじりと、おじいさんから聞いたっていう海の話。デートはいつも安い店。服のセンスも最悪」


一つ一つ、指を折りながら数え上げていく。


「正直、あなたと結婚しても未来が見えないの。私、もっと上を目指したいの。わかる?」


——わかるよ。


痛いほど、わかる。


俺は昔から地味で、目立たなくて、何をやっても平均以下だった。唯一の取り柄だった祖父譲りの知識も、現代社会じゃ何の役にも立たない。


「だから、別れましょう。婚約も破棄で」


美咲が立ち上がる。その瞬間、彼女のスマートフォンが震えた。画面を見た美咲の顔が、一瞬で華やいだ。


「あ、迎えに来てくれたみたい」


「……迎え?」


嫌な予感がした。


「榊原さんよ。あなたの上司の」


心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。


榊原誠司。俺を窓際に追いやった張本人。『使えない奴』とレッテルを貼り、俺の仕事の成果を何度も横取りしてきた男。


「ずっと言おうと思ってたんだけど、私たち、もう三ヶ月前から付き合ってるの」


美咲は悪びれもせずに言った。むしろ、自慢げですらあった。


「榊原さんは違うの。やり手だし、将来有望だし、私を大事にしてくれる。あなたとは、全然違う」


(三ヶ月、か)


三ヶ月前といえば、美咲が『仕事が忙しい』と言って会えない日が増えた時期だ。俺は文句一つ言わず、『頑張れ』とLINEを送っていた。その間ずっと、俺の上司と——。


「じゃあね、燈吾くん」


振り返りもせず、美咲は去っていく。


残されたのは、手つかずの料理と、ポケットの中で存在を主張する小さな箱。


「……ああ」


声が出なかった。


店員が心配そうにこちらを見ている。周囲の客がひそひそと囁いている。可哀想に。振られたんだ。みっともない。


全部、聞こえている。


会計を済ませ、店を出た。冬の夜風が頬を刺す。


駅までの道を歩きながら、ふとポケットに手を入れた。指輪の箱。蓋を開けることすらできないまま、ゴミ箱の前で立ち止まる。


——捨てよう。


そう思った瞬間、スマートフォンが震えた。


『霧島くん、明日から来なくていいから。君のプロジェクト、俺が引き継ぐことになったから。ていうか、もう会社に君の居場所ないでしょ? 察してよ』


榊原からのメッセージだった。


『あ、美咲のことはありがとね。大事にするから安心して。じゃ』


膝から力が抜けた。


ベンチに座り込み、空を見上げる。星なんか見えない。東京の空は、いつだって曇っている。


(俺の人生、なんだったんだろうな)


三十二年間。真面目に生きてきた。誰かを傷つけないように、迷惑をかけないように、地味に、静かに。


それなのに——。


『あなたなんか、いてもいなくても同じでしょう?』


美咲の最後の言葉が、頭の中でリフレインする。


「……そうかもな」


呟きは、冬の空に吸い込まれて消えた。


いてもいなくても同じ。


誰にも必要とされない。


価値のない人間。


(じいちゃん、俺、どうすればよかったんだろうな)


脳裏に浮かんだのは、数年前に亡くなった祖父の顔だった。海の色をした穏やかな瞳。いつも潮の香りがした、節くれだった手。


祖父が遺した、岬の古い灯台。


管理する者がいなくなり、今は無人になっているはずだ。


「……そうだ」


ふと、閃くものがあった。


俺にはもう、会社に戻る場所がない。恋人もいない。友人と呼べる人間も、ほとんどいない。


だったら——。


「逃げよう」


呟いた声は、思いのほか澄んでいた。


誰にも必要とされない俺には、誰にも忘れられた灯台がお似合いだ。


立ち上がり、歩き出す。行く先は決まった。


岬の果て。祖父が遺した、最期の居場所へ。


——その時の俺は、知らなかった。


その灯台で、俺の人生を変える一人の女性と出会うことになるなんて。



◇◇◇



第二章 岬の隠者


灯台に来て、二週間が経った。


「……また錆びてやがる」


俺は古びたレンチを握りしめ、ランプ室の回転機構と格闘していた。海風に晒され続けた金属は、至る所が腐食している。祖父が生きていた頃は毎日手入れしていたはずだが、数年の空白は建物全体に深い傷を残していた。


岬の突端に立つ白亜の灯台。高さ約十五メートル。明治時代に建てられたという古い石造りで、今では文化財として保護されている——らしい。


保護されている割に、誰も見に来ないが。


「よし、これで」


カチリと部品がはまる音。軽く回してみると、滑らかに動いた。祖父に教わった整備の腕は、錆びついていなかったようだ。


窓の外を見れば、冬の海が広がっている。


灰色の空。灰色の海。白い波頭だけが、かろうじて景色に動きを与えている。


(静かだな)


当たり前だ。人がいないのだから。


灯台守の宿舎として使われていた小さな平屋には、最低限の生活設備が残っていた。古いストーブ、色褪せた畳、祖父が使っていた食器棚。都会のワンルームより広いが、快適とは言い難い。


風が吹けば窓がガタガタ鳴り、夜になれば海鳴りだけが響く。


孤独、という言葉がこれほどしっくりくる場所を、俺は他に知らない。


「……いいじゃないか。お似合いだ」


誰に言うでもなく呟いて、階段を降りた。



夕方五時。日が傾き始めると、俺のルーティンが始まる。


発電機の確認。燃料の補充。レンズの清掃。回転機構の点検。


全て、祖父に教わったことだ。


『いいか、燈吾。灯台の光はな、海の道標だ。どんな嵐の夜でも、この光を頼りに船は家に帰る。俺たちの仕事は、その道を照らし続けることだ』


幼い俺は、祖父の隣で目を輝かせていた。


『じいちゃん、俺も灯台守になりたい!』


『そうか、そうか。じゃあ、しっかり勉強しろよ』


——結局、俺は『普通の』会社員になった。灯台守なんて、今の時代では職業として成り立たない。祖父の技術も知識も、『古臭い趣味』として婚約者に馬鹿にされるだけだった。


でも今、ここでは。


「よし」


スイッチを入れる。低い唸りとともに、巨大なレンズに光が宿った。


回転するフレネルレンズ。何千ものガラスの襞が光を集め、増幅し、水平線の彼方まで届ける。


祖父が磨き続けた光。


俺は、この光だけは絶やしたくなかった。


『誰も見ていなくても、光を灯せ。その光がいつか、誰かを救う』


祖父の言葉が、胸の奥で響く。


(誰かを救う、か)


窓の外、水平線の向こうに目を向ける。こんな田舎の岬を通る船なんて、今ではほとんどいない。漁船がたまに通るくらいだ。


俺がここで光を灯し続けたところで、誰が見ているわけでもない。


誰も、必要としていない。


——それでも。


「……まあ、いいか。どうせ他にやることもないし」


自分に言い訳をしながら、レンズを見上げる。


規則正しく回転する光。三秒に一度、閃光。それが一晩中続く。


この光を見て、俺は少しだけ救われている気がした。


少なくとも、ここでは『いてもいなくても同じ』なんて言われない。言う人間がいないからだが——それでも。



「おう、坊主! 生きてっか!」


翌朝。宿舎の戸を叩く声に目を覚ました。


「……波多野さん」


戸を開けると、七十代の小柄な老人が立っていた。日焼けした肌に深い皺、漁師の証であるゴム長靴。首にはタオルを引っ掛けている。


波多野辰巳。岬の漁村で暮らす古参の漁師で、祖父の旧友だ。俺がここに来てから、何かと世話を焼いてくれている。


「朝飯、食ったか? ほれ、女房が煮付け作りすぎたとよ」


「……いつもすみません」


「気にすんな。てめえの爺さんにゃ、何度も命を救われてんだ。孫の世話くらい、安いもんよ」


波多野さんは、遠慮なく上がり込んできた。祖父の頃からの習慣らしい。


「しかし坊主、本当に良いのか? こんな辺鄙なところで。てめえ、まだ若いだろうが」


「……俺には、ここがお似合いですよ」


苦笑して答えると、波多野さんは眉を寄せた。


「灯一郎はな、『誰も見てなくても光を灯す男』だった。だが、そりゃあ自分を捨てることじゃねえ。てめえ、何から逃げてきた?」


鋭い問いかけに、言葉が詰まる。


「……色々、ありまして」


「言いたくねえなら言わんでいい。だがな、坊主」


波多野さんは、窓の外の海を見つめた。


「灯台ってのはな、海の命綱よ。てめえの爺さんは、その重みを知ってた。だからこそ、胸張って生きてた。てめえも、そうなれ。卑屈になるな」


「……」


「まあ、若いうちは色々あらあ。ゆっくり考えろや」


言うだけ言って、波多野さんは帰っていった。


残されたのは、煮付けの皿と、胸に刺さった言葉。


『卑屈になるな』


(無理だ。俺みたいな人間が、どうやって胸を張れっていうんだ)


窓の外、灰色の海が広がっている。


今日も、誰もいない一日が始まる。



◇◇◇



その夜——。


天気予報は、数十年に一度の嵐を告げていた。



第三章 嵐夜の漂着


風が、唸っている。


「……やばいな、これは」


窓の外を見れば、横殴りの雨が視界を遮っていた。ラジオからは絶え間なく警報が流れている。『記録的暴風雨』『外出を控えて』『高波に警戒』——。


灯台の中は、轟音に包まれていた。


風速三十メートル以上。海は白い泡で埋め尽くされ、波は岸壁を超えて打ち付けてくる。こんな夜に船を出す馬鹿はいないだろうが——それでも、万が一ということがある。


俺は迷わず、灯台に火を入れた。


「……頼むぞ」


発電機が悲鳴を上げている。老朽化した設備は、嵐の負荷に耐えきれるか怪しい。それでも、光だけは絶やすわけにはいかない。


祖父の声が、耳元で響く気がした。


『どんな嵐の夜でも、光を灯せ。その光が、誰かの命綱になるかもしれん』


「わかってるよ、じいちゃん」


ランプ室でレンズを見守りながら、夜が更けていく。



異変に気づいたのは、深夜二時を回った頃だった。


「——なんだ?」


灯台の光が、海の一点を繰り返し照らしている。その中に、何か——。


目を凝らす。


波間に、人の姿が見えた。


「嘘だろ……!」


考えるより先に、体が動いていた。


雨具を羽織り、灯台を飛び出す。暴風が体を叩きつけ、まともに立っていられない。それでも足を動かす。岸壁に向かって走る。


波が引いた一瞬、岩場に打ち上げられた人影を見つけた。


「——っ!」


駆け寄る。波しぶきで全身がずぶ濡れになるのも構わず、その体を抱き起こした。


女性だった。


長い髪が顔に張り付いている。高価そうな服は破れ、裸足の足からは血が流れていた。


「おい、しっかりしろ!」


反応がない。呼吸は——ある。かすかだが、胸が上下している。


「くそっ……!」


次の大波が来る前に、抱き上げて走った。彼女の体は驚くほど軽い。まるで、生きることを諦めかけているような——。


灯台の宿舎に転がり込み、布団に寝かせた。濡れた服を——いや、さすがにそれは。毛布を重ねて体を温めながら、ストーブの火力を最大にする。


「……くそ、どうすれば」


救急車を呼ぼうにも、この嵐では来られないだろう。医者がいる最寄りの町まで、車で三十分はかかる。


俺にできるのは、祖父に教わった応急処置だけだ。


体温の低下を防ぐ。傷の手当て。気道の確保。意識が戻るまで目を離さない——。



朝になっても、彼女は目を覚まさなかった。


嵐は収まりつつあったが、俺は彼女の傍を離れられなかった。


「……誰なんだ、この人」


濡れた髪を拭いてやりながら、改めて顔を見る。


——綺麗な人だった。


整った顔立ち、すらりとした眉、長い睫毛。都会的で、明らかにこんな田舎には不釣り合いな雰囲気。服の残骸を見る限り、かなり裕福な家の出だろう。


なぜ、こんな嵐の夜に海にいた? 船が座礁でもしたのか? いや、そんな情報はラジオでは流れていない。


まさか——自分から?


「……考えすぎだ」


首を振る。とにかく今は、彼女が目を覚ますのを待つしかない。



彼女が意識を取り戻したのは、その日の夕方だった。


「——ぅ……」


小さな呻き声に、俺は飛び起きた。


「気がついたか!?」


駆け寄ると、彼女の瞳がゆっくりと開いた。


海を映したような、深い青緑色。


「……ここ、は……」


掠れた声。当然だ。海水を飲み、体力を使い果たしているはずだ。


「岬の灯台だ。俺が——」


そこまで言いかけて、彼女の瞳が大きく見開かれた。


俺を見つめている。


いや、俺の後ろを——。


窓の外。夕暮れの中、灯台の光が回り始めていた。自動タイマーを設定しておいたのだ。


「……ひかり」


彼女の唇が、かすかに動いた。


「あの光……嵐の中で、ずっと……見えていた……」


目から涙が零れ落ちる。


「死のうと、思ったんです……。海に入ったら、全部終わるって……。でも、あの光が……ずっと、私を照らしていて……」


声が震えている。


「生きろって、言われた気がしたんです……。だから私、泳いだ……あの光に向かって……」


「……」


俺は、何も言えなかった。


死のうとした? 自分から海に?


彼女の言葉の重さに、頭が追いつかない。


「……あなたが、助けてくれたんですか」


涙に濡れた青緑の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめた。


「……ああ。岩場に打ち上げられてるところを」


「そう、ですか……」


彼女は、ゆっくりと体を起こそうとした。俺は慌てて肩を支える。


「無理するな。まだ体力が——」


「お名前、教えてもらえますか」


「え?」


「命の恩人のお名前を、知りたいんです」


真剣な目だった。冗談や社交辞令ではない、本気の眼差し。


「……霧島燈吾。ここの——灯台の管理をしてる」


「灯火さん」


「いや、燈吾だ。『とうご』」


「灯火さん」


訂正を無視して、彼女は微笑んだ。疲れ切った顔に浮かんだ、それでも眩しいほどの笑顔。


「私は潮海音と申します。灯火さん——私の命を救ってくださって、ありがとうございます」


深々と頭を下げられて、俺は狼狽えた。


「いや、俺は別に——たまたま見つけただけで——」


「たまたまなんかじゃありません」


顔を上げた海音の瞳に、強い光が宿っていた。


「あの嵐の中、光を灯し続けてくれた人がいたから、私は生きているんです。あなたのおかげです。灯火さん」


「……」


何も言えない。


五年間尽くした婚約者には『退屈』と切り捨てられたのに。会社では『使えない奴』と蔑まれたのに。


この人は、俺の何を見て、そんなことを言うんだ?


(戸惑う。困惑する。でも——)


胸の奥が、じんわりと熱くなった。


「……まあ、とにかく休め。話は体が治ってからだ」


照れ隠しのぶっきらぼうな言葉。海音は、くすりと笑った。


「はい。でも、一つだけ」


「なんだ」


「少しだけ——ここにいさせてもらえませんか」


「……は?」


「帰る場所が、ないんです」


彼女の声が、かすかに震えた。


「家にも、どこにも。私が必要とされている場所なんて、どこにも——」


俺は、息を飲んだ。


その言葉は、あまりにも——。


『あなたなんか、いてもいなくても同じでしょう?』


——俺と、同じだった。



◇◇◇



第四章 居候令嬢


「というわけで、お世話になります!」


海音が灯台の宿舎に『住み着いて』から、三日が経った。


「いや、待て」


俺は頭を抱えていた。


「お前、本当に帰らなくていいのか? 家族とか、心配してないのか?」


「大丈夫です! 連絡はしましたから」


「連絡って……」


「『生きてます。しばらく帰りません』って」


「それだけ!?」


「それだけで十分です」


海音は屈託なく笑った。あの夜の、死にかけていた少女とは思えないほど、元気に——というか、図々しくなっている。


「でも、俺みたいな男と二人で住むとか、色々まずいだろ。お前、見たところ良いところのお嬢さんっぽいし」


「良いところのお嬢さんだったら何ですか?」


「いや、だから、俺なんかと一緒にいたら、評判が——」


「私、もうそういうの気にしません」


海音は、ぷい、とそっぽを向いた。


「世間体とか、家の名誉とか、ふさわしい相手とか。そういうのに縛られて生きてきた結果が、海に飛び込む人生ですよ? もう懲り懲りです」


「……」


「それに」


振り返った彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。


「私、灯火さんに恩返しがしたいんです。この光に、この人に、命を救われた。だから——」


「だから?」


「住み込みでお手伝いさせてください! ご飯作れます! 掃除も洗濯もできます! なんなら灯台の整備も手伝います!」


「いや、整備は流石に——」


「じゃあ、とりあえずご飯からですね! 冷蔵庫見ていいですか?」


言うが早いか、海音は台所に向かっていった。


「……なんだこれ」


呆然とする俺を置いて、カチャカチャと物音が響く。


(いや、普通追い出すだろ。見ず知らずの女を住まわせるとか、ありえないだろ)


頭ではそう思う。でも——。


『私が必要とされている場所なんて、どこにも——』


あの言葉が、引っかかっていた。


俺と、同じ言葉。同じ目の色。


だから——追い出せなかった。



一時間後。


「はい、どうぞ!」


テーブルに並べられた料理を見て、俺は絶句した。


焼き魚。味噌汁。野菜の煮物。漬物。ご飯。


冷蔵庫にあったのは、波多野さんにもらった魚と、俺が適当に買っておいた野菜だけのはずだ。なのに、この品数。しかも、見た目が——。


「……これ、お前が作ったのか?」


「はい! お口に合うといいんですけど」


海音は緊張した面持ちで、俺の反応を窺っている。


箸を取る。まず、味噌汁を一口。


「——うまい」


素直な感想が口をついた。


出汁がしっかり効いていて、味噌の加減も絶妙。具の豆腐と若布の食感も良い。俺が作るインスタント味噌汁とは比べ物にならない。


「ほ、本当ですか!?」


「ああ。焼き魚も……うまい。なんだこれ、どうやったらこんな——」


「よかったあ……!」


海音の顔が、ぱあっと明るくなった。


「実は料理、得意なんです。小さい頃、お屋敷の使用人のおばあさんに教えてもらって——」


「お屋敷?」


「あ」


海音が、慌てたように口を押さえた。


「えっと、その、なんでもないです! とにかく、美味しかったなら良かったです!」


「いや、待て。お屋敷って——」


「食べましょう! 冷めちゃいますよ!」


強引に話題を変えられた。


(……お嬢様、か)


やっぱり、俺の推測は当たっていたらしい。


でも、今は追及しないでおこう。話したくないことは誰にでもある。俺だって、婚約破棄のことなんか話したくない。


黙々と食べ進める。全ての料理が、驚くほど美味だった。


「……ごちそうさまでした」


「おそまつさまでした!」


海音は嬉しそうに皿を下げていく。その後ろ姿を見ながら、俺は首を傾げていた。


令嬢——おそらく、かなりの名家のお嬢様。なのに、料理がここまでできる。しかも庶民的な家庭料理。


ちぐはぐだ。何かが、噛み合わない。


『そういうのに縛られて生きてきた結果が、海に飛び込む人生ですよ?』


彼女は何から逃げてきたんだろう。何を抱えているんだろう。


(……まあ、いいか)


首を振る。


俺に詮索する権利なんかない。俺だって、何も話していないのだから。



海音がいると、灯台の宿舎は騒がしくなった。


「灯火さん、朝ごはんですよー!」

「灯火さん、お風呂沸きました!」

「灯火さん、この機械なんですか? 教えてください!」


朝から晩まで、彼女の声が響いている。一人で過ごしていた静寂は、もうどこにもない。


(うるさい)


最初はそう思った。


(迷惑だ)


そうも思った。


でも——。


「灯火さん、今日の夕日、すごく綺麗ですよ! 見ましょう、一緒に!」


海音に腕を引っ張られて、灯台のてっぺんに連れて行かれる。


水平線に沈む夕日。オレンジと赤紫のグラデーション。海面がきらきらと輝いている。


「わあ……!」


隣で、海音が息を飲んだ。


その横顔を見て——ふと、胸が温かくなった。


(悪くない、かも)


誰かと一緒に、夕日を見る。誰かの作った飯を食う。誰かの声を聞きながら、一日を過ごす。


ずっと一人だった。美咲と付き合っていた頃も、本当の意味で『一緒に』いた気はしなかった。


でも、今は——。


「灯火さん、どうしました?」


「……いや、なんでもない」


目を逸らす。


「変な灯火さん」


海音はくすりと笑った。


「あ、そうだ。私、決めたんです」


「なんだ?」


「ここに、ずっといます」


「は?」


「灯火さんが追い出すって言っても、いますからね。私、灯火さんに恩返しするまで、絶対ここを離れませんから!」


宣言するように言って、海音は階段を降りていった。


残された俺は、呆然と立ち尽くす。


(なんなんだ、あいつは)


溜息をついて——でも、口元が緩むのを止められなかった。



◇◇◇



その夜、俺は彼女の正体を知ることになる。



第五章 二つの孤独


「——潮グループの令嬢?」


海音が持っていた名刺を見て、俺は固まった。


潮グループ。日本有数の海運会社だ。船舶、港湾、物流——海に関わるあらゆる事業を手がける巨大コングロマリット。


その名前が、彼女の姓と一致している。


「……お前、まさか」


「はい。潮グループ会長・潮鋼太郎の娘です」


海音は、観念したように頷いた。


事の発端は単純だった。洗濯をしていた俺が、彼女の服のポケットから濡れてボロボロになった名刺入れを見つけた。それだけだ。


「だから言えなかったんだ。家柄とか、気にしないでほしくて」


「……なるほどな」


俺は名刺を返し、向かいに座った。


「で、そんな良いところのお嬢様が、なんで海に飛び込んだんだ」


単刀直入に聞いた。海音は、しばらく黙っていた。


窓の外では、波の音が静かに響いている。今夜は穏やかな海だ。


「……政略結婚、って知ってますか」


「言葉としては」


「私、物心ついた時から、『会社のための駒』だったんです」


海音の声は、淡々としていた。感情を押し殺しているような、そんな響き。


「母は私が幼い頃に病気で亡くなりました。父は仕事一筋で、私のことなんか見てなかった。『良い縁談を持ってくるから、お前は黙って従え』。それだけ」


「……」


「今度の縁談相手は、父の取引先の御曹司でした。私より十五歳も年上で、三度目の結婚で、女癖が悪いと評判の人」


俺は眉を顰めた。


「なのに、父は押し通そうとした。『会社のためだ』って」


「それで逃げてきたのか」


「いいえ」


海音は首を振った。


「逃げようとすらしなかった。私は——従うつもりだったんです」


「……え?」


「だって、私には価値がないから」


彼女の瞳が、俺を捉えた。海の色をした瞳。あの夜と同じ、深い哀しみを湛えた色。


「会社の名前以外に、私の存在意義なんてない。誰も私自身を見てくれない。婚約者も、『君は潮の名前だけあればいい』って言いました。顔も、性格も、何も関係ない。ただの道具」


「海音……」


「でもね、それでも良かったんです。だって、そうやって生きてきたから。諦めてたから」


声が震え始める。


「でも、婚約のパーティーの夜、婚約者が他の女の人と——」


言葉が途切れた。海音の目から、涙が零れ落ちる。


「私の目の前で、『こっちが本命だから』って笑ったんです。『君とは書類上の関係だけでいい』って。それで、私——」


「……」


「プツン、って。糸が切れたみたいに。気づいたら海にいて、泳いでて、でも途中で力が抜けて——」


俺は、無言で彼女の手を取った。


冷たい。震えている。


「でも、あの光が見えたんです」


海音は、窓の外——灯台を見上げた。今夜も変わらず、光が回っている。


「嵐の中で、ずっと光ってた。まるで、『こっちだ』って呼んでるみたいに。『生きろ』って、言われてる気がしたんです」


「……」


「だから泳いだ。あの光に向かって。気づいたら、ここにいて——灯火さんがいた」


涙で濡れた顔が、俺を見上げた。


「灯火さんは、私を助けてくれた。名前も身分も聞かずに、ただ助けてくれた。服を乾かして、ご飯を作って、傷の手当をして——」


「そんなの、当たり前だ。誰だってそうする」


「しません」


海音は強い口調で言った。


「私の周りの人は、誰もしてくれなかった。『潮の令嬢』としてしか見てくれなかった。でも、灯火さんは——私を、私として扱ってくれた」


「……」


「だから、私、ここにいたいんです。灯火さんの傍に。この灯台の光の傍に。ここなら——私も、必要とされてる気がするから」


最後の言葉は、ほとんど囁きだった。


俺は、何も言えなかった。


彼女の気持ちが、痛いほどわかったからだ。


『あなたなんか、いてもいなくても同じでしょう?』


俺も、同じことを言われた。存在を否定された。価値がないと切り捨てられた。


「……俺も、そうだった」


気づけば、口が動いていた。


「え?」


「婚約者に捨てられた。五年も付き合ったのに、『退屈、何の取り柄もない』って。会社も追い出された。俺なんか、いてもいなくても同じだって——そう言われて、逃げてきたんだ。ここに」


海音が、息を飲んだ。


「灯火さんも……?」


「ああ。だから、お前の気持ちは——少しは、わかるつもりだ」


沈黙。


波の音だけが、静かに響いている。


「……そうだったんですね」


海音の声は、不思議と穏やかだった。


「私たち、似てますね」


「……かもな」


「孤独で、自分に価値がないと思っていて、逃げてきた場所が同じで」


「……ああ」


「だったら」


海音が、俺の手を握り返した。温かくなっている。さっきまでの震えも、止まっていた。


「一緒に、生きませんか」


「……は?」


「だって、一人で孤独を抱えるより、二人で分け合った方がいいじゃないですか。私、灯火さんと一緒にいたいです。灯火さんの傍で、恩返しがしたい。だから——」


「いや、待て、それは——」


「あ、変な意味じゃないですよ!? ただ、その、同居人として! お手伝いとして! ご飯作ったり掃除したりする係として!」


慌ててまくしたてる海音。顔が真っ赤だ。


「……わかった、わかった」


俺は溜息をついた。でも、悪い気分じゃなかった。


「好きにしろ。どうせ俺一人じゃ、この広い宿舎も持て余してたところだ」


「本当ですか!?」


「ただし、条件がある」


「なんですか?」


「俺のこと、ちゃんと『燈吾』って呼べ。灯火さんはやめろ」


「え、でも——」


「呼ぶなら、それが条件だ」


海音は、しばらく考え込んだ。


「……灯火さん」


「だから燈吾だって」


「灯火さん!」


「お前なあ——」


「えへへ」


悪びれもせずに笑う海音を見て、俺は脱力した。


(なんなんだ、この女は)


呆れる。でも、胸の奥が温かい。


窓の外では、灯台の光が変わらず回っている。


二つの孤独が、寄り添い始めた夜だった。



◇◇◇



第六章 光を継ぐ者


海音が灯台に住み着いて、一ヶ月が経とうとしていた。


「灯火さん、すごい! この機械、もう動くようになったんですか!?」


「ああ。回転機構のギアが摩耗してただけだ。部品を削り直したら直った」


ランプ室で、俺は工具を片付けながら答えた。海音が横から覗き込んでいる。


「削り直したって、こんなの自分で作れるんですか?」


「大したことじゃない。じいちゃんに習ったんだ。昔の灯台守は、何でも自分でできないとやっていけなかったらしい」


「へえ……」


海音が、感嘆の目で俺を見つめている。


「……なんだ」


「いえ、灯火さんって本当にすごいなって」


「だから大したことじゃ——」


「大したことですよ!」


海音が力強く遮った。


「見てください、このレンズ! こんなに綺麗に磨けるの、職人技じゃないですか。それに、発電機の修理も、回転機構の調整も、海図の読み方も——灯火さん、何でもできるんですね」


「……別に、誰にでもできることだ」


「できませんよ、普通」


海音は、ランプ室の窓から外を見た。青い海が広がっている。


「お屋敷にいた頃、機械が壊れたら業者を呼んでました。掃除も料理も、全部使用人がやってくれた。私は何もできない人間でした。でも、灯火さんは違う」


「……」


「自分の手で直して、自分の手で守って、自分の手で光を灯す。それって、すごく——」


海音が振り返る。


「——かっこいいです」


真っ直ぐな視線に、俺は目を逸らした。


「やめろ。からかうな」


「からかってません! 本気です!」


「……」


居心地が悪い。


こんな言葉、言われ慣れていない。美咲は俺の趣味を『古臭い』と馬鹿にした。会社では『地味で目立たない奴』という評価だった。


なのに——。


「あの、灯火さん」


「なんだ」


「おじいさんのこと、もっと聞かせてもらえませんか?」


「じいちゃんの?」


「はい。灯火さんに色々教えてくれた方なんですよね? どんな人だったのか、知りたいんです」


俺は、少し考えた。


祖父のことを話すのは、久しぶりだ。美咲には興味がないと一蹴された。波多野さんには話す必要がない——彼自身が祖父をよく知っているからだ。


でも、海音には——。


「……いいぞ。長くなるが」


「嬉しい! 聞きます、全部!」


海音が、畳に座り直した。まるで子供みたいなきらきらした目で、俺を見上げている。



「じいちゃん——霧島灯一郎は、この灯台で五十年以上働いてた」


窓の外を見ながら、俺は語り始めた。


「戦後すぐからだ。まだ電気もろくに通ってない頃から、毎日この階段を上って、灯りを点していた。どんな嵐の夜も、どんなに体がきつくても、一度も欠かさなかったらしい」


「五十年……すごい」


「地元では『岬の守り神』って呼ばれてた。じいちゃんの灯台に何度も命を救われた漁師が、何人もいるんだ。波多野さんもその一人だ」


「あの漁師さんも?」


「ああ。若い頃、嵐で遭難しかけたところを、じいちゃんの灯りに導かれて帰ってきたって」


海音が、胸の前で手を組んだ。


「素敵なおじいさんですね」


「……そうだな」


俺は、古い写真立てを手に取った。日焼けした顔に白い髭、穏やかな目。祖父の遺影だ。


「じいちゃんは、俺に色々教えてくれた。機械の直し方、海図の読み方、潮の流れ、天気の見方。『いつか役に立つ日が来る』って言ってた」


「……」


「正直、信じてなかった。今の時代、灯台守なんて職業は成り立たない。じいちゃんの知識なんか、誰も必要としない。そう思ってた」


写真立てを元に戻す。


「でも——」


「でも?」


「嵐の夜、お前を助けられたのは、じいちゃんのおかげだ」


海音が、目を見開いた。


「あの夜、発電機がトラブルを起こしかけた。俺がじいちゃんに教わった修理法を知らなかったら、光は消えていた。お前は——」


「私は、見つけてもらえなかった」


海音が、静かに続けた。


「そうだな」


沈黙。波の音が、窓の外で囁いている。


「灯火さん」


「ん?」


「私、知ってます」


海音が、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「灯火さんは『大したことじゃない』って言いますけど、それは嘘です。本当はすごい人なんです。おじいさんから受け継いだ技術で、ちゃんと人の命を救ってる。私の命も」


「……」


「元婚約者の人が何て言ったか知りません。でも、その人は間違ってます。灯火さんは——」


海音の目が、潤んでいた。


「——光なんです。暗い海の中で、私を導いてくれた、灯台の光」


言葉が、出なかった。


誰かに認めてもらったのは、いつぶりだろう。祖父が生きていた頃以来、こんな風に言われたことがあっただろうか。


「……俺は、そんな大層な人間じゃない」


絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「退屈で、地味で、何の取り柄もない。美咲の言う通りだ」


「違います!」


海音が立ち上がった。


「退屈なんかじゃない! 地味でもない! 取り柄がないなんて、嘘です!」


「海音——」


「だって灯火さん、毎日この灯台を守って、何百っていう船を救ってるじゃないですか! 私の命も救ってくれたじゃないですか!」


涙が、彼女の頬を伝っていた。


「それを『いてもいなくても同じ』なんて——そんなこと言う人は、間違ってます! 絶対に、間違ってます!」


「……」


「灯火さんは、必要な人です。私には——私にとっては、灯火さんがいなきゃダメなんです」


最後は、ほとんど叫ぶような声だった。


俺は、呆然と立ち尽くしていた。


涙を流しながら、俺を睨みつける海音。その姿が、ひどく眩しく見えた。


「……ありがとう」


気づけば、そう言っていた。


「……え?」


「そんな風に言ってもらったの、初めてだ」


俺の声も、震えていたかもしれない。


「だから——ありがとう、海音」


海音が、目をぱちくりさせた。それから——泣きながら、笑った。


「……灯火さん、名前」


「ん?」


「初めて、名前で呼んでくれました」


「——っ」


言われて気づいた。無意識に『海音』と呼んでいた。


「い、いや、これは——」


「うれしいです」


海音が、涙を拭いながら微笑んだ。


「これからも、海音って呼んでください。灯火さん」


「……お前も、『燈吾』って呼べよ」


「それは——えっと——」


顔が真っ赤になっていく。


「……今度から、考えます」


「なんだそれ」


思わず苦笑が漏れた。海音も、照れくさそうに笑う。


窓の外では、夕日が海を染めていた。


オレンジ色の光の中で、二人の影が並んでいる。


(悪くない——かもな)


初めて、そう思えた一日だった。



◇◇◇



第七章 過去の亡霊


その女が灯台を訪ねてきたのは、穏やかな春の午後だった。


「——ひっさしぶり、燈吾くん」


聞き覚えのある声に振り返る。


心臓が、凍りついた。


「美咲……」


柊美咲が、そこに立っていた。


艶やかな黒髪、切れ長の目、赤い唇。都会的な装いは、潮風に晒された岬には不釣り合いだ。ヒールの高いパンプスが、砂利道で不安定に揺れている。


「こんな田舎にいるって聞いて、びっくりしちゃった。灯台守? 本当に?」


笑いを含んだ声。馬鹿にしている。あの頃と何も変わっていない。


「……何しに来た」


「冷たいなあ。五年も付き合ったのに」


美咲が、一歩近づいた。


「実はね、榊原さんとうまくいかなくなっちゃって」


「……は?」


「だから、戻ってきたの。燈吾くんのところに」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「待て。お前、俺を捨てて榊原のところに——」


「あれは間違いだったの」


美咲が、しおらしく目を伏せた。よく見慣れた仕草だ。こうすれば俺が折れると、知っている顔。


「榊原さんね、会社で問題起こしちゃったみたいで。私も巻き込まれそうになって大変だったの」


「……」


「でもね、燈吾くんのこと、ずっと忘れられなかった。やっぱりあなたが一番だって——」


「嘘だろ」


俺の声は、自分でも驚くほど冷たかった。


「嘘じゃないよ! 本当に——」


「都合が悪くなったから戻ってきただけだろ。俺は予備のタイヤか何かか」


「そんなこと——」


「灯火さーん!」


明るい声が響いた。振り返ると、海音が宿舎から出てきたところだった。エプロン姿で、手には洗濯籠。


「お昼ご飯できましたよ! 今日はあじの——」


言葉が途切れた。


海音の視線が、美咲で止まっている。


美咲もまた、海音を見つめていた。驚愕に目を見開いて。


「……誰、この人」


ゆっくりと、美咲の声のトーンが変わった。作り物のしおらしさが消え、地の苛立ちが滲み出す。


「潮海音です。灯火さん——燈吾さんのお世話になってます」


海音が、礼儀正しく頭を下げた。でも、その目は警戒している。本能的に、この女が敵だと察しているようだった。


「お世話……?」


美咲の視線が、俺と海音の間を往復する。


「燈吾くん、この人と住んでるの?」


「……ああ」


「は? いや、ちょっと待って——」


美咲の顔が歪んだ。


「私のこと捨てて、こんな田舎で女と同棲してたってこと?」


「捨てた?」


俺は、さすがに声を荒らげた。


「捨てたのはお前だろ。『退屈』『何の取り柄もない』——散々言い放って、俺の上司と三股かけてたのはどこの誰だ」


「そ、それは——」


「あなたが、元婚約者の方ですか」


海音の声が、静かに割り込んだ。


美咲が振り返る。


「なによ、あなた」


「燈吾さんから少し聞いてます。五年間付き合って、『退屈で何の取り柄もない』と言って捨てた方だと」


「——っ」


「失礼ですが、質問させてください」


海音は、穏やかだが芯のある声で言った。


「燈吾さんの、どこが『何の取り柄もない』んですか?」


美咲が、目を見開いた。


「はあ? 何言って——」


「燈吾さんは、毎日この灯台を守ってます。嵐の夜も、真冬の寒い日も、一日も欠かさず光を灯してます。おじいさんから受け継いだ技術で、古い機械を直して、何百という船を安全に導いてます」


「灯台なんて、今どき誰も見て——」


「私は見てました」


海音の声が、強くなった。


「嵐の夜、海に投げ出された私を、あの光が導いてくれました。私の命を救ってくれたのは、燈吾さんが灯し続けた光です」


「……」


「それを『退屈で何の取り柄もない』なんて——あなたは、燈吾さんの何を見てたんですか?」


沈黙が落ちた。


美咲の顔が、怒りで紅潮している。プライドを傷つけられた獣のような目だ。


「……なんなの、この女」


低い声。海音に向けられた敵意は、隠そうともしていない。


「燈吾くん、この人誰よ。どこの馬の骨よ」


「彼女は——」


「潮グループの潮海音です」


さらりと、海音が名乗った。


美咲の顔が、凍りついた。


「う、潮って——あの潮グループ?」


「はい」


「嘘……令嬢様がなんでこんな——」


「燈吾さんに命を救われたからです。だから、恩返しをしています」


海音は、俺の隣に並んだ。


「失礼ですが、もうお帰りになってください。燈吾さんには、あなたに付き合う義理はありませんから」


「——っ」


美咲の目が、殺気を帯びた。だが、潮グループの名前を出されて、強く出られないのだろう。唇を噛んで、俺を睨みつける。


「……こんな田舎で、令嬢様と仲良くやってるってわけね」


「美咲、もう帰れ」


俺は、静かに言った。


「お前の居場所は、ここにはない」


「……っ!」


美咲は、何か言いかけて——。


結局、何も言わなかった。


踵を返し、砂利道をよろめきながら去っていく。その背中は、あの夜のように堂々としたものではなかった。


惨めで、追い詰められた背中だった。



美咲が去った後、俺と海音は黙って宿舎に戻った。


「……灯火さん」


「ん?」


「大丈夫ですか?」


海音が、心配そうに俺を覗き込んでいる。


「ああ。平気だ」


「嘘です。顔、強張ってます」


「……」


見抜かれていた。


確かに、動揺している。美咲の顔を見て、あの夜の言葉が蘇った。胸の奥が、チリチリと痛む。


「……お前、さっきの」


「はい?」


「なんで、あそこまで言ってくれたんだ。相手は初対面だろ」


海音は、少し考えてから——。


「許せなかったんです」


静かに、でもはっきりと言った。


「灯火さんを『何の取り柄もない』なんて言う人が。灯火さんがどれだけすごい人か、全然わかってない人が。私、許せなくて——」


「海音」


「だから、ちゃんと言いたかったんです。灯火さんの味方だって。灯火さんの価値を知ってるって」


青緑の瞳が、俺を見上げた。


「……ありがとう」


二度目の、ありがとう。


言葉にすると、胸の奥の痛みが少し和らいだ気がした。


「お礼なんていりません」


海音が、照れくさそうに笑う。


「私、灯火さんの味方ですから。ずっと」


その言葉が、どれだけ俺を救っているか——。


彼女は、知らないのだろう。



◇◇◇



美咲の来訪は、嵐の予兆に過ぎなかった。


数日後、海音の実家から使者が現れる——。



第八章 灯台守の価値


美咲が去ってから、数日が経った。


俺はいつものように灯台の整備をしていたが、どうにも集中できないでいた。


『退屈で、何の取り柄もない』


あの言葉が、頭の中でリフレインする。もう何ヶ月も前のことなのに、傷は塞がっていなかった。


「……くそ」


工具を置き、窓の外を見る。海は穏やかだ。今日も、明日も、変わらず波が寄せては返す。


俺の存在なんか関係なく。


「灯火さん!」


階段を駆け上がってくる足音。振り返ると、海音が息を切らせて立っていた。


「どうした」


「あの、お客さん——」


言葉が途切れた。海音の顔が、蒼白だった。


「海音? 大丈夫か?」


「……父の、使いの人が」



宿舎の前に、黒塗りの高級車が停まっていた。


運転席から降りてきたのは、スーツ姿の壮年の男だ。いかにも大企業の幹部という風貌。海音を見る目が、無機質に冷たい。


「お嬢様、会長がお呼びです」


「……」


「お帰りください。縁談の件もあります」


海音の顔が、さらに強張った。


「お嬢様——」


「待ってくれ」


俺は、二人の間に入った。


「あんた誰だ。いきなり来て、何を言ってる」


男は、俺を一瞥した。虫でも見るような目だった。


「灯台管理人の方ですか。お嬢様をお預かりいただき、感謝します。しかし、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」


「迷惑なんかかけてない」


「それはあなたが決めることではありません」


冷たい声。


「お嬢様、車へ」


「——嫌です」


海音の声は、震えていたが、はっきりしていた。


「私は、ここにいます」


「お嬢様、会長のご意向です。逆らうことは——」


「私の人生は私のものです。父でも、勝手に決める権利はありません」


男の眉が、ぴくりと動いた。


「……そうですか」


声のトーンが変わった。表面上の丁寧さが消え、威圧感が滲み出す。


「では、伝えておきます。会長は、お嬢様がお戻りにならない場合——灯台への支援を打ち切ると仰っています」


「何?」


俺の声が尖った。


「この灯台は、潮グループの寄付で維持されているのをご存知ですか? もし支援が止まれば——」


「——っ」


海音の顔から、血の気が引いた。


「廃灯台、ですね。取り壊しになるでしょう」


男は、無表情に告げた。


「三日後に、改めて迎えに参ります。それまでに、ご決断を」


言うだけ言って、男は車に乗り込んだ。黒塗りの車が、砂埃を上げて去っていく。


残されたのは、立ち尽くす俺と、蒼白な海音だけだった。



「……ごめんなさい」


夕食時、海音がぽつりと言った。


「なんで謝る」


「私のせいで、灯台が——」


「お前のせいじゃないだろ」


俺は、箸を置いた。


「あいつらが勝手に言ってるだけだ。お前が気に病むことじゃない」


「でも——」


「海音」


名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。


「俺が灯台を守るのは、お前のためじゃない。じいちゃんのためでもない。俺自身のためだ」


「……」


「だから、お前が帰るかどうかは、お前が決めろ。灯台のことは俺が考える」


海音の目に、涙が浮かんだ。


「灯火さん——」


「泣くな。飯がまずくなる」


「……ひどいです」


言いながら、海音は笑った。泣き笑いのぐちゃぐちゃな顔。


「でも——」


「ん?」


「私、決めました」


海音が、涙を拭いながら言った。


「ここにいます。灯火さんと、この灯台と、一緒にいます」


「……」


「逃げません。もう、逃げたくないんです」


その瞳に、迷いはなかった。


嵐の夜、死にかけていた少女とは思えないほど——強い光が宿っていた。


「……そうか」


俺は、小さく笑った。


「じゃあ、一緒に戦うか」


「はい!」


海音が、満面の笑みで頷いた。


窓の外では、灯台の光が変わらず回っている。



◇◇◇



それから数日後——。


天気予報は、巨大な台風の接近を告げていた。



第九章 嵐の予兆


「——台風十七号は、勢力を維持したまま本州に接近しています。最大風速五十メートル、中心気圧九三〇ヘクトパスカル。過去十年で最大級の——」


ラジオから流れるニュースに、俺は眉を顰めた。


「大きいな、これは」


窓の外を見れば、空は既に不穏な色を帯びている。灰色の雲が低く垂れ込め、海は白い波頭で荒れ始めていた。


「灯火さん、これ——」


海音がスマートフォンを持って駆け寄ってきた。画面には、ニュースサイトの速報が表示されている。


『潮グループ所有貨物船、紀伊半島沖で座礁 乗員救助急ぐ』


「……座礁?」


「父の会社の船です」


海音の顔が曇っている。


記事を読み進める。貨物船は台風の影響で航路を外れ、岩礁に乗り上げたらしい。乗員は全員救助されたものの、船体は大破。原因調査が進んでいる——。


「……なんで座礁なんかしたんだ。このあたりの海域は、灯台の光が——」


言いかけて、気づいた。


「灯火さん?」


「この海域、数年前に灯台が廃止されてるんだ」


俺は、海図を広げた。指で辿っていく。


「じいちゃんが生きてた頃は、ここにも灯台があった。でも、コスト削減で廃止になった。確か——」


言葉が、途切れた。


「確か?」


「……潮グループが主導した『海上インフラ効率化計画』で、だ」


沈黙が落ちた。


海音が、何かを言いかけて——言葉を飲み込んだ。


「父が、推進した計画です」


絞り出すような声。


「コスト削減のために、老朽化した灯台を順次廃止する。GPSがあるから灯台はもう要らない——そう言って」


「……」


「皮肉ですね」


海音は、窓の外の海を見つめた。


「灯台を要らないと言った会社の船が、灯台がなくなった海域で座礁するなんて」


言葉に棘はない。ただ、哀しげだった。


「——この灯台は」


俺は、頭上のランプ室を見上げた。


「じいちゃんが守って、俺が受け継いだ。お前の親父さんがなんと言おうと、俺はこの光を消すつもりはない」


「灯火さん……」


「嵐が来る。準備するぞ」


俺は、工具箱を手に取った。



夕方には、風が唸り始めていた。


「発電機、よし。燃料、よし。予備電源、よし——」


チェックリストを確認しながら、灯台を回る。


老朽化した設備は、いつトラブルを起こすかわからない。特にこの規模の台風では、何が起きても不思議じゃない。


「灯火さん、ご飯できました!」


宿舎から海音の声。最後の点検を終えて、階段を降りた。


テーブルには、温かい鍋料理が湯気を上げていた。


「こういう日は、温まるものがいいかなって」


「ああ。ありがとう」


向かい合って座り、手を合わせる。


「いただきます」


鍋の具材を口に運ぶ。野菜が甘い。出汁が効いている。体が芯から温まるような味だ。


「美味い」


「よかった」


海音が、ほっとしたように微笑んだ。


窓の外では、風がますます強まっている。ガタガタと窓枠が揺れ、海鳴りが地鳴りのように響いていた。


「……灯火さん」


「ん?」


「今夜、船は出るんでしょうか」


「普通なら出ない。こんな嵐の夜に出港する馬鹿はいない」


「でも——」


「ああ。緊急事態なら話は別だ」


座礁事故のこともある。救助船が行き来しているはずだ。そして、万が一航路を外れた船がいたら——。


「今夜は、灯りを消すわけにはいかないな」


「私も手伝います」


「いや、お前は——」


「手伝います」


海音の目が、真剣だった。


「私、あの夜この光に救われました。今度は、私も光を守る側に立ちたいんです」


「……」


「お願いします。一緒に、灯台を守らせてください」


俺は、しばらく海音を見つめた。


青緑の瞳。嵐の夜を思わせる色。でも、あの夜とは違う。


そこには、意志の光が宿っていた。


「……わかった」


俺は頷いた。


「でも、無茶はするな。危なくなったら、すぐに宿舎に避難しろ」


「はい!」


海音が、満面の笑顔で頷いた。


窓の外で、風が一段と強まった。雨が横殴りに打ち付け始めている。


嵐が、始まろうとしていた。



◇◇◇



午後十時——。


灯台が、異常を知らせる警報を発した。



第十章 灯火の導き


警報が鳴り響いている。


「——発電機がダウンした!」


ランプ室に駆け上がる。灯りが消えていた。回転するはずのレンズが、静止している。


窓の外は暴風雨。視界はほとんどない。こんな夜に、光を失ったら——。


「灯火さん!」


海音が、合羽姿で駆け寄ってきた。


「何が起きたんですか!?」


「発電機の過負荷だ。メインがやられた。予備電源に切り替えないと——」


俺は、階段を駆け下りた。発電機室に飛び込む。


メイン発電機から煙が上がっていた。モーター部分が焼き付いている。この嵐では、業者を呼ぶ余裕もない。


「予備に切り替える。海音、上で待ってろ!」


「手伝います!」


「いいから——」


「灯火さん! 一人で全部やろうとしないでください!」


海音の叫びに、俺は言葉を飲んだ。


「……わかった。じゃあ、ここを押さえてくれ」


「はい!」


レバーを指さす。海音が両手で掴んだ。


「俺が合図したら、思いっきり引け。タイミングが大事だ」


「わかりました!」


俺は、予備発電機のパネルを開けた。


配線を確認する。接続部分の腐食。予想はしていた。この建物は古い。じいちゃんが生きていた頃から、いつ壊れてもおかしくない状態だった。


「……やるしかない」


工具を握る。


祖父の声が、耳元で響いた気がした。


『いいか、燈吾。機械ってのは、人と同じだ。労われば応えてくれる。信じれば、裏切らない』


「じいちゃん——頼むぞ」


配線を剥いて、直接繋ぐ。古い技術。今時の整備士は知らないやり方。でも、これしかない。


「海音、今だ!」


「はい!」


ガチャン、とレバーが引かれた。


一瞬の沈黙——。


ヴォン、と低い唸りが響いた。予備発電機が動き始める。


「動いた……!」


「よし! 上に行くぞ!」


二人でランプ室に駆け上がる。


レンズに光が戻っていた。ゆっくりと、回転を始める。


「灯火さん、点きました!」


海音が、歓声を上げた。


窓の外——暴風雨の中を、灯台の光が切り裂いていく。三秒に一度、閃光。水平線の彼方まで届く導きの光。


「……まだだ」


俺は、窓に張り付いた。


「え?」


「船が見える」


海音が、隣に来た。


「どこですか?」


「あそこだ。十時の方向」


指さした先——波間に、小さな影が見えた。漁船だ。波に翻弄されながら、必死に岸を目指している。


「座礁事故の救助に出てた船かもしれない。帰り道で嵐に捕まったんだ」


「でも、この波じゃ——」


「俺たちの光を頼りに来る。だから——」


俺は、海音の肩を掴んだ。


「絶対に、消すわけにはいかない」



嵐は、夜通し続いた。


予備発電機も何度か危うくなった。そのたびに俺が修理し、海音が補助した。


「灯火さん、コーヒー入れました!」


「ああ、ありがとう」


「次、何すればいいですか!」


「窓の水滴を拭いてくれ。光が弱くなる」


「はい!」


海音は、疲れた様子も見せずに働いた。令嬢育ちとは思えない根性だ。


(こいつ、本当に——)


強い。俺より、ずっと。



夜明け前、風が弱まり始めた。


ランプ室から見下ろすと、港に小さな船が入っていくのが見えた。あの漁船だ。無事に辿り着いたらしい。


「……よかった」


海音が、隣で呟いた。涙声だった。


「お前のおかげだ」


「え?」


「一人じゃ、持たなかった。助かった」


海音の顔が、ぱあっと明るくなった。


「私、役に立てましたか?」


「ああ。すごく」


「……えへへ」


照れくさそうに笑う海音。泥だらけで、髪もぐしゃぐしゃで、疲れ切った顔をしているのに——。


(綺麗だな)


ふと、そう思った。


「あ、灯火さん」


「ん?」


「海、見てください」


窓の外を指さす。


水平線の向こうから、朝日が昇り始めていた。嵐雲の隙間から、金色の光が差し込んでくる。


「綺麗……」


海音が、息を飲んだ。


嵐を乗り越えた海は、驚くほど静かだった。さっきまでの狂乱が嘘のように、波は穏やかに岸を洗っている。


「私たち、守れましたね」


「ああ」


「灯台も、光も、船も——みんな、守れました」


海音が、俺の手を握った。


「灯火さんのおかげです」


「俺だけじゃない。お前も——」


「一緒に、ですね」


微笑む海音。朝日に照らされて、その瞳がきらきらと輝いていた。


「……ああ」


俺も、笑っていた。いつ以来だろう、こんな風に笑ったのは。


窓の外で、灯台の光が静かに消えた。夜が明けたのだ。


でも、俺の中の何かが——長い夜を越えて、ようやく目覚め始めた気がした。



◇◇◇



嵐の夜が明けた翌日——。


思いもよらぬ来客が、灯台を訪れることになる。



第十一章 ざまぁの時


「——岬の灯台が、数十隻の船舶を救助。老朽化した設備を、一人の管理人が徹夜で守り抜く」


テレビの画面に、灯台の映像が流れていた。


「え……」


俺と海音は、呆然とテレビを見つめていた。


『昨夜の台風で、この海域では複数の船舶が航行困難に陥りました。しかし、この灯台の光を目印に、全ての船が安全に港へ戻ることができました』


インタビューに答えているのは、波多野さんだった。


『灯一郎の孫がな、爺さんと同じように光を守り続けたんだ。大したもんだよ。俺たち漁師は、あの光がなけりゃ帰れなかった』


「灯火さん、すごい……!」


海音が、興奮して俺の腕を掴んだ。


「いや、俺は別に——」


『さらに注目すべきは、この海域で先日発生した座礁事故との関係です』


画面が切り替わった。座礁した潮グループの貨物船の映像。


『事故海域は、数年前に灯台が廃止されていました。一方、今回船舶を救った灯台は、廃止計画から外れていた数少ない灯台の一つ。専門家は、灯台廃止がもたらす安全上のリスクを再検討すべきだと指摘しています』


「……」


海音の顔が、複雑な表情に変わった。


父が主導した灯台廃止計画。その皮肉な結末が、全国ニュースで報じられている。


「海音——」


「大丈夫です」


海音は、静かに微笑んだ。


「これが、現実ですから」



ニュースの反響は、予想以上だった。


『灯台を守り続けた男性に称賛の声』

『GPSがあっても灯台は必要? 専門家が議論』

『潮グループ、灯台廃止計画の見直しを示唆』


SNSでも話題になっていた。地域おこし協力隊の白石涼香が、灯台の写真と一緒に状況を発信してくれたらしい。


『この灯台を一人で守り続けた男性、マジでかっこいい。嵐の夜も灯りを消さなかったって。こういう人こそ、もっと知られるべき』


「……なんだこれ」


俺は、頭を抱えていた。


『いいね』が何千とついている。リツイートも。コメント欄には称賛の言葉が並んでいる。


「よかったですね、灯火さん!」


海音が、嬉しそうに言った。


「みんな、灯火さんのことを認めてくれてます!」


「いや、俺は別に、そんなつもりで——」


「でも、結果として救われた人がいるんです。それって、すごいことですよ」


「……」


言葉が出なかった。


『誰も見ていなくても、光を灯せ』


祖父の言葉が、脳裏をよぎる。


誰も見ていない——と思っていた。でも、見ていた人はいた。光を頼りにした船がいた。


俺の存在は、無意味じゃなかった。


「——っ」


目頭が、熱くなった。



その日の夕方、もう一つのニュースが飛び込んできた。


『大手商社、不正経理で摘発 役員ら逮捕』


見出しの下に、見覚えのある顔写真が載っていた。


榊原誠司。俺の元上司。


「……マジか」


記事を読み進める。長年にわたる不正経理が内部告発で発覚。関係者が一斉に逮捕された——。


その中に、美咲の名前も出てくる。


『榊原容疑者の交際相手とされる女性も、不正の一端を担っていた可能性があり、参考人として——』


「……」


複雑な気持ちだった。


美咲は、俺を『退屈で何の取り柄もない』と言って捨てた。『より良い男』を選んだ結果が、これだ。


因果応報、という言葉が浮かんだ。


「灯火さん」


海音が、隣に座った。


「元婚約者の方——」


「ああ」


「……大丈夫ですか?」


「大丈夫だ。もう、どうでもいい」


本心だった。


美咲への未練は、とっくに消えていた。今さら彼女がどうなろうと、心は動かない。


「それより——」


俺は、海音を見た。


「お前の方こそ、大丈夫か。親父さんの会社、大変だろ」


「……ええ」


海音は、窓の外を見つめた。


「でも、これは父が招いた結果です。灯台を『コスト』としか見なかった。その報いが来たんです」


「厳しいな」


「厳しくなんかありません。だって——」


海音が、俺を振り返った。


「私の命を救ってくれたのは、父が要らないと言った灯台なんですから」



翌日——。


予告なく、黒塗りの高級車が灯台に現れた。


今度は、使いの者ではなかった。


「——潮鋼太郎です」


車から降りてきたのは、白髪交じりの威厳ある老人。


海音の、父親だった。



◇◇◇



第十二章 灯台守と海の娘


潮鋼太郎は、想像していたより小柄な男だった。


しかし、その目には射竦めるような威圧感がある。大企業のトップとして、長年第一線を歩んできた人間の眼光だ。


「——お初にお目にかかる。霧島燈吾くん、だね」


「……ああ」


俺は、身構えた。娘を連れ戻しに来たのか。あるいは、報道への怒りをぶつけに来たのか。


しかし——。


潮鋼太郎は、深々と頭を下げた。


「娘を……この灯台を……守ってくれて、ありがとう」


「——え?」


「父様……!?」


海音も、驚いている。


頭を上げた潮鋼太郎の顔には、複雑な感情が滲んでいた。怒りではない。悔恨と、感謝と、何か別のもの。


「報道を見た。嵐の夜、君が一人で灯台を守り続けたこと。それによって、何十隻もの船が救われたこと」


「……」


「そして——娘が、君のおかげで生きていること」


潮鋼太郎の声が、わずかに震えた。


「海音から連絡があった時、私は——正直、何も感じなかった。『生きてます』という一言だけで、居場所も理由も聞かなかった。娘のことを、何も知らなかった」


「父様——」


「今回の事故で、目が覚めた」


潮鋼太郎は、海を見つめた。


「私がコストだと切り捨てた灯台のせいで、船が座礁した。そして、私が要らないと言った灯台を守り続けた若者が、何十もの命を救った」


「……」


「皮肉だな。私は、大切なものの価値がわかっていなかった。灯台も——娘も」


潮鋼太郎が、海音を見た。


「海音。すまなかった」


「……っ」


海音の目から、涙が零れ落ちた。


「お前を道具のように扱った。政略結婚を押し付けた。お前の気持ちなど、考えもしなかった」


「父様……」


「許してくれとは言わない。だが——」


潮鋼太郎が、俺に向き直った。


「この男となら、お前を任せられる気がする」


「——は?」


俺と海音が、同時に声を上げた。


「ちょ、ちょっと待ってください! 私と灯火さんは、そういう——」


「違うのか」


「違、いません……けど……まだ何も……」


顔を真っ赤にしてしどろもどろになる海音。


「……見ていればわかる」


潮鋼太郎は、かすかに口元を緩めた。


「お前がこの男を見る目は、母さんが私を見ていた目と同じだ」


「——っ!」


海音が、さらに赤くなった。


俺も、顔が熱い。


「霧島くん」


「あ、ああ」


「灯台廃止の計画は白紙に戻す。この灯台には、正式に管理費を出そう」


「……いいのか、そんなこと」


「私の会社が招いた事故だ。せめてもの償いだと思ってくれ」


潮鋼太郎は、もう一度頭を下げた。


「娘をよろしく頼む」


言い残して、黒塗りの車に乗り込んでいく。


残されたのは、呆然とする俺と、真っ赤な顔の海音だけだった。



「……なんだったんだ、今の」


夕暮れ時。灯台のてっぺんで、俺は頭を抱えていた。


「父様、勝手に——」


海音も、まだ顔が赤い。


「その、灯火さん」


「ん?」


「さっき、父様が言ったこと——」


「ああ」


「あの……どう、思いますか……?」


海音が、上目遣いで俺を見ている。夕日を浴びて、栗色の髪が金色に輝いていた。


「どう、って——」


言葉に詰まる。


考えてみれば、俺は海音のことをどう思っているのだろう。


嵐の夜に出会って、一緒に暮らすようになって、毎日一緒にいて——。


「……お前がいなかったら」


気づけば、口が動いていた。


「俺はまだ、一人で卑屈になってたと思う。自分に価値がないって、信じ込んだまま」


「灯火さん——」


「お前が認めてくれたから、俺は変われた。感謝してる」


「……」


「だから——」


言葉を探す。なんて言えばいいんだ、こういうのは。


「……俺でよければ——」


「灯火さん!」


海音が、俺に飛びついてきた。


「な——」


「私の方こそ! 灯火さんに救われたんです! あの夜、この灯台の光に導かれて、灯火さんに助けてもらって——」


涙が、俺のシャツに染みていく。


「私、ここで生まれ変わったんです。灯火さんのおかげで、生きていたいって思えるようになったんです」


「海音……」


「だから——」


海音が、顔を上げた。涙で濡れた青緑の瞳が、夕日の中で輝いている。


「あなたの光は、海だけじゃなく、私の人生も照らしてくれました」


「……」


「これからも——ずっと、傍にいさせてください」


俺は、答える代わりに——。


海音を、抱きしめた。


「……灯火さん」


「燈吾だ。いい加減、ちゃんと呼べ」


「……燈吾、さん」


ぎこちない呼び方。でも、悪くない。


「よし」


「えへへ……」


腕の中で、海音が笑った。


水平線に沈む夕日。頭上では、灯台の光が回り始めていた。


いつもと同じ光。でも、今は——。


「綺麗だな」


「はい」


「この光、じいちゃんから受け継いだんだ」


「知ってます」


「これからは、お前と一緒に守っていく」


「……はい」


海音の声が、震えた。


「私も、一緒に守ります。ずっと」


俺たちは、夕暮れの中で抱き合ったまま——。


静かに、口づけを交わした。


灯台の光が、二人を照らしている。


海だけじゃなく、俺たちの未来も、照らしているような気がした。



◇◇◇



エピローグ 灯火の約束


三年後——。


「いらっしゃいませー!」


灯台カフェ『灯火』。海音の明るい声が、店内に響いた。


「わあ、本当に灯台の中にカフェがあるんだ!」


「すごーい! インスタ映えする!」


若い女性客が、きゃあきゃあと歓声を上げている。


灯台の管理棟を改装して作ったカフェは、今では観光名所になっていた。SNSで話題になり、休日には行列ができることもある。


「あれが例の灯台守さん?」


「かっこいい……」


ひそひそ声が聞こえる。見られている。


俺は、いつものように窓際の席で海図を広げていた。今でも、天気図を読む習慣は変わらない。


「灯火さん、お客様から差し入れです」


海音が、笑顔でコーヒーを持ってきた。


「また?」


「『灯台を守ってくれてありがとう』ですって」


「……どういう意味だ」


「だから、灯火さんは有名人なんですってば」


三年前の台風の夜。あの報道がきっかけで、俺は『灯台を守った男』として知られるようになった。


今でも時々、取材が来る。断っているが、勝手に記事にされることもある。


「灯火さん、今夜も灯り点けるんですよね?」


「当たり前だ」


「じゃあ、私も手伝います」


「お前は店の片付けしてろ」


「えー」


海音が、頬を膨らませた。三年経っても、この仕草は変わらない。



日が暮れて、カフェを閉めた後。


俺は、いつものように灯台の階段を上った。


「よし」


スイッチを入れる。低い唸りとともに、巨大なレンズに光が宿った。


三秒に一度、閃光。水平線の彼方まで届く光。


『誰も見ていなくても、光を灯せ』


じいちゃんの声が、今も聞こえる。


「——灯火さん」


振り返ると、海音が立っていた。


「来るなって言っただろ」


「だって、今日は特別ですから」


「特別?」


海音が、俺の隣に並んだ。


「三年前の今日ですよ。嵐の夜、灯火さんに助けてもらった日」


「……ああ、そうか」


「忘れてたでしょ」


「忘れてない。ちょっと、曖昧だっただけだ」


「同じです」


海音が、くすくすと笑った。


窓の外では、灯台の光が静かに回っている。三年前と変わらない光。


「灯火さん」


「ん?」


「あの夜、死のうとしてた私に——『生きろ』って言ってくれた光」


「……」


「今でも、感謝してます。灯火さんと、この光に」


海音が、俺の腕に自分の腕を絡めた。


「あなたがいないと、生きていけません」


「……それは、俺の台詞だ」


「え?」


「お前がいなかったら、俺はまだ——卑屈な人間のままだった」


「灯火さん……」


「だから——」


俺は、海音の手を取った。


「ずっと、一緒にいろ」


「……はい」


海音の目に、涙が光った。でも、泣いてはいない。笑っている。


「ずっと、一緒にいます。灯火さん」


「燈吾、だ」


「……燈吾さん」


俺たちは、灯台の光の下で——。


静かに、口づけを交わした。



窓の外では、光が回り続けている。


海を照らす光。


俺たちを照らす光。


誰かを導く光。


——灯台の光が照らすのは、海だけじゃなかった。



【完】

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