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第20話 母との和解

 その日の夜、蒼太は母と向き合った。


 リビングの食卓。いつもの場所。でも今日は違う。蒼太は逃げなかった。


「母さん。話がある」


 母は警戒した目でこちらを見ている。


「俺……この2ヶ月くらい、隠してたことがある。塾をサボってたのも、成績が落ちたのも、理由がある」


 全部は話せない。魔法のことは、まだ。でも、嘘はもうつきたくなかった。


「俺、やりたいことが見つかったんだ。……正確には、やらなきゃいけないと思ったことがある。それに夢中になりすぎて、他のことが全部おろそかになった」


「やりたいこと?」


「うまく説明できないけど……人の役に立つこと。困ってる人を助けること。でもそれに必死になるあまり、一番近くにいる母さんのことを蔑ろにしてた。ごめん」


 母はしばらく黙っていた。


 ——蒼太には見えない。この食卓の向こう側で、母が5年間、何を考え続けてきたか。


 桐谷美咲が夫を失った朝。救急隊員が「ご主人は——」と言いかけた瞬間、美咲の世界は止まった。以来、時計は5年前のあの朝のまま止まり続けている。


 夫は「人のため」に働いた。取引先のために深夜まで残業し、部下のために休日を返上し、家族のためにと言い訳をしながら、自分自身を削り続けた。美咲はそれを止められなかった。「大丈夫だよ」と笑う夫の嘘を、見抜けていたのに——いや、見抜いていたのに——止めなかった。


 だから、蒼太には同じ道を歩かせない。それが美咲にとっての贖罪だった。成績を上げろと言うのも、いい大学に入れと言うのも、すべては「安全な人生」という名の檻に蒼太を閉じ込めるためだ。檻の中にいれば、少なくとも死にはしない。壊れはしない。


 ——でも。


 今、目の前にいる息子の顔を見て、美咲は気づいた。蒼太は檻の中でもう壊れかけていたのだ。あの日の夫と同じ顔をしている。疲弊し、追い詰められ、でも「大丈夫」と嘘をつく——その顔。


 自分がやってきたことは、夫を殺した世界とまったく同じことだった。


 母は深いため息をついた。


「……あなた、お父さんに似てきたわね」


「え?」


「お父さんも、そうだったの。自分のことより、周りの人のことを先に考える人だった。それで無理して……」


 母の声が詰まった。そして——初めて、息子の前で本音を言った。


「私ね、怖かったの。あなたがお父さんと同じ顔をし始めたとき、心臓が止まりそうだった。——でも、怖いからってあなたを縛り付けたのは、私の間違いだった」


 蒼太は目を見開いた。母がこんなふうに自分の弱さを見せたことは、一度もなかった。


「お母さんは、あなたの人生を決める権利なんてない。あなたの人生は、あなたのものよ。——ただ、お願いだから、一人で壊れないで。それだけは、約束して」


「……母さん」


「お父さんに言えなかったことを、あなたには言うわ。——無理しなくていいの。逃げてもいいの。ただ、逃げるなら一人で逃げないで。私のところに帰ってきて」


 蒼太の目から涙がこぼれた。母の目からも。


「俺は父さんみたいにはならない。ちゃんと自分のことも大切にする。勉強もやる。でも、それだけが人生じゃないってことも、わかった」


「……わかった。あなたを信じる」


 蒼太は、母に頭を下げた。母は立ち上がって、蒼太を抱きしめた。


 久しぶりの——何年ぶりかの、親子の抱擁だった。


 母の腕が、少し痩せていた。蒼太が戦いに明け暮れている間、母もまた一人で戦っていたのだ。この小さな台所で。この寂しいリビングで。亡き夫の面影と、壊れていく息子への恐怖の中で。


 ——俺は、この人も守らなきゃいけない。魔法なんかじゃなく。ただ、ここにいることで。



 翌日、蒼太は久しぶりに塾に行った。


 梓は蒼太を見つけるなり、いつもの自販機コーナーに連れ出した。


「おかえり。——顔、少しましになったね」


「成瀬さん。あのメッセージ、ありがとうございました。論文、読みました」


「読んだの? 真面目だなあ」


 梓はくすりと笑った。その笑顔は「氷の成瀬さん」というあだ名からは想像できないほど柔らかかった。


「成瀬さん。実は、相談があって」


 蒼太は迷った末に、一つの決断をした。梓にも、ある程度の事情を打ち明けることにした。魔法の詳細までは言えない。しかし「普通ではない事情で放課後に活動している」こと、「その影響で成績が落ちた」こと、そして「学年主任の毒島に目をつけられている」こと。


 梓は黙って聞いていた。眼鏡の奥の目は、何かを推測するように動いている。


「……なるほど。つまり、学校と課外活動の両立を、毒島先生に妨害されている状況ね」


「はい」


「毒島先生のFPS至上主義は、教育学的にはかなり問題がある。AIの予測は過去データの外挿に過ぎないから、環境変化に対応できない。でも、校内で正面から戦っても勝ち目はない」


 梓はタブレットを取り出した。


「だから、こうする。毒島先生の論理を、毒島先生の土俵で打ち破る」


「どういうことですか」


「FPSの算出ロジックは公開されてるの。成績、出席率、課外活動、面談評価——この4つの加重平均。今から期末テストまでに成績を劇的に回復させれば、FPSは自動的に跳ね上がる。毒島先生は自分が信じるシステムに裏切られることになる」


 梓はニヤリと笑った。それは「氷の成瀬さん」ではなく——かつて「悪役の物語」を愛読していた少女の、いたずらっぽい笑みだった。


「——え、成瀬さん」


「ん?」


「今のめちゃくちゃ悪い顔してました」


「失礼な。——で、勉強計画だけど。期末まで6週間。教科別の優先順位と、最短で点が取れる戦略を組むよ。私に任せて」


 蒼太は、この人を味方につけたことの幸運を噛みしめた。梓の戦略眼は、戦場でもテストでも——現実のルールで戦う上で、何より心強い武器だった。



 結菜がチームに加わったのは、この直後のことだった。そして——合流して最初の作戦会議で、早速衝突が起きた。


 場所は蒼太の部屋。梓がホワイトボード代わりのタブレットに、今後の戦略を書き出していた。


「まず、毒島先生を無力化する。FPSの論理で攻めるのが最も効率的。桐谷くんの成績を回復させつつ、毒島先生の不当な指導介入を記録して、必要なら教育委員会に——」


「ちょっと待って」


 結菜が手を挙げた。いつもの元気な声だが、目は真剣だった。


「成瀬さん。それって、毒島先生を『倒す』ための作戦だよね」


「そうだけど?」


「蒼太にぃが本当にやりたいのは、復讐じゃないと思う。蒼太にぃが勇者なのは、悪い人を倒すためじゃなくて——みんなが笑えるようにするためだよ」


 梓は眼鏡を押し上げて、結菜を見た。


「結菜ちゃん。気持ちはわかるけど、現実はそう甘くない。毒島先生は感情ではなくシステムで動く人間だから、感情で訴えても——」


「甘くないから何? 甘くないからって諦めるなら、それは『冷たい』のと同じだよ。成瀬さんのやり方は——」


 結菜が言い淀んだ。しかし、目は逸らさなかった。


「——成瀬さんのやり方は、頭はいいけど、心がない」


 部屋の空気が凍った。


 梓の表情が、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——揺れた。


 ——心がない。


 それはかつて、梓が親友を傷つけた時と同じ構図だった。正しいことを、正しく、冷徹に言って——相手の心を折る。結菜の言葉は的を射ていた。射ていたからこそ、梓の古傷を正確に抉った。


「……そう。そうかもしれないね」


 梓は静かに言った。声に温度がなかった。


「私は昔、『心がない』正論で、大切な友人を壊したことがある。だから今は、感情を排除して戦略だけで動くようにしてる。——でもそれが結菜ちゃんには冷たく見えるんだね」


 結菜が口を開こうとした。しかし梓が続けた。


「結菜ちゃんの言う通りかもしれない。でもね——」


 梓は自分の手を見つめた。


「——温かい言葉だけでは、毒島先生は止められないの。『みんなが笑える世界』を作るためには、汚い手も使う覚悟がいる。それを引き受けるのが、大人の役目だと私は思ってる」


 結菜と梓。理想と現実。温かさと冷徹さ。


 蒼太は二人の間で黙って聞いていた。そして——。


「二人とも、正しいよ」


 蒼太は言った。


「結菜の言う通り、俺が目指すのは復讐じゃない。でも成瀬さんの言う通り、優しさだけじゃ勝てない。——だから、両方やる」


「両方?」


「毒島を倒す。でも、叩き潰すんじゃなく、あの人自身のルールで。そして俺は、ちゃんと自分の力で結果を出す。——それが、俺の答えだ」


 結菜は数秒考えてから、ぱっと顔を輝かせた。


「……うん! それなら結菜も納得!」


 梓は——少しだけ目を細めて、微笑んだ。それは「氷の成瀬さん」の仮面が、ほんの少しだけ溶けた瞬間だった。


「……ふーん。青いね、桐谷くん。——でも、嫌いじゃないよ。そういうの」



 結菜が作戦会議で見せた電磁場データは、チーム全員を驚かせた。


 自作の電磁場センサーから得た波形データ。蒼太の部屋の方角から出る異常値と、渋谷の「異常気象」の周波数帯が一致するという分析結果。健吾のソフトウェア分析とは異なるアプローチで、同じ結論に辿り着いていた。


「結菜ちゃん、このデータ……いつから取ってたの?」


 健吾が目を丸くした。


「3ヶ月前から! 蒼太にぃの部屋の方角から変な電磁波が出てるの、最初はバグかと思ったんだけど。パターンを分析したら、蒼太にぃが帰ってきた後の決まった時間帯にだけ発生してたの」


「3ヶ月……お前、ずっと一人で……」


 蒼太は言葉を失った。結菜は3ヶ月間、誰にも言わずに蒼太の異変を追いかけていた。


「——えへへ。蒼太にぃが大変そうだったから、何かできることないかなって。結菜にできることは、発明だけだから」


 その言葉の裏に、蒼太は気づいた。結菜の笑顔の下にある寂しさに。


 結菜にとって「発明」は、誰かとつながるための唯一の手段だ。言葉ではうまく伝えられない想いを、回路とコードに変換して届ける。それが結菜の愛し方だった。


「結菜。ありがとう。——お前の発明は、俺たちにとって本当に必要なものだ」


 蒼太が真っ直ぐそう言った瞬間、結菜の目が潤んだ。


「——っ。泣いてない。泣いてないからね」


「泣いてるじゃん」


「泣いてない! ……ちょっとだけ嬉しいだけ」


 結菜はごしごし目を擦って、すぐにいつもの笑顔に戻った。


「よし! じゃあ結菜、通信デバイス作る! 蒼太にぃの光のエネルギーに同調する独自周波数で通信できるやつ! 侵食体の干渉も受けないはず!」


「……お前、いつの間にそこまで設計してたんだ」


「えへへ。3ヶ月は長かったからね。暇だったの」


 暇だったわけがない。3ヶ月間、一人で、蒼太のためにずっと考え続けていたのだ。


 蒼太は結菜の頭をぽんと撫でた。結菜はびくっと肩を竦めて——それから、満面の笑みを浮かべた。

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